信仰と信心、
似たような言葉ですが
少し違いがあるようです。
広辞苑とかではほぼ同義語として
解釈されています。
しかし、
仏教辞典とかではやはり
もう少し詳しく書いてあります。
信仰といった場合の
「仰」はあおぐとかおおせ
という意味で、
ひざまずいた人が立っている人を
あおぎのぞんでいるさまを
表しています。
ですから、
神とかを仰ぎのぞむという
上下関係というか
絶対者に対して服している
ということなのでしょう。
ちょうど講義では
「西洋の宗教思想というものは
セム民族が見いだしたんであって
イスラエルとかキリスト教とか
これは今日まで世界宗教を代表
しとるでしょう、
ああいう厳しい宗教がね。
あれにはギリシャの哲学も
論理ではいかなかったんでしょう
不合理だといってもね、
キリスト教に有名な言葉が
ありますけど、
不合理なるが故に我信ずる、と
こういうように
居直り強盗みたいな話ですけど
不合理だから我信ずるんだと。
こういうような逆襲してくる
だけの力をもっとるんです。
だから仏教はそのどっちでも
ないんです。
不合理だから信じるというのが
仏教でもないしね。
仏教の信心じゃないです。
仏教の信心はやっぱり智慧です
正信というような、
正見の智慧、正見の信心ですから
だから、
世間で対話するから、
我々は信仰という言葉を
使うんですけど、
信仰というのは世間の言葉を
使うんであって仏教では、
使わんです。
信心とこう言います。」
さらに仏教辞典をみて見ると
信の反対は疑で、
疑いをはなれた清らかな心。
というように出てきます。
仏法僧の三宝及び因果の理を
信じることで、
仏道に入る第一歩とする。
とあります。
ですから、
絶対者を信じるという信仰と
違うようです。
私たちの心は疑いしかない
のですが、(疑心暗鬼の)
そういう疑いの心を
澄んだ清らかなのもにしていく
精神作用が信ということです
ですから、
「鰯の頭も信心から」
というような信とは違います。
先生も智慧といわれるように
明らかにもごとを正しく見抜く
力ですから
そこには修行の中に
五根の一番初めの信根があり
五力の中に信力がるように
疑いの心で自分勝手に物事見て
判断する心を清らかにしていく
ことが信ということです。
五根の根は勝れたハタラキ
ということですが
眼耳鼻舌身も五根ですが
ここでは修行の道筋の
三十七道品の中の五根で
信根・精進(勤)根・念根
定根・慧根を指しています。
同じように五力も
信力・勤力・念力(憶念)・定力
慧力(智慧)の五つです。
いろいろ出てきましたが
修行においても
まず清らかな心で信じる
ということが仏道修行の第一歩で
何でもかんでも信じればよい
というものではないようです。
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