蹴球放浪記

緩まない、緩ませない。
横着しない、横着を許さない。
慌てない、「だ」を込める。

どうなることかと。

2012-09-04 21:02:44 | 舞台のこと
 演劇大学に行く前がえらく大変だった。
送迎バスが出るところの集合時間が何時なのかまったく読めず、
有給休暇の残機がなくて、おまけに結構大変な金曜日、
ぎりのぎりまで働きたいが、中抜けの調整がまとまらない。

 チームの希望も何とか通ったが、いったいぜんたいなにをしたら
いいのかわからなくなる。
おまけに母が入院したことで生活環境がガタガタで一つ間違えたら
ぶっ壊れそうな雲行き、ぎりぎりでしのいで、調整して天神へ。
本当は、トレーニングキャンプで使う石鹸シャンプー、
そしてカミソリを買いに行きたかったが諸々の事情で石鹸のみ買う。
で、集まってバスで宗像のグローバルアリーナに向かう。

 どんどん、どんどん、バスは日常からわたしを遠ざけていく。
日常から遠ざかったところに広大な芝生となんとも立派な建物が。
バスを降りて、部屋に入ることのできる時間までお久しぶりですと
いろんな人と雑談兼、全体的な面子の確認。

 あとコーヒー飲んでぼーっとする。
程なくして参加費を支払い、室内のゲートを通り、敷地に入る。
・・・す、すげぇ、世の中の些細な事を忘れて
目標に邁進する、邁進できる環境とはこのことなのか。
森と緑の芝生に良い感じの宿泊棟、なんかすごくホッとする。
で、宿泊棟のミーティングルームと呼ばれるところに
畳を敷いたところが今回の宿舎。
本当は二段ベッドと個人ロッカーのある部屋もあるのだが、
予算の関係で(以下略。
競輪場の選手管理棟二階の控え室に布団を敷いて寝る感じ。
ないのは天井にタオルや着替えを掛けられるバトンと
個々人の私物を直しておけるプラスチックのかご、
できることは携帯電話やインターネットという「外部との連絡」。

 荷物をおいて、着替えて武道場で開講式、それから最初のセッション。
今回のセッションは「アボリジニ演劇を作る」。
で、「新しい目線で演劇を捉えたい」と演者ではなく、
演出的立場で参加したいな、と思ってオーダーを出したらすんなりと。
故に「いったいぜんたいなにをしたらいいのかわからない状態」が。
まあいい、講師の先生が全体的な調整をするからそれをサポートする感じで。
というわけで、最初の資料や台本の束を回していく作業から始めて、
基本的なレクチャーをして素読み、レクチャーをして素読み。

 こんなことを続けて、映像の準備して、光の関係で
夕飯の時間のあと実演映像を見よう、ということになって食事場所へ。
宿泊者用のレストランでたらふくは食わせてくれないが、
量およびバランスに富んだ食事が出たのはありがたい。
最近のスポーツ食はあまりトマトや果物類を出さないのか、
サラダ関係は別途サラダバーというものがあって海藻系とか
洋風和え物系があるのだが、基本生野菜はキャベツの千切り。
果物類は果汁ジュースすらもなかった。
・・・アレルギー対応なのかなぁ、特に果物の花粉関係。
まあ、ホットコーヒーがただで飲めたのはありがたく、
良いコミュニケーションの場ができた。

 時間を打ち合わせてコーヒー飲んで軽く雑談して
夜のセッションに入る。
実演映像をダイジェストで見てから公演作品を決めて
ひと通り役を決めてまた素読み。
自分はト書きを読みながら個々人の技量を確認し、
なんだかんだと実験を仕掛けてみる。
それぞれの流儀がぶつかり合っているなぁ、おい。

 そういったぶつかり合いが終わって、その場にいた
長老さんから簡単なアドバイスを貰い、武道場を掃除して
夜の全体ミーテイングへ。

 終わって大浴場で風呂に浸かって、歯を磨いたら眠くてたまらない。

タフに、もっとタフに。

2012-04-07 21:31:00 | 舞台のこと
 西南学院大学演劇部の新入生歓迎公演は野田地図が多い。
自分がはじめてみた時も「農業少女」、タイミング的に
前の月、ちょうど池袋の東京芸術劇場であった時。

 で、その時と前後して野田秀樹と中村勘三郎が組んで
なにか面白いことを9月におっぱじめる、つきましては相手役の女の子募集。

という連絡を聞いた、これが「表へ出ろぃっ!」との第一遭遇。
重ねて西南学院大学演劇部との第一遭遇とも言う。
・・・だって、東京のやつ面子的にも良かったし、行きたかったけれど
年度末、飛行機代があまりにも高かったら行ける訳、ないじゃないか。
というわけで、その代償行為で足を運んだ、ただそれだけ。

 それから時間が進んで、プレオーダー対策を進め、
緻密な戦略を立ててこの戦略を粛々と実行し、
実行の途中で熊本芸文祭の演劇公演が県立劇場演劇ホール
丸のままいち公演の予定を「大人の事情」でホールinnシアターを一本、
丸のままを一本、間隔は中一日。
という恐ろしい日程になることがわかり、
生まれて初めて福岡空港以外の空港から飛行機に往復乗る、という事態が。
さらには、熊本から福岡飛び越えて枝光に衛星を見てから福岡に帰る、という
「何やってんだ、じぶん」という遠征計画が目の前に出来上がっていた。

 金曜日、仕事をバタバタ上がってまだあの時は新幹線、という
便利なものがなく、水前寺駅までの有明、両数が少なくて、
遅く来たら自由席に座れない、指定席を取るにも席数が少なく
なんだかんだですぐ埋まる、確実に座りたければグリーン車。
水前寺駅について、県立劇場までタクシー、見て、泊まって、
・・・・・・というきつい日程を消化したら次から次へと別の日程がやってきて、
その日程を金と時間、それから人生をやりくりして何とか乗り越え、
出てきた課題を自分なりにこなしたら知らない間にタフになっていた。

