大工という面白い表現ですが
煩悩を組み立てている大工を
見つけたというのです
悟りを開いたということを
色々表現はありますが
たとえば、弘法大師空海は
室戸の御厨人窟(ミクロド)で
明星が飛び込んできた
というような表現です。
また、
いつも通っている
六角堂
ここには親鸞堂という
建物があります
29歳の時、比叡山から
百日間参籠して
聖徳太子が夢の中に現れた
という話しがあります
お釈迦さまは
苦行を捨て菩提樹の下で
瞑想されて成道されたと、
悟りを開くというより
成道と道を成した
人間としての本当のあり方
という道を成し遂げられた
成道には、降魔成道といって
魔という煩悩を下し
成道されたとあります。
講義では
「『阿含経』の言葉ですけど
『大工は発見されたり』
という言葉がある。
大工や。
面白いじゃないか。
三界という建造物ね、
六道とか、五種六道という
流転の大建築を作った大工を
見つけたというんだ。
とどめを打ったんだ。
見破ったいうんだね。
見破ったら
もう捨てる必要がない。
根が分かったから、
もうそれ以上、
根を見つけられたら
草ははたらかんです。
それを
回心懺悔(エシンサンゲ)という。
回心懺悔というのは
罪が消えることではない、
けど
罪に悩んどることではない。
罪だと分かったことや。
罪に頭が下がった。
罪がなくなったというような
ことではない。
そんな無反省なことではない
罪が浄められた。
頭が下がったことが
罪を解脱した証明なんだ。
上げとることではない。
罪に下がったら、
罪がなくなる必要が
ないんです。
そういうわけで、
大工は見つけられた、
なんぼ煩悩が起こっても
煩悩がですね、
はたらきをなすことができん
それで釈尊は成道した。
だから縁起というのは
迷いの縁起を悟ったんだ。
悟りの縁起を
悟ったんではないんだ。
だから
迷いが見つけられたんだ。
その十二縁起というのは、
大工のことや。
十二縁起は迷いの縁起
ですから。
迷いの縁起を
迷いの縁起と見つけられたら
それはもうはたらかんです。
迷いの縁起が分かったことが
迷いの縁起を超えたこと。
それで釈尊の成道ということ
があるわけです。」
悟りというと
転迷開悟といって
迷いを転じて悟りを開く
何かしら、すばらしいもの
智慧というかそういうものが
外から来たように
思うのですが
そうではなく自分の中にある
迷いの心が分かったという
そこが面白いところです
外からでなく
自分の中にある迷いの発見
そこはなかなか
分からないところです。
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