ただ、という字も
徒に(イタヅラニ)という
無駄という意味の「ただ」
もあります
また、辞書を見ると
常、というただもあります
普通にという意味のただ
でしょう
そして引っかかったのは
このロハと書く只です
只管打座の只管です
これも分かりにくい言葉で
「ロハ」
「今日はロハでお願いします」
と、ただにして、という
場合にもこの只を使います
それが仏語になると
只管と、
只という字はただこれだけ
という意味ですが
管というのは管クダという
節が取れた竹のことで
楽器の笛のことも管と
書きます
面白いのはお寺の管長さん
もこの管を書きます
この管には、つかさどる
という意味もあって
そこからお寺を司る人
という意味で管長さんと
呼ぶのでしょう
これが只管となると
ただそのことばかりに心を
用いる、という意味になり
ひたすらそのことに向かう
という、
また、打座というのは
打ち座るという
ただ座るのではない
打ち座る
座るということを強める
ことが打ちという語です
打ち進むということもあり
そこには
覚悟して座れよ、という
メッセージの様な
意味も込められているようです
それから、唯という言葉は
「唯識」という経典もあり
お経の中には
「識のみあって境なし」
という言葉があり
この場合の「唯」は
いろいろあるんじゃない
ただ「意識(識)」だけだ
という
他の考えを否定しています
ですから、
「唯」という字には
すぐさま返事をする声
という意味があり
ただ、といっても
「それだけ」という強い
意味合いがあります
お釈迦さまがお生れになって
七歩歩いて天と地を指さし
「天上天下唯我独尊」
と声を発せられたと
ありますが、
この時の「唯」も
ただ我一人という
一人の人間の尊厳性
ただ一般的な人間ではなく
人は誰でも唯一無二の存在
その尊さを宣言された
ということです
他を否定して自分だけが
という意味ではありません
「人間は自分の心に
自分が迷う」
ということをいいます
その迷っている自分の心を
明かにしていくのが
『唯識』という経典です
ですから、
先生が仰るには
「直感の鋭さよりも
厳密性が大事だと」
ということです
そこの人間の意識を
唯識という経典の立場が
あるようです。
ですから、このただ(唯)には
只と違って(ただひたすらに)
ということではなく
人間の意識の迷いを
明かにしていくという学問が
唯識という経典です
人間の煩悩の微妙な変化まで
見逃さないという
面倒なほどの厳密性が
あるように思います
ただ、といっても
いろいろな意味があるのは
非常におもしろい。
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