 あの時は移動移動でからだに感覚がついていかず、
感覚の糸をうまく伸ばせず、そこで、今起こっているすべてを
飲み込むことが出来ず、何をどう見ていたのかわからないことが多かった。
けれど、今はどうだい、コンディショントレーニングと言う手法を学び、
移動のやり方、なんだかんだを工夫したお陰できちんとイメージを
感覚に留めさせることができてはいる。
だからこそ、去年の秋、鹿児島のCloverという劇団がやってた
同じ演目を見たかった。
まだまだ月全体の日程作りが精度甘い。

 こんな私的な話はさておき、本題に入ろうか。

 野田秀樹と勘三郎のやつは表演空間からポップでサイケな色調で、
座席の作り方から「能舞台」というか、「能楽堂」を丸のまま持ってきて、
そこに「日常の家庭」を作り、なにか異様だ、という「空気の圧力」ができていた。
始まる前からこの圧力のある不思議な緊張感が全体を包んでいて、
客入れ音はあったけれど、基本的には「無音の音」が頭暈と響いている。
 これが西南学院大学版になると「空気の圧力」が薄くなっていて
「こういう家庭で育たないとこういう学校には来られないのか」という
「日常」が表演空間からできていた。

 そこから物語に入れば野田秀樹版は勘三郎がお能の舞をひと通りやって、
というところを西南学院大学版は謡をひと通り謡う、という所で、
「シテ方」と「謡方」という役割の違いなのかなぁ、というところが
どことなくうっすらと見えてくる作りに持ってきた。

 全体的な流れも歌舞伎に、コント55号、さらにはプロレスとなんでもありを
徹底的に繰り出した野田秀樹版、どこにでもある中流以上の家庭で起こっている
「家族の仲違い」を再現した西南学院大学版という対比。

 さらにセリフ回し、ムーブマイム、野田秀樹と勘三郎は
徹底的に「崩して」きやがった、ということがよくわかる、というか
それぞれがそれぞれを「わかっている」から
あそこまで崩していける、だから空気を徹底的に圧縮しきって、
「逃げ場」がないよ、どうしようという感じが時間を追うごとに
じわじわ出てきて、挙句の果てには「空腹感」と「喉の渇き」までもが
見手の体にいつの間にか入ってきて、なんかへとへとになった時に
最後の地口落ちとカーテンコール時へレン・メリルの
”You'd Be So Nice To Come Home To"を聞きながら
出演者がラムネをプシュッとして飲むところに安堵感を感じさせるほどの
凄みを感じた見後感だった。
 それに対し、西南学院大学版はそういう緊張感がない分、
ゆっくり、まったりとした空気、なのだが
そういう「ええとこのお家」が持つ
「家庭円満、と見せかけて実はドロドロとしている」尖ったナイフのような
それはそれで恐ろしい緊張感がある見後感。

 「若さ故の鋭さ」というものを見境なく振り回して、その見境のなさ具合が
「自分が信じられないから他者、しかも強力な他者にすがっている」
様子が西南学院大学版は強く出ている。

 逆に野田秀樹版は「信じる」ってなに、「信じない」ってなに、というところを
ジリジリと問うて、自分でしか自分は救えず、自分ですら自分を救えないから
どうする、どうなる、続きはお前探せ、というメッセージを貰った。
だから後に続く「南へ」を見たかったし、また年度末の飛行機代の高さがあって、
代わりに広島で高群さんから野田メソッドのアレンジ版を体に入れ、
天辺塔の「オイル」を見、「The Bee」の英語版から
日本語版と言う流れになってしまった。

 西南学院大学版も「ザ・キャラクター」や「南へ」をやることによって、
そういう流れを作ることができたら、いろいろな意味で面白いことになりそう。

 あと、公演情報やなにやらをコリッチに登録していただけたら。

次をつなぐプロジェクト。

2012-03-10 23:20:39 | 舞台のこと
 「演劇時空の旅」シリーズ「フォルスタッフ」を見に行ってきた。

 「演劇時空の旅」というシリーズが始まって、
ちょうどプロスポーツのトレーニングキャンプがある季節に
宮崎でこのシリーズを見ることになった。
というか、このシリーズがなかったらなかなか行く機会がないのだが。
だいたい2日有給休暇を取って、仕事が終わって夜の高速バスに乗って、
旨いもの食って、昼間はホークスとかジャイアンツとかフロンターレの
キャンプを見て、夜に時空の旅、てなある意味骨休め。

 けれど、去年からわたしの雲行きが少し変わりつつある。
去年は宮崎に一日泊まっただけで、満足に旨いものも食えず、
土曜日の昼にジャイアンツのオープン戦初戦兼宮崎打ち上げを
見て、夜に時空の旅、翌朝5時前に起きて博多まで高速バス、
博多から新幹線で広島、広島でベクトルを見学して
広島からB&S車で福岡に帰った、という日程。

 今年は今年で千年王國が宮崎にやってくる、それを見学、と
しかも日程が時空の旅と中数週間という間隔でさあ大変。
千年王國の翌日に鹿児島でLOKEがあるんで、
そことくっつけて日程を動かしてみようかと。
こういう訳で、鹿児島で泊まって、次との間が短いうちに宮崎でも
泊まりが入るのはお金が少ししんどくなる。
緊縮財政を進めなければいけないのに。
故に、フォルスタッフの週は往復新幹線日帰り確定。

