仏・法・僧ということがあって
聖徳太子の言葉にも
「篤く三宝を敬え
三宝とは仏法僧なり」
とあります。
毎日に唱える三帰依(さんきえ)
にも
「帰依仏・帰依法・帰依僧」
と出てきますので
これは仏教の根幹をなすものです。
しかし、
「仏」と
仏の教えである「法」があれば
それで十分で
「僧」とは付け足しではないか
という方もいらっしゃいますが
そうではなく、
教えである法を
実践し具体化するには
「僧」ということが大切です。
僧とは「僧伽」といって
サンガ(samgha)という言葉の
音写したものです。
それを、和とか衆と訳し
和合という意味があります。
それで詳しくは和合衆、和合僧
といいます。
本来は仏法を信じ仏道を行ずる人々
の集団をいっていました。
それが単独にお坊さんのことを
「僧」というようにもなりました。
その僧伽について
『十地経講義』では次のように
述べてあります。
「つまり、
現実を恐れんけど現実を転機として
内面の世界を開くというのが仏教だ
この仏教の僧伽の、
僧伽ということがどうして
世間に関わるかという、
社会を改革するということじゃ
ないんですよ。
逆に、
我々が努力して変わっていくんです
眼を転ずれば、そこに開けてくる
これから作っていくんじゃない
始めからそこに開かれて
待っている
それを僧伽という。
何をうろうろ探しとったかという
仏教の僧伽ということを
〈大衆を統理して一切無碍ならん〉
大衆という意味ですね、僧伽。
それは何かというと
僧伽に帰命するんだ、
あるいは帰依するんだ。
帰依三宝という。
僧伽というものは
我々が作るものじゃない。
帰依すべきものなんだ。
人間の組合じゃない。
我々自身が値せずして、
それに召される。
僧伽になる資格なくして、
しかも召される。
僧伽をもってどうする
というんじゃなく、
僧伽をもったことが救いなんだ。
それは世間から逃げたんじゃない
だけど世間を肯定したんじゃない
世間の虜になったじゃない。
外の世界を縁として、
内面の世界を見出し、
内面の世界を見出すことによって
世間におって
しかも世間を超えておれる。
蓮華みたいなもんだ。
泥の中に咲くけど、
別に泥に汚れんから蓮華。
けど、
高原の陸地には蓮華は生えんでしょ
だからあえて恐れん、
濁っとることを。」
やはり「会」があるということ
救いなのです。
その会でもって何かをやる
ということでではなく
その会をもったということが
貴重なのでしょう。
損得勘定の世界で
ソロバンを外した
人間とか人生を考える
そいう時間と場所を持つということが
一番大切な事だと思います。
だから、仏・法よりも「僧」という
ことが重要なことなのです。
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