本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

ラブラブ 銀太と花子

2010-03-08 22:32:57 | 住職の活動日記
 昨日は、何とかぎりぎりで今日中に帰ってきました。

熊本駅に着いたのが、11時38分、12時までに家に着くことができました。

帰ってみると、



    



 『 花子 』 が 『 銀太 』 の胸に顔をうずめています。

とても気が合う    な二人なのですが、

今日はいつもと違うような甘え方です。




     



 銀太はオスで、身体も大きく、ジャイアンみたいですが、

とても優しく、いつも花子の母親代わりのような 「 やつ 」 なのです。


 この姿を見せ付けらると、疲れも何のそのです。  
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平成21年度西京極保育発表会

2010-03-08 21:26:30 | 住職の活動日記
 7日の日は少し早起きして、日帰りで京都へ、

『 西京極幼稚園 保育発表会 』 を観るためなのです。

毎年、この 『 保育発表会 』 と 『 運動会 』 は楽しみに

お邪魔しています。

 『 感動した! 』 ということでは表現できないほど、

何か凄いものを頂くことができるのです。

 いつも 「 今年は最高の演技でしたね ! 」

と、毎年言っているように思います。

 それは年毎に進化を遂げているということなのです。

では、今年は ? と聞かれると、


 「 まず、手の指先までが踊っていた。目が役そのものになりきっていた。 」  


ということです。

これは、手先しか踊ってなかった、ということではないのです。

担任の先生方が子どもたちをじっと見続けて、どの子にどの役をさせようか、

その配役選びから、

そして、毎日のあたり前のように続けられる、

整然とおこなわれる参仏の儀式、

そのことが自然と身に沁みていくのです。

その毎日の積み重ねが子どもたちのベースになっています。

 そして、役が決まると、練習に練習を重ねる日々が続き、

先ずそのことを身体が覚えていくのです。

身につくと、次は

指先まで神経が研ぎ澄まされ、

手の指先がその演技の細かさを表現していく、

ここまで言うと、そこまで子どもに求めなくても、といわれる方が居られるかもしれません。

 でも、子どもたちは 「 答えていく 」 のです。

そして、真剣に集中することの喜びを知っていきます。




      



 まだまだ、幼さが残る 「 年少さん 」 の

『 ペンギンちゃん 』 という、お遊戯です。



      



 年中組になると、物語、ストーリー性のある劇もできるようになります。

『 一休さんと水あめ 』 という、これは西京極幼稚園が始まってから、

ずっと欠かすことなく大事に演じられています。

 それが年長組になると、



     



 こういう、今はやりの 「 インフィニティー 」 という曲ですが、

実に激しいリズムに合わせて、踊って見せてくれます。

今の子どもたちですね、とても楽しげに踊るのですよ。



    



 これは 『 勝海舟 』 という、三波春夫の長編歌謡浪曲という、

勝海舟と西郷隆盛の出会いの名場面なのです。

とても長編の曲なのですが、子どもたちがそのものになりきって踊る姿は

見ている私たちまでもが、心にジ~ンとくるものがあるのです。


 驚くのは、感動を与えながら、なんと午前中で 『 30の曲目 』 、

そして午後からは 『 31の曲目 』 を演じきるのです。

これは、先生方と保護者の方々の一致協力の賜物なのです。 


 快い刺激が、帰りの新幹線の中でも続いていて

読書したり、思い出したりと、濃縮した時間を頂きました。  

 
 『 西京極幼稚園の園児さん とても素晴らしかったですよ。 』     



    

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今週の言葉 3/8~3/14 『 現在というものは … 』

2010-03-08 14:23:30 | 今週の言葉
      現在というものは

      過去に対する答えであり

      未来に対する約束である  


 『 煩悩 』 ということを言いますが、

「 煩悩がなければ、どんなにか幸せだろう? 」

「 煩悩まみれで、108ではすみません。」  とか、などなど …

 
 普通は、裸で生まれてきて、生きていくうちにいろいろな煩悩が

身についてくると思うのですが、

 仏教では厳密には、生まれてから起こった煩悩と、

生まれた時に一緒に持ってきた煩悩があるというのです。

裸で生まれてくるのでなしに、生まれた時から既に煩悩を持って生まれてきていると、

いうのです。


 自分自身を振り返ってみた時、

若い頃は 「 お父さんそっくりですね ! 」 といわれるととても嫌でした、が

だんだん年とともに、どことはなく父に似てくるのです。

それも、 一番嫌だ! と思っている所が似てくるのですね。 

そして、小さいころ持っていた 妙な癖、 のようなものが、

それを今でも引きずっているように思うのです。


 人生というものは、誰からか既に決められたものでもなく、

かといって、なんでも自分の思うように成るものでもありません。

 もって生まれたものの何かが、何かの縁でひっかかり、それを行っていく、

その行った結果が、自分の中に蓄積されていき、

その蓄積された経験が、次の行いを生み出していく、



   「 因を行じて、果にいたり、

     その得られた果にこたえるかたちで

     そのことが因となり、次の果を生み出していく 」



そのことの連続が、自分ということを作っていくのでしょう。


 今週の言葉は、表現は違いますが、何回か同じようなことを言ってきたように思います。

今私がこうしてある。

今私がこういうようにあるということは生まれてから作ったものではない。

昨日の私というものを今果しているわけです。

昨日の私に答えているのです。

今生きているということは、昨日の私に対する応答でありつつ

未来の私に対する一つの創作・創造というような意味を持っているのです。


 ですから、現在のこの一瞬、侮るべからずです !!

 なんでもない 『 今 』 の一瞬一瞬が未来の私をクリエイティブしているのです。     
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