 ・・・福岡から宮崎まで高速バスで通して乗ると、というか
南のほうに向かうと、寒いのとぬくいの通り越して暑いのに
体がやられて、おまけに八代超えて人吉の山々が黄色く霞むほど
花粉が降っていて、二重に体調を崩すパターンが。
しかし新幹線で新八代まで出ると、速さに体がごまかされて
そんなに体がきつくない、体から熱が抜けやすくなる、というか。
うとうとしていたらどんより曇っていた空が抜けるような青空。
程よい感じで宮崎到着。

 着いて、一息入れるタイミングを雪のおかげで見失った、というか
恐ろしくバタバタになって、メディキット県民文化センターに向かうため
まずは宮崎神宮までバスに乗り、神宮からお散歩。
ちょうどいい塩梅で場所につくが、千年王國の時と違い、
変な感じでスイッチが入っている。
こうなってしまうと、なんか落ち着かない。
いったいどうしたんだ、じぶん。

 その落ち着かない空気を抱えてハコの中に入る。
・・・森の中に「踏み込んだ」という感じだ。
客席がちょうど八角形になっていて、その真ん中が表演空間。
通常部隊が作られる方向の部分にある客席の段目にも
表演空間と音箱、そして客席の床にはかなり大きめの
ウッドチップがこれでもか、と敷き詰められている。
 そして、ところどころ建てこみに「未完成」の余地が仕掛けられてる。
ここに謎の男の人が飲んだくれに飲んだくれて行き倒れている。
というか、グダグダになっている、とも言うのか。

 これから始まる多くの謎があって、そのとっかかりが
色々と「むき出し」になっている。
この「むき出し」を収めるためにスタッフが電動工具を持ってきて、
未完成の部分を「完成」していく作業を始める。

 で、iPodで客入れ音をコントロールして
お客さんを「暖めて」行くボードビルショーという「前説」が始まる。

 ・・・女の子の髪型、もりもりの巻き巻きでなんだか
夜の商売やってるお姉さんが髪型セットして、
これからメイク入って戦闘準備に入ろうか、という感じだ。
そしてリズムをあえてバラけさせて「歴史上の重要な日付」を
淡々と言葉として「出している」。

女の子一人ひとりの「自己紹介」がいつの間にか「物語」へと
転がって、これは「夢」なのか、それとも「現実」なのか、
頭の中が土砂崩れを起こしてしまいそうだ。

 こんな不思議で恐ろしい表演空間で、シェイクスピアの
「戦もの」と「祝祭もの」の要素が両方共効いていて、
プレイヤーそれぞれの「素」と「演技」のスイッチの切替が
そろそろと効いていて、これが物語全体に「艶」を与えている。
加えて、「言葉」が歌っている。
言葉が歌っているから「日本語翻訳版」の持つ詞が活き活きとしている。
息の入れ方も「漫才」と「落語」そのものだ。
更にはひとつひとつの所作が能、狂言、そして神楽まで入っていて、
本当にシェイクスピアと日本の古典文化とは親和性がありすぎる。

 そして、物語は恋愛にまつわるもろもろ、ドロドロとしたことと、
「王位簒奪」をめぐるこれまたドロドロとしたことが無意識のうちに並立して
それを「黒一点」という存在が引っ掻きに引っ掻き回して、
この引っ掻き回し具合がものすごい勢いとなってそこにあるエネルギーが炸裂してる。

 まるで、これらの様はひとつの高度な文明が混乱して、混沌に変わって、
混沌がひどくなって破壊されて、その結果ありとあらゆるものがふんわりと消滅して、
けれども新しい文明の種はしっかりと残っている、そのサイクルがうまく表現できている。
しかし、ふんわりと消滅しているから「記録」や「記憶」が
次の世代にきちんと伝承されていない。
と言うか、できないようになっていて、「新しい文明の種」を見て、
新しい世代が戸惑う様子があのラストなのかな、と考えてしまう見後感。

 「恋愛」も「王位簒奪」もおんなじ戦場だ。
がだ、「王位簒奪」は命のやりとり。
比べて、「不倫」という恋愛のやりとりはなんて幼いものだろうか。

 基本的な骨組みは柿喰う客というカンパニーの
「女体シェイクスピア」という今後展開していくシリーズとほぼ一緒。
違うのは「黒一点」たる男子プレイヤーの使い方。
そして「ジャンクフード」の味わいと「天然素材できちんと出しを取る」味わいの
違いがくっきりはっきり出たかな、と。

さて、「九州のよりすぐったプレイヤー」を集めて
一ヶ月宮崎で「合宿して」質の高い作品を作る試みがもう4年目。
丁度いい節目だ、さらには年を追うごとに細かい変化が。

 一年目の「女の平和」と二年目の「シラノ・ド・ベルジュラック」は
普通の舞台と客席、という感じだったけれど、
三年目の「三人姉妹」から表演空間に大きな工夫を加えてきた。
その前二年の普通の舞台と客席とはいえ、表演空間に
「女の平和」は最後の最後で「青空と洗濯物干し」をばぁっと奥行きで見せ、
「シラノ・ド・ベルジュラック」は全体的な奥行きの深さが物語と響き合う。
そこから更に「一筋縄ではいかない」空間のつくりを仕掛けてきた。

 なんて言うか、「演劇」と「普通の生活」がギリギリ混ざるか混ざらないか
微妙なバランスで表演空間を仕掛けてきているな、という感じ。
前シーズンの「三人姉妹」は両面客席を挟んだ真ん中に
表演空間を作り、そのなかである一定の方向に「動きの流れ」を作って、
この流れが「時の流れ、というものは一定の方向でしか流れない」という
無常さとなって、チェーホフの持つ「生活って一体何なんだろう」という
テーマと響き合って、ひとつの「見方」が生まれて、次につながった見後感を持った。

