本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

稽首唯識性 満分清浄者

2021-12-21 19:50:03 | 十地経

稽首唯識性(ケイシュユシキショウ)

満分清浄者(マンブンショウジョウシャ)

 

という言葉で始まる

世親菩薩が作られた

『唯識三十頌』

(ゆいしきさんじゅうじゅ)

しかし、ここの部分は

世親菩薩がつくられたもの

ではなく、

この三十頌を解釈された

人の言葉です。

 

気になったところは

「満分清浄者」

の部分で、

満に分に清浄なるものに

稽首というのは

首を傾けるということで

南無ということになります。

 

「満に」というのは

法を完全に証して

清浄になった人ということで

つまり仏を指します。

満と分は位のちがいで

満は完全に証する

分は一部分を証する

ということです。

 

私たちが信仰をもった

ということは

信心開発カイホツといって

如来の心が私の上に実現した

ということです。

全体が実現したのなら

それは仏であるが、

如来の心の一分が我々の上に

実現したということです。

 

これは非常に大事なことで

信心が開かれた

ということは、

長い間、

我執に閉じこもっていた

私の天井の一角が

くずれたということであり

針でついたほどの、

ほんのわずかな青空が見た

ということでしょう。

 

これが我々が信をいただいた

ということの意味では

ないかと思うのです。

しかし、誠に

わずかな穴の中から見える

空ではあるが、

それはやはり大空の一部分で

あって、如来と同質である。

この点が大事である。

 

信をえても凡夫である、が

しかし、

凡夫であって凡夫でない

というのもが

なければならない。

つまり、「煩悩を断ぜずして」

ということは凡夫であるが

「涅槃を得」ということは

凡夫ではない。

 

つまり、

仏が実現した凡夫である。

ここをはっきりして

おかなければならない。

これが「分」ということの

大事な意味である。

 

この文章は

安田先生の講義をずっと

聞いてこられた

仲野良俊先生のものです。

安田先生が亡くなられたあと

その後、「十地経講義」を

続けてして頂きました。

安田先生の唯識の講義を

筋道を立てて構成し

一つの本として出されました。

 

今日のところで

感銘を受けるのは

満と分ということで

私達が間違いを起こしやすい

ところがあるのです。

ちょっとくらい話を聞いて

分かった気分になり

何かすべてが分かったような

錯覚に陥るものです。

自分の立場を忘れ、

そうではなく、

あくまでも自分の立場は

凡夫なのだと

ただ、

仏の一部分の心にふれた

そこが信仰を得たという

ことで

何もすべてが分かった

わけではないということです

 

この点を注意しなければ

とんでもない間違いを

起こしてしまうようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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