蹴球放浪記

緩まない、緩ませない。
横着しない、横着を許さない。
慌てない、「だ」を込める。

次をつなぐプロジェクト。

2012-03-10 23:20:39 | 舞台のこと
 「演劇時空の旅」シリーズ「フォルスタッフ」を見に行ってきた。

 「演劇時空の旅」というシリーズが始まって、
ちょうどプロスポーツのトレーニングキャンプがある季節に
宮崎でこのシリーズを見ることになった。
というか、このシリーズがなかったらなかなか行く機会がないのだが。
だいたい2日有給休暇を取って、仕事が終わって夜の高速バスに乗って、
旨いもの食って、昼間はホークスとかジャイアンツとかフロンターレの
キャンプを見て、夜に時空の旅、てなある意味骨休め。

 けれど、去年からわたしの雲行きが少し変わりつつある。
去年は宮崎に一日泊まっただけで、満足に旨いものも食えず、
土曜日の昼にジャイアンツのオープン戦初戦兼宮崎打ち上げを
見て、夜に時空の旅、翌朝5時前に起きて博多まで高速バス、
博多から新幹線で広島、広島でベクトルを見学して
広島からB&S車で福岡に帰った、という日程。

 今年は今年で千年王國が宮崎にやってくる、それを見学、と
しかも日程が時空の旅と中数週間という間隔でさあ大変。
千年王國の翌日に鹿児島でLOKEがあるんで、
そことくっつけて日程を動かしてみようかと。
こういう訳で、鹿児島で泊まって、次との間が短いうちに宮崎でも
泊まりが入るのはお金が少ししんどくなる。
緊縮財政を進めなければいけないのに。
故に、フォルスタッフの週は往復新幹線日帰り確定。

 ・・・福岡から宮崎まで高速バスで通して乗ると、というか
南のほうに向かうと、寒いのとぬくいの通り越して暑いのに
体がやられて、おまけに八代超えて人吉の山々が黄色く霞むほど
花粉が降っていて、二重に体調を崩すパターンが。
しかし新幹線で新八代まで出ると、速さに体がごまかされて
そんなに体がきつくない、体から熱が抜けやすくなる、というか。
うとうとしていたらどんより曇っていた空が抜けるような青空。
程よい感じで宮崎到着。

 着いて、一息入れるタイミングを雪のおかげで見失った、というか
恐ろしくバタバタになって、メディキット県民文化センターに向かうため
まずは宮崎神宮までバスに乗り、神宮からお散歩。
ちょうどいい塩梅で場所につくが、千年王國の時と違い、
変な感じでスイッチが入っている。
こうなってしまうと、なんか落ち着かない。
いったいどうしたんだ、じぶん。

 その落ち着かない空気を抱えてハコの中に入る。
・・・森の中に「踏み込んだ」という感じだ。
客席がちょうど八角形になっていて、その真ん中が表演空間。
通常部隊が作られる方向の部分にある客席の段目にも
表演空間と音箱、そして客席の床にはかなり大きめの
ウッドチップがこれでもか、と敷き詰められている。
 そして、ところどころ建てこみに「未完成」の余地が仕掛けられてる。
ここに謎の男の人が飲んだくれに飲んだくれて行き倒れている。
というか、グダグダになっている、とも言うのか。

 これから始まる多くの謎があって、そのとっかかりが
色々と「むき出し」になっている。
この「むき出し」を収めるためにスタッフが電動工具を持ってきて、
未完成の部分を「完成」していく作業を始める。

 で、iPodで客入れ音をコントロールして
お客さんを「暖めて」行くボードビルショーという「前説」が始まる。

 ・・・女の子の髪型、もりもりの巻き巻きでなんだか
夜の商売やってるお姉さんが髪型セットして、
これからメイク入って戦闘準備に入ろうか、という感じだ。
そしてリズムをあえてバラけさせて「歴史上の重要な日付」を
淡々と言葉として「出している」。

女の子一人ひとりの「自己紹介」がいつの間にか「物語」へと
転がって、これは「夢」なのか、それとも「現実」なのか、
頭の中が土砂崩れを起こしてしまいそうだ。

 こんな不思議で恐ろしい表演空間で、シェイクスピアの
「戦もの」と「祝祭もの」の要素が両方共効いていて、
プレイヤーそれぞれの「素」と「演技」のスイッチの切替が
そろそろと効いていて、これが物語全体に「艶」を与えている。
加えて、「言葉」が歌っている。
言葉が歌っているから「日本語翻訳版」の持つ詞が活き活きとしている。
息の入れ方も「漫才」と「落語」そのものだ。
更にはひとつひとつの所作が能、狂言、そして神楽まで入っていて、
本当にシェイクスピアと日本の古典文化とは親和性がありすぎる。