 この見後感を携えて、「地点」の「桜の園」を見、アントンクルーの「桜の園」も見て、
感じたことが「人は、どういう形であれ、働かねばならない」、
「自分のためになしたことが他人のためになる、それが働く」、
「自分のために他人を働かせて、その利益だけを享受すれば報いを受けてすべてを失う」、
という3つが残酷なまでに美しい形で表現できている、ということ。

 で、今回の「フォルスタッフ」は様々な「人間が考えや意思をどうやって伝えてきたか」、
そして「その外に向かって表現された考えや意思をどう記録して後世に伝えてきたか」という
切り口で問いかけてきた、さらには「この記録」というものはある一定の世代にのみ
有効の記録であって、その世代が何らかの形で消滅すればその記録自体も
ほとんどが消滅して、新しい世代はまたまっさらな状態で歴史を紡いでいく、
ということを感じた。

 四年やってきて、ようやらやっと「最初のサイクル」が終わった。
最初のサイクルは「どういう作品を選んで、その作品に合う座組をどう編成するか」に
おいて、数々の試行錯誤を重ね、その試行錯誤によって、色々な「化学変化」が
生まれたのが長崎の川内さんと永山さんが組んだ「prayer/s」というシリーズであり、
14+のさとねーさんと永山さんが組んで「土地/戯曲」のツアー、その他
見えない所でたくさんの化学変化がじわじわと起こっている。
起こっているから、この「演劇時空の旅」に出ることが九州の演劇にとって
一つの「ステイタス」になりつつある、そんな感じになってきた。

 さて、次なるサイクルは「演劇が生活にできることってなんだろう」という
問いから始まるのかもしれない。
その問いの答えらしきものは宮崎で作ったものを他の土地で見せて、触れて、という
繰り返しでしか見えてこないのではないかな、と思うのです。
・・・だからこそ、他県での公演を徐々に増やして、その公演に子供向けの演劇体験や
中学、高校向けの演劇体験、あと次をつなぐ試みをその土地なりのアプローチングで
仕掛ける、というのはどうだろう?
ここにJR九州を巻き込んで、ホークスや九州のJクラブまで巻き込んで
「次をつなぐプロジェクト」なんて事ができたらこの企画を立ち上げた意味があるものよ。


すべては繋がっている、さらに。

2011-12-13 22:01:03 | 舞台のこと
 うーん、スカウティングレポートにハンセン病を書き抜かした、不覚。
「四畳半の羽音」、鹿児島の座組でのリーディング公演に行ってきた。
まどかぴあでは高低がきちんとついていたのに対し、
鹿児島では純粋なリーディング公演、という作り。

 非常口としまださんの持ち味は、「生きていく」という感覚を
じっくり、ゆっくりと身体が丁寧に動いていくときに鳴る音が
ムーヴ・マイム、そして物語から聞こえてくる、みしみしと。
これらそれぞれが響きあってなんともいえない空間ができていた。

  さとねーさんはこの矯めている音が鳴っている代わりに、
「都市生活」の軽やかなスピード感覚が全編に流れていて、
「正統派博多演劇」を「現代口語」で演るという持ち味で
「閉塞感」の物語として恐ろしい何かが迫ってくるような感じがした。

 しまださんの持ち味のみしみし感をさとねーさんが取り入れた結果が
ゲハハだったのか、そこであまりにも粘っこく、あまりにも得体のしれない
「不条理感」として自身の「引き出し」の中に入れ込んだか、
おまけに「不運の受け入れ方」というところまできちんと工夫できていた。

 根底にある、全てはなるようにしかならない。
だからこそ、過度な危機感は持つべきではない。
けれど、人間というのは危機感を持てば持つほど臆病になる。
この過度な危機感による臆病からくる「生きていかなくてはいけない」と
すべてはなるようにしかならないとある種の覚悟を決めて、
腹を括った「生きていかなくては!」の
言葉の強さ、感覚の違いはどちらともきちんと見えている。

 この言葉の強さと感覚がまどかぴあのリーディング公演では
那珂川を挟んで昔色町だった春吉ら近辺の雰囲気を感じさせる
「艶」というものがくっついてくる。
反対に鹿児島リーディングでは先週見てきた大口の文化会館近辺の
川向の雰囲気や、文化会館隣の体育施設の集合体の持つ空気感がそのまま。

 物語の土台は去年の口蹄疫にまつわる諸々なのだが、
それからあとに起こった東北大震災、福島の原子力発電所爆発、
さらには広島、長崎の原子力爆弾、満州・朝鮮・中南米移民、白虎隊、
そしてハンセン病と、さらにはえたとの物語が
すべてひとつの線に繋がっている。
 これらの底に流れている暗黒のえげつなさをそれとなく見せる恐ろしさ、
そして、社会の繁栄のために、たくさんのものやひとが「隔離」という
犠牲になっているという現実。

 この犠牲に知らぬ存ぜぬを決め込んでいた方が、
またはその犠牲を積極的にでも、嫌々でも引き受けた方が幸せなのか、
どうなのか、自分は正直わからない。

 けれども、今、現実に起こっている出来事は
すべてある一直線上で繋がっていて、そうなるようにしかならない。
というか、なりようがないということもまた事実。
ならば、現実にどう向き合う、ということを強く問われている。

 このことを前提にすれば、「私たちは特別な存在である」という
「驕り」が事態をよりいっそう悪化させている。
という答えが出てしまう。
さらにはひとは生きていれば何かしら波風が立つ、
それをどう引き受けて生きているか、
そこに人間の真価があるのではないだろうか?

