やっとしんどい月が終わった。
本当にきつかった。月はじめは長崎に泊まりで、
さらに仕事の次の日にサマーミーティングで佐賀に泊まりでいじられる。
重たいの抱えて仕事して、雨降るのにいらいらして、
おまけに自分のことで怒っているのではなく、
その人の不誠実な態度に怒っていることがわからないことで
怒りのチケットを切ってしまい、
殺すか殺されるかの状況になって辛かった。
・・・さあて、来月は更にたたかっていかないと。
われらが愛媛は質の高い兵隊はいるが量が足りない。
福岡蜂はそこそこの質の兵隊はたくさんいるが勝負を決めるだけの質を
持ってはいない。
だから引き分けという結果だったのかな。
愛媛の課題はあとは場数をたくさん践むことかな、
まだまだいろんなスタイル、流儀、やり口をほとんど体験できてないし、
スゥィングできてない。
涯なき道を長く踏める脚を作っているということと考えないと。
今回は単独徒歩で向かう人向けに手短にまとめるよ。
JRが一番手っ取り早いです、KK行くのに関しては。
船で小倉、夜行バスで博多駅について特急が最寄りの駅まで走っているし、
割引切符だって追加料金なしで使える。
どうしてもバス、だったら九州圏内のバス3日間乗り放題のパスの北九州版を買うこと。
いまからだったらまだネット通販で買えるし、松山福岡の夜行バスの絡みで
松山のいよてつチケットセンターで買えるかもしれない。
九州圏内で買うと8000円するのが、事前に四国地方に通販で送ってもらったり、
買ったら6000円で買える。
これだったら小倉天神の高速バス往復と天神熊本の高速バス往復で元取れて、
しかもKK最寄りのバスまで乗れる。
更に予定変更して次の日熊本から大分まわって帰ることもできる。
・・・是非、ご検討を。
去年の九州圏内で実質高い評価をもらったカンパニーにぽんの無料使用権を
やった公演の絡みで、ということでそれに沿った日程の組み方をして、
チケットの手配をやった。
これを取りに行って、月いちのスペオリで状況報告。
…まあなんとか前に進んではいるのかな。
見栄えだけにこだわり過ぎて内面をきちんとやらないところだから
凄みがわからないだけで。
その後、舞台のオフィスに久しぶりの挨拶回り。
…なんか、昨日のベアスタの話になってしまった。
「あれ」が篩落ちたから時間が空いたけれど、金がないからいけなかっただけで。
まあいい、6月はじめのリザ戦に行くことで、と決めていたから。
その人の話によると、少しずつ形になってきているって、われらが愛媛は。
・・・よかった。
自分もできることをやっていこう。
時間は過ぎていくわけで、やらないかんことはこなしていかなくちゃいけないわけで。
ローソンチケット、携帯版では福岡の演劇、カードでチケット落としてくれないようだ。
というか、甲子園のトラブル以来携帯版はカードで落とすことは無理らしい。
あとなぁ、パソコンのこと早く何とかなってほしい。
てか、次の展開が早く落ち着きを見せてほしい。
少しずつ何とかしていくしかないなぁ。
形あるものはいつかは壊れる、ということはわかってる。
でも、すごく心配ですごく怖い。
とにかく、いまを辛抱していかないと次に繋がらない。
推敲も中途半端。
これだったら写メール中心でパソコンがなんとかなるまでいったほうがいいのかなぁ。
とため息ついた。
どうも、営業なしだったら拾いがいけださんとことおんなじタイミングらしい。
これも何かの縁、というやつか?
もし、そうだとしたらよりいっそうこの縁を大切にしていかないと。
サッカー代表戦、やっぱりスゥィング出来ない。
決定力不足云々言うことよりも、
「どんな相手でもちゃんとスゥィングさせて見られる試合を作る」努力、
強いていえば価値観の違い過ぎるひと達と「息や意気」を合わせていける努力が
必要なのかなぁ。
ホークス、交流戦優勝したものの、ちょっと心配です。
対戦順のあやで勝てたようなもので、ふるふると不安定なことは変わらない。
それよりも何よりも問題は福岡蜂なのですよ。
桜大阪のような、というかああいう「セメント」やられるのがきついのは分かる。
けれど、内容が良くない。
なんか内容が良くない。
いまのわれらが愛媛のほうが福岡蜂より「まともに」たたかえるよ。
これはスタンドとピッチのあいだに「信頼関係」ができているか、
できていないかの差なのかもしれないけれど。
今日もまたレベ森は相手とスゥィング出来ない。
・・・ガチガチのセメントに勝てないのはちと辛いな。
最近、サイトでまあえげつない話を