 そして、物語は恋愛にまつわるもろもろ、ドロドロとしたことと、
「王位簒奪」をめぐるこれまたドロドロとしたことが無意識のうちに並立して
それを「黒一点」という存在が引っ掻きに引っ掻き回して、
この引っ掻き回し具合がものすごい勢いとなってそこにあるエネルギーが炸裂してる。

 まるで、これらの様はひとつの高度な文明が混乱して、混沌に変わって、
混沌がひどくなって破壊されて、その結果ありとあらゆるものがふんわりと消滅して、
けれども新しい文明の種はしっかりと残っている、そのサイクルがうまく表現できている。
しかし、ふんわりと消滅しているから「記録」や「記憶」が
次の世代にきちんと伝承されていない。
と言うか、できないようになっていて、「新しい文明の種」を見て、
新しい世代が戸惑う様子があのラストなのかな、と考えてしまう見後感。

 「恋愛」も「王位簒奪」もおんなじ戦場だ。
がだ、「王位簒奪」は命のやりとり。
比べて、「不倫」という恋愛のやりとりはなんて幼いものだろうか。

 基本的な骨組みは柿喰う客というカンパニーの
「女体シェイクスピア」という今後展開していくシリーズとほぼ一緒。
違うのは「黒一点」たる男子プレイヤーの使い方。
そして「ジャンクフード」の味わいと「天然素材できちんと出しを取る」味わいの
違いがくっきりはっきり出たかな、と。

さて、「九州のよりすぐったプレイヤー」を集めて
一ヶ月宮崎で「合宿して」質の高い作品を作る試みがもう4年目。
丁度いい節目だ、さらには年を追うごとに細かい変化が。

 一年目の「女の平和」と二年目の「シラノ・ド・ベルジュラック」は
普通の舞台と客席、という感じだったけれど、
三年目の「三人姉妹」から表演空間に大きな工夫を加えてきた。
その前二年の普通の舞台と客席とはいえ、表演空間に
「女の平和」は最後の最後で「青空と洗濯物干し」をばぁっと奥行きで見せ、
「シラノ・ド・ベルジュラック」は全体的な奥行きの深さが物語と響き合う。
そこから更に「一筋縄ではいかない」空間のつくりを仕掛けてきた。

 なんて言うか、「演劇」と「普通の生活」がギリギリ混ざるか混ざらないか
微妙なバランスで表演空間を仕掛けてきているな、という感じ。
前シーズンの「三人姉妹」は両面客席を挟んだ真ん中に
表演空間を作り、そのなかである一定の方向に「動きの流れ」を作って、
この流れが「時の流れ、というものは一定の方向でしか流れない」という
無常さとなって、チェーホフの持つ「生活って一体何なんだろう」という
テーマと響き合って、ひとつの「見方」が生まれて、次につながった見後感を持った。

 この見後感を携えて、「地点」の「桜の園」を見、アントンクルーの「桜の園」も見て、
感じたことが「人は、どういう形であれ、働かねばならない」、
「自分のためになしたことが他人のためになる、それが働く」、
「自分のために他人を働かせて、その利益だけを享受すれば報いを受けてすべてを失う」、
という3つが残酷なまでに美しい形で表現できている、ということ。

 で、今回の「フォルスタッフ」は様々な「人間が考えや意思をどうやって伝えてきたか」、
そして「その外に向かって表現された考えや意思をどう記録して後世に伝えてきたか」という
切り口で問いかけてきた、さらには「この記録」というものはある一定の世代にのみ
有効の記録であって、その世代が何らかの形で消滅すればその記録自体も
ほとんどが消滅して、新しい世代はまたまっさらな状態で歴史を紡いでいく、
ということを感じた。

 四年やってきて、ようやらやっと「最初のサイクル」が終わった。
最初のサイクルは「どういう作品を選んで、その作品に合う座組をどう編成するか」に
おいて、数々の試行錯誤を重ね、その試行錯誤によって、色々な「化学変化」が
生まれたのが長崎の川内さんと永山さんが組んだ「prayer/s」というシリーズであり、
14+のさとねーさんと永山さんが組んで「土地/戯曲」のツアー、その他
見えない所でたくさんの化学変化がじわじわと起こっている。
起こっているから、この「演劇時空の旅」に出ることが九州の演劇にとって
一つの「ステイタス」になりつつある、そんな感じになってきた。

 さて、次なるサイクルは「演劇が生活にできることってなんだろう」という
問いから始まるのかもしれない。
その問いの答えらしきものは宮崎で作ったものを他の土地で見せて、触れて、という
繰り返しでしか見えてこないのではないかな、と思うのです。
・・・だからこそ、他県での公演を徐々に増やして、その公演に子供向けの演劇体験や
中学、高校向けの演劇体験、あと次をつなぐ試みをその土地なりのアプローチングで
仕掛ける、というのはどうだろう?
ここにJR九州を巻き込んで、ホークスや九州のJクラブまで巻き込んで
「次をつなぐプロジェクト」なんて事ができたらこの企画を立ち上げた意味があるものよ。



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