この現実を知らずに正しさを押し付けられても誰が聞くか、
反論するのもアホらしいので、黙るしかないんだよな。

そして、自分に与えられたつとめを黙々と果たすのみ。

果たせば果たすほど、世の中の歪みが見えて、壊れていく様子が見えてくる、
まるで蝶々がどこかに飛び去るように。
それは見るひとによっては美しいが、ものすごく切ない。


根岸響子・・・・・田中ロイジ(劇団XERO)・ ヒガシユキコ
 このおはなしを動かしていく存在。
両方とも、演者自身の持ち味をきちんと出している。
まどかぴあのほうは艶がある分、あっさり味が生きていたし、
鹿児島の方は「真実が知りたい」と「真実を隠している」という
相反する感情が台本を持つ手からも感じられた。
その感情をうまく読み取ってこの相反する感情を
コントロールできればロイジさんは演者としてもっと良くなる。

長瀬日菜子・・・・・春田久子(演劇集団非常口)・ 宗真樹子(劇団きらら)
 このおはなしの肝となる存在。
きららのまきこさん、演者としての「地」が見えた、という感じ。
いや、まあ、熊本で仕事をしているとき、折に触れてまきこさんが
きららに来る前、何をしていたのか、という話をよく聞いていて
その感覚がビビッドに役に入り込んでいて、妙にエロかった。
鹿児島の方はそのエロさが消えていて、なんていうのかな、
なんか複雑な家庭環境で親元を若いうちに離れて
伊佐のどこにでもある畜産工場に住み込みで働いていた、という
純朴な感じが出ていて、土のついた切なさがなんとも言えない。

水原志津恵・・・・・上田美和(高校演劇連盟)・ 中村とし子(九州小劇場)
 「ザ・体制側」というポジション。
まどかぴあの方は「閉塞感」というものを「おせっかい」という形でくるんで
突然牙を見せる、という感じで見せていた。
鹿児島の方は「閉塞感」をひたひた、じわりじわりと出して行って、
気がつけば「閉塞感」という罠の中に追い込まれてしまったという感じ。

矢野俊司・・・・・西山和仁(劇団いぶき)・ 村上差斗志(14+)
 「本音と建前」という「甘い善意」にくるまれた「悪意」を見せる
「狂言回し」のポジション。
まどかぴあの方は「これ以上やると本気でヤバイ」という
セクハラ境界線ぎりぎりの所まで「善意の甘衣をまとった悪意」を
変態的に表現できていた。
鹿児島の方は「慇懃無礼」とはこういうことだ、という感じでストレートに
というか甘さ控えめでじわじわと「悪意」を表現している。

根岸純平・・・・・前田茂喜(劇団LOKE)・ 前田直紀(劇団ひまわり)
向井瑞穂・・・・・馬場千里(アクターズファクトリー鹿児島)・ 成清暁子
 このおはなしのシンボル。
まどかぴあの方は都会的なキラキラとした空気が出ていて、
鹿児島の方は土の匂いのする純朴さという空気だった。

 トレーニング期間がまどかぴあのほうは全体の合わせが一週間と
結構な時間を持てていたのに対し、鹿児島の方は全体の合わせが
公演当日の朝から開演ギリギリまで、と時間がなく、
それぞれのプレイヤーがホンをひと通り読んで、自分なりに考えた
「役のすべて」を持ち寄って、いちど読んで、その結果と演出のダメだしを
元にして「一度役を壊す・組立て直す・微調整」の作業の精度と密度が
うまくできていなかったところが多々あった。
この作業の制度と密度をきちんとできたら、すごいのができそうだ。


 元カンパニーの非常口がこのホンを福岡演劇フェスでなるべく早く、
本当は来年のフェスに間に合えばいいのだが。
ということをいったが、まどかぴあと鹿児島リーディングがいい刺激になって、
来年一年間演者の布陣と制作の体制を整えて再来年実演に持っていきたい、
という次に繋がる希望ができて、まあなにより。

「お茶の間」へようこそ。

2011-10-22 22:50:16 | 舞台のこと

 柿喰う客を追いかける前に、まずは枝光。
まあ、いろいろなことがあって、携帯電話が電池切れで
博多駅のマクドナルドでお茶しながらある程度充電して
これ以上充電に時間をかけると間に合わない、という
タイミングまで粘って、特急に乗る、黒崎で乗り換えて
スペースワールドの駅、そこから
どしゃどしゃの雨の中を
ずぶ濡れになって
たどり着いたおかげで、
お茶やお菓子が
とてもありがたい。

 そうしているとひょっこり演者登場。
お客さんとコミュニケーションとりつつ、
ものすごく綺麗で、ものすごく個性的で、
ものすごくおしゃれな空気を辺りに振りまいている。

 と、突然、おしゃれな空気を振り切るように客席の段組にあった
お茶やお菓子をいつの間にか表演部のど真ん中に
置き直して、のんびりしている、と言うか、
やりたい放題、と言うか、なんとも言えない状況で
菓子を食って、お茶を飲んでじわじわと世界に入っていく。


 
 いつの間にか、私達の日常から自然な感じで
物語の日常へとストレスなく入っている。

 
 ここで繰り広げられる日常は「表現者」という
普通の人と同じようで、少し違う人種の日常。
一番上と末っ子が女の子で、身体言語を使って
表現をする仕事をしている。
真ん中が男の子で髪の毛をいじる仕事を通して
自分を表現している、というおおまかな紹介が入る。

 その三人が台風の日、電車が止まって
どうのこうのということから始まって、
なか卯のカツ丼がどうのこうの、とかモスバーガーが
どうのこうのだとかという食べ物の話に飛んで、
気がつくと一番上の子が
一番下の子と同居するようになって
外国での仕事が出来るようになった、という喜びと
苦労をいつの間にか体じゅうから話している。

 
 表現する仕事、というのは、行って、宿に入って、
自分の口にあうご飯を探して、自分にあった
トレーニングをして、ハコに入って、カンパニーで合わせて、
本番をして、ご飯を食べて、お風呂に入って、親兄弟に
メールなり絵葉書を書いて、寝る、その繰り返し。
その中で見つけた小さな発見や大きな違いを
ここまで率直に表現できている。

