先日のテレビで
「世阿弥」のことが放映されて
いました。
世阿弥の言葉といえば
『花鏡』(カキョウ)の中にある
「初心忘るべからず」
という一文が有名です。
ちょうど、
『十地経講義』の中でも
初めに帰るというか
講義も進んで長い第七地が終わり
やっと、第八地というところに
入って来たのですが
この第八地に立って見直して
来るというのか
第初地の初歓喜地から
第二地、第三地、第四地と
始まって来たのです
私にとってはまた全体像を見直す
ということで有り難いのですが
いつも先生が仰るように
繰り返しながら展開していく
ということなのでしょう
やはりこれは実践に立てば
そういうことなのでしょう。
世阿弥の「初心忘るべからず」
ということも前後があって
「しかれば、当流に、
万能一の一句あり。
初心不可忘。
この句、三箇条の口伝あり。
是非初心不可忘。
(ゼヒノショシン ワスルベカラズ)
時々初心不可忘。
(ジジノショシン ワスルベカラズ)
老後初心不可忘。
(ロウゴノショシン ワスルベカラズ)」
という三句が述べてあります。
若い時の初心、人生時々の初心、
そして老後の初心。
これを忘れてはいけない
ということです。
仏教で志を起こし得度することを
初発心(ショホッシン)といいますし、
その得度する人を新発意と書いて
(シンボッチ)と読みます。
また、
初発心時すでに正覚を成ず
ということがあります
志(初心)を起こした時
その心には正覚(さとり)が
来ているのだということです。
なるほど、
得度する方のお顔を拝見すると
きりりとした顔には
これから厳しい修行に
入っていくという決心のような
覚悟した姿が見受けられます。
そのときには
正覚が成就しているのでしょう
しかし、
『十地経』ではそこから
第二地、第三地と次々に
地が展開していくのです。
そこには、さとったといっても
まだ、雑夾性が残っている
その対治が次々と出てくる
ということです。
講義になかでは、
初歓喜地をなぜ歓喜というのか
ということで、
「歓喜するということは
分別の固執を破るという意味
なんでしょう。
分別の固執を破って初めて
法界というものに触れる」
とありますが、
これは、
人間何がうれしいかといって、
やはり自分の執着というか固執を
破れたということが
一番うれしいのです
自分の妄執を克服できた
ということです
いくら自我を延長したところで
その時は何かいいように
思うのですが
心の底からの嬉しさはないのです
講義では
「分かったということの
誇りを破る」
とか、「慢」という表現で
出てきます
自分だけが分かったと
他の人とは違うという慢心
それを克服しないと第五地には
入れない」と
どこまでいっても
「慢」という雑夾性が
なかなか取れない
そういうことの対治が
地が進んでいくということです。
『花鏡』の中の、
最後の、
「老後の初心忘るべからず」
ということも、
この「慢心」の対治
ということと相通じるものが
あるように思うのです。
妙なもので、
年と共に慢心というか固執が
強くなってきます
頑迷固陋という言葉もありますが
年が取るほど頑固爺というか
扱いにくくなってくるものです
ですから、なおさらのこと
「老後の初心忘するべからず」
ということを噛み締めなければ
「万劫の初事」
ということがあります
出くわすありとあらゆることが
初めて出会うことのように
初々しく受け止められたら
それこそ、
「老後の初心忘るべからず」
ということでしょう。
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