宗教というと救いとか救済とか
今ではご利益ということが
お参りの中心になるようで
何でもそちらの方引っ張られ
ご利益があることが
そのお寺とか神社の価値観に
なってきているようです
若い頃から、
どうにもそこらのことが
疑問があって
心の中ではご利益だけが
宗教じゃないだろうと
思いながらも
答えが
見つからなかったのです
十地経の講義は
ずっとここの段は
真理ということについて
いろいろな見方で説明されて
おられます
「これ(真理)は
誰にでもあるというような
ものじゃないかと
思うんですね。
それはその、
仏にだけあるもんじゃない。
凡夫にもある。
凡夫というあり方でも
失わんものです。
仏だけにあるものじゃない
凡夫にもあるものだと。
ただそれを、
それに出遇わんだけだ。
出遇わぬから凡夫に
なっとるだけの話だ。
出遇えば仏です。
そういうのが、まあ
自覚というもんじゃないか。
人間が自分を自覚するんです
自覚道ですね。
救済ということも、
キリスト教の救済と違うのは
仏教の救済は自覚という
意味が救済。
まあ救済でもいいけど、
本当に救われるということは
自覚するということが
本当に救われることだと。
自覚こそ本当の意味の
救済だと。
自覚の後に救済というものが
ついてくるんじゃない。
自覚ということの中に
救済があるんだと。
真理という見出された真理に
満足するということが
救いなんだと。
その真理を使って何か利益を
得るというのが救いじゃない
信仰を得たということが
救いなんですわ。
信仰を得れば、
それ以外のことを求めん
という。
それが救いじゃないか。
だからして、
流転というのも
信仰の中で流転する
そうすれば、
流転も流転ではないと。
かえって流転ということが
信仰を磨くものになってくる
あえて流転して差し支えない
と。
こういうものになってくる。
そういうのが仏教の意味の
救いじゃないかね。」
自覚が救いであると
自分自身を自覚することが
救いであると
述べておられます
なるほどと思うのですが
もう一つ考えてみると
分かったようで分からない
自覚ということが
本当の自分自身を知る
本当の自分とは
文中には
出遇えば仏、
出遇わぬから凡夫なんだと
と出てきますが
本当の自分とは自分の中に
眠っているほとけ
ということでしょうが
ほとけというと
何か立派なものを考えて
しまいがちですが
一面にはそういうことも
あるでしょう
しかし現実には
自分の本当の姿とは
悩み苦しんでいる自分
ということで
迷いの中にある自分という
そういうなかから
その迷いを
信仰を磨く糧にする
迷いという流転を排除する
ということではなく
迷いということを自覚する
迷いということが分かるのは
迷わぬものに触れているから
なのです
そういう自覚の仕方が
あるように思うのですが
まあ、理解しようとせず
そのまま読み込んでいけば
それでいいのでしょう。
何かしら難しいのですが
楽しいものです。
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