 こういう仕事をすればするほどいろんな発見をして、
その発見を体に落としこみ、また新しい表現を作って
この表現をお客様に見せて、お金をもらう。
自分はその発見から生まれた表現を見て、
自分の歴史と生活から生まれた表現と照らし合わせ、
また、別の発見をし、それを言葉にして不特定多数の
人間に見せて、何かをもらう。

 その作業をするために表現者と同じくらいの
トレーニングをして、体と心を作り、自分のスタイルで
勉強をし、自分が表現することで得ることができた仕事で
お金を稼ぎ、そのお金でたくさんの表現を見る。
これが私の新しい人生。


 そのひとつひとつの経験が心の布地に「ドット柄」となり、
そうしてできた心の布地で服をこさえて、まとうことで
いろいろな場所で戦っていくことができるのだ、
てかできるようになったのだ。
・・・だから「ドット柄の服は(最初から)持ってない
   (だから作るものだ)」という題なのかもしれない。

可愛いなりして刺激的なことをいうぜ、この姉妹は。

 この演目、「演劇」というにはフリーダム過ぎる。
けれども、このフリーダムでしか表現できないものも確かに存在するのだ。
 妹のほうがこふくのかみもとちはるさんに感じがよく似ているという発見も。


 
ものすごく居心地のよいところで「新しい演劇」を
楽しんで、そして終演後、
なんともいえない空気の余韻を
もっと楽しみたかった、けれど次なる用事で名古屋行きの
夜行バスに乗らねば、その前に汗を出して、
その汗を風呂で流さないといけない。
名残惜しいが時間が、これが去りがたし、という
心情なのかという見後感。

機会をください。@鹿児島(其の了)

2011-07-19 23:01:51 | 舞台のこと

 どうも、「なでしこのうた」を地で行くような快進撃だった。
・・・てか、あの歌詞のとおりだからこそ、世界「から」手を差し伸べた、というか。
これから、恐ろしく厄介で、面倒なものがつきまとうだろうけれど、
「志」というやつをそういう状況でも無くさないような姿勢、態度が表現できれば。

 さて、寄り道はここまでにして本題入るか。

【6本目 劇団コスモス】

 なんか、すげぇよ。
一青窈の「もらい泣き」から「ハナミズキ」までの世界観を
ああいう形で表現できるなんて。
そこにスズメが殺されたり、なんだかんだと血なまぐさいダークな
鬼束ちひろの世界観、という隠し味が効いている。
物語の手触りは毒々しささえ感じるナチュラルではない感じ。
そういうのを表情豊かに演るものだからゾクゾクするような怖さが迫ってくる。

 ダメ男とダメ女がDVの関係で、別れたいけれど、別れられない、
お互いがお互いに依存していて、わたしが殺されるか、あなたが殺されるか、
どちらかを選択しないと救われない、それくらい狂気が充満していて、
不感症という「心の病」を受けた人の苦しみ、哀しみ、が狂気を倍増させている。
愚かさや、汚さ、という水を凍らせて、みぞれを作り、そのみぞれをうっかり食べた。
そういう見後感。

 「遊びなし」でダークな世界を「一人芝居」でここまでやれるとは、すごいもんだ。
・・・もし、5月のINDEPENDENT九州トライアルにこの演目がエントリーしていたら
いったい、どうなっていたのだろう?
もう少し「狂気」をぎりぎりのところまで「研いで」いないところから来る
若干の甘さがあったのと、ざわ感や足音を生かした「仕掛け」の処理を
INDEPENDENT向けに調整する、という作業は必要だが、出たらいい勝負。 

【7本目 Alm Dawn】

 初手から掴まれた。
マイケルジャクソンの"BLACK or WHITE"で朝起きてから着替えるまでの
ムーブマイムをひと通り作れるなんて、こういう使い方もありなんだ。
あとはある男の人の日常をマイケルジャクソンの音に乗せて
軽やかにやってのけた。
・・・このパターン、東京のピィキィ*パァクウというカンパニーが
シルク・ドゥ・ソレイユ、というものを使っておんなじように表現しているのを
去年、島根県松江の山の中で見たのです。

 その文脈からしたらフィジカルが若干甘いところがあるし、
もう少しマイケルジャクソンの「音」が身体の中から「鳴って」いたら
もっと、もっと楽しかった。
あと、全体的に身体を作っていったら更に良くなる。
「純粋」にからだで「しゃべれている」からなおさら。

 マイケルジャクソンは「魅せて好、聞かせて好」というのが胆で、
その肝もちゃんと出せていた、その隙間すきまを埋めていく
「ヘタウマ」風味のコーディネーションの曲がつい最近までは
Perfumeの「チョコレイト・ディスコ」やら「マカロニ」を使っていただろうに、
いつの間にやら少女時代やらKaraになっていた、時代の流れは激しいよのぉ。

 あと、福園さんのOL服、よく似あってますわ。

 今年は去年よりも色とりどりで、外国の方も出ていたりで
多様性、というやつがよく出ていた。
 
 多様性が出ている、ということはそれぞれのスタイルを
「許している」空気感がそこにはあって、自分はそこに安堵する。

 観ることで、観られることで初めて「鍛えられる」のだ。
「鍛えられる」からそれぞれの「化学変化」がきちんと出来ている。
こういった「野試合」はどんどんやってくれ。


機会をください。@鹿児島(其ノ参)

2011-07-17 22:09:29 | 舞台のこと

 さてと、いよいよ核心に入ってきた、と言うか。

【4本目 ジャッド会】

 福岡の劇団PA!ZOOのようなホームドラマ風味で、
全体を彩る色調は宮崎のこふく劇場の趣。
演じているプレイヤーは四十、五十の手習いに演劇を始めました、
という今までにはなかった流れ。
 そういう人たちだからこそできる「演劇」というものはあるのだな。
ま、なんてことはない世代を超えた夫婦のおはなし。
ありとあらゆる修羅場を乗り越えて穏やかに、
不満も多少はあるけれど、まあぼちぼちやってますわぁ、
これから夫婦という「登山」にでかけます、という三者三様の
「人生物語」が「役の中の人生」と「実際に生きた人生」を
ほどよい感じで混ぜ込んで、不思議に惹きこまれてしまう。

 というわけで物凄く、ムーブマイムが自然、おまけに感情も素直。
「娘の幸せは、わたしの幸せ」と勘違いしがちなところやら、
「子の心、親知らず」とか、若い男女ふたりが共に人生を始めるに
当たってぶつかる「最初の障害」を等身大で表現できている。

 で、複雑がピークになったとき、反対いうてた父が突然倒れて
半年間も入院・リハビリ、リハビリの担当がたまたま娘の恋人だった。
で、お互いがお互いを知って、収まるところに収まって、めでたし、めでたし。

 こういう状況では暗くても見えやすいんで、出はけにも心を行き届かせるところと、
突然倒れるところが、「脳関係」で倒れたのか、「心臓関係」で倒れたのか、
見手にははっきりと分かりにくかったのです。
半年入院・リハビリだったら多分脳関係の疾患と思うのですよ。
・・・それぞれ、倒れ方って違うんじゃないのかな。
あと、娘の恋人役の人がミズノの2万円もする最高級ランニングシューズを
履いていたのは、内緒だ。

【5本目 劇団いぶき】

 南薩、加世田・枕崎方面で34年間、いちから自分の力で演劇してきたカンパニー。
初手から「ものすごい手作りのエンターテイメント」が炸裂してる。
感じとしては長崎の謎のモダン館、そこに福岡の高野ヒロノリという
最近つとにいい味出してる映像作家が作っていくような映像をオープニングに
混ぜ込んで、まずはジーザス・クライスト・スーパースターの始まりのように
三々五々集まって、演劇の準備を始める。

 そこから「糞がしたい」というある意味下品なことを
エンターテイメントに仕立て上げ、それをスイッチにして
毛皮族の江本純子風味の女の人が不思議な世界に半ば強引に持っていく。
あとは「演劇をめぐるもろもろの葛藤」をガチで演劇使って表現しつつ、
南薩にある「釜蓋神社」という縁結びの神様をめぐる「婚活」の話を
隠し味に効かせて、「人は運を運ぶ、方舟だ」という
不思議な悪魔と不思議な天使の「運を廻る冒険」にまで持って行きやがる。

 あと、すごいのは楽器演奏やら合唱やら、ダンスやら、当然演劇も、
板の上にいるひとりひとりがそれぞれ何かしらひとつの「できるもの、できること」を
持っていて、それをそれぞれが持ち寄って「良い響き」というやつを作っている。
・・・「未定」なんて勿体無いよ、ちゃんとした形でぜひ見たい。

 この二つを見て、「自分を拓くために演劇をする」というのは有りなんだよな。
けれど、「自分を閉じるために演劇をする」こともこれまた有りなんだよな。
でもなぁ、「自分を閉じるために演劇をする」人たちは知らない間に
その回りを窮屈にさせている、というか窮屈にさせていることを楽しんでいる。
だったら、「自分を拓くために演劇をする」ほうがこうやって知らない人たちを
楽しく、朗らかにしているじゃねーか。
だったら自分は「自分を拓くために演劇をする」、ただそれだけ。


機会をください。@鹿児島(其ノ弐)

2011-07-16 23:14:53 | 舞台のこと

 さて、さくさくいくよ。

【2本目 アクターズファクトリー鹿児島】
 前回は福岡の「劇団カミシモ(現劇玩カミシモ)」テイストの
不思議な世界をいくつか「小品」として見せて、つなぎ合わせる形だったけれど、
今回は「謎の殺し屋集団」をめぐるサスペンス・コメディで最初から最後まで
物語を統一する格好。
 
 見せる技量も「劇団ショーマンシップ」が時折見せてくれる、
「高い技量でシュールかつ、お馬鹿な世界を見せていく」テイストで
暗殺者から町内会、それからまた暗殺者、と言いまつがいやら
ブラックなギャグをかませつつ、「赦すって何よ・生きるって何よ」と
「家族って、何よ」、「殺しはしないが、助けない」という真面目な肝も伝わって、
最後、なんとはなしに「新しい家族」を作って、それゆけワンダー3。
・・・あの展開でTM Networkを使うなんて、正直反則だ。

 

【3本目 演劇ユニット火曜市】
 こらまた、どこぞのスーパーマーケットのような名前だな、と
観てみたら、何だコリャ、福岡で酒瀬川真世やら古賀今日子がやりそうな
オシャレなカフェでの演劇、俗にいう「テアトル・ソネス」風味の演劇が
鹿児島でもできるなんて。

 父親がある日、突然失踪してそれからずっとひとりで生きてきた女の子。
なんか、「自責の念」を抱えてずっと生きてきた。
そんな時、突然「孤独死の後始末専門のNPO」の人がやってきて、
手紙と、父の形見のオウムを持ってきた。
女の子は、最初「知らない」という、当たり前だ。
今まで嫌な記憶を何処かにほったらかしにしてきたのだから。
そこから始まるオウムとわたしの奇妙な生活。

 奇妙だけれど、その中でいろんな記憶が引っ張り出されて、
「父は娘を見捨てて行ったわけでもなく、たった一度娘に自分の感情で
 手を上げてしまった、そのことが情けなくて、許せなくて」ということが
じわりじわりと湧いてきて、不思議な感情が起こりながらも、
最後、その貴重なオウムをほしがっている金持ちにうまく売りつけて、
そのお金で父と母のお墓を作って、きちんと供養して新しい人生を始める。
 「動物の個人売買は動物愛護法により禁止されています、真似しないでね」
というオチに「ズバットは大変危険です、よいこのみんなは真似しないでね」という
懐かしさを感じてしまったところに座布団一枚。

 ・・・これぐらいはっちゃけたニュー酒瀬川が見たいのですよ。


機会をください。@鹿児島(其ノ壱)

2011-07-14 23:14:36 | 舞台のこと

 あの一派が醸し出している「変な空気」というものがないのは
ものすごく何よりだ。

 さて、見本市のレギュレーションは去年といっしょ。
仕込みから本番、撤去までを30分以内でやる、ただそれだけ。
去年は6つだったのが、今年はひとつ増えて7つに。
時間表示のスクリーンもなく、あくまでもシンプル。
そんな中、進行のおねえさんがやってきて、一言。
「ツボにハマれば笑ってもいいし、とにかくからだ全体で見てくれ」と、
・・・例の件、知らない間に伝わっていて、ある意味気を使わせてもらってすまない。
がなぁ、今年の進行のおねえさん、某国営放送サッカー中継のアシスタントやってる
「肩岸さん」に感じが似ていて、なんとも言えないやぁと思っているうちに一本目。

【1本目 劇団CLOVER】

 ハコに入って、前の真ん中がもう入っている、なんでだろう、と
思っていたら、そういう「仕掛け」だったのですね。

 何かを待っている女の苛立ち具合から客席からの出し入れを使って、
「現実」と「嘘」の境界線をうまく曖昧にして物語を作ってきやがる。
 「堅物のお兄さんに結婚相手を紹介したい、がだ、やばい事情がある、
 今日だけでいいから適当に男の子見繕って」てな塩梅で知り合いの
劇団に頼んで、派遣してきたのは「ちびまる子ちゃん」に出てくる
永沢君というある意味シニカルさを持ったのがそのままおとなになったよな感じ。

 そういう一筋縄ではいかない男と女のそれぞれの「ストーリー」というか
「人生のゲームプラン」が真っ向からぶつかり合い、
男が「自分とは違う自分を演じているといつの間にやら感情が消えて、
これじゃいかんと、演劇を使って、自分を何とかしたい」という事を話し、
結構収入やらがいいところをうっちゃって自分を取り戻したい、という覚悟、
こういうことを感じる前提としての「本質を見抜く力」が関係を近くして、
女にとうとう、この恋愛は「略奪愛」でした、と本音を吐くまでの関係性が出来てる。
「演劇を真剣にやるといつの間にか裸の自分をさらけ出してしまう」というか。

 そこに10月公演で演る「表へ出ろぃっ」で使うムーブマイムや
場面をそれとなぁく混ぜ込んで、「次回予告」という形にもまとめて
「なんか観てみたいよなぁ」と興味をそそられる作りにまとめた。
にしてもだ、この演目、去年野田秀樹と中村勘三郎で演ったときの
上演時間は80分、19時に始まって、終わったのが20時20分。
で、ここのチラシを見ると上演時間は60分。
稀代の名優ふたりと若手女優で80分、それも密度の濃いやつだったのを
どういう「魔法」を使って20分の尺を「埋めて」いくのか、すごく楽しみだ。


機会をください。@鹿児島(前振り)

2011-07-13 22:42:14 | 舞台のこと

 ・・・という「気迫」が今年も満ち満ちていた。
てなわけで今年も来てしまいましたがな、鹿児島演劇見本市。
去年行って、あの後色々出して受けてをしたから
「寄る辺の無さ感」というものがない。
あちこち探しまくった吹上庵もうまく見つかって、
前の晩、夜釣りで飲みまくったおかげで、上手く食べられず、
それでもかき揚げそばを食べた。
・・・ここの細いお蕎麦は「冷やし」で食べたらうまい、という発見。
ぬくいやつは太めの田舎にすればいいのかなぁ、今度試してみよう。

 去年行って、そのスカウティングレポートがああいう形で
「公式」に回されると「行かない」を安易に言えなくなってしまう。
さらには今年もお盆前あたりにあるのかなぁと思いつつ、
去年の「発見」だったノヴァの刺身が7月、それも九州演劇ミーティングと
日程丸かぶりで公演を打つ、それと同時に演劇見本市、7月頭に開催。
・・・やばい、新幹線2行程、という芸当ができるほど懐に余裕がない。
というわけで、九州演劇ミーティングからショーマンインプロショーケース経由
ノヴァの刺身の行程は往復新幹線の行程を採用。
演劇見本市は行きは「九州新幹線de高速バス切符」という
九州新幹線の切符をみどりの窓口で買った領収書をバスの窓口で
出したら高速バス切符が正規の回数券、バラの値段で買える、というものを採用。
これ、「金券ショップ」対策なんだよなぁ。
帰りは次の日朝早くから働かなくてはいけないので新幹線。
これだったら、金曜仕事終わって、行って泊まって(以下略。

 翌日、シクシクとする胃袋を抱え、鹿児島中央駅のバスセンターから
鴨池の市民文化ホール行きのバスに乗る。
九州南部は梅雨が明けた、といっても、まだまだ空が濁ってる。
おまけに乗ったバスがあちこちくねくねと遠回りで正面に近いところに着く。
あそこら近辺、鹿児島太陽国体で作られた陸上競技場と公園と桜島がセットに
なった景色なんだよな、Jリーグ開催のおかげでバックスタンドが出来て
景色が寸断されたけれど。
あと、陸上競技場の電光掲示板、そろそろフルカラーのLEDにしないとね、
ついでにゴール裏、芝生から立ち見の柵、にしていただければよろしいかと。

 で少し日に当たってから文化ホールの中へ。
色々と雑談をしてドアが開くのを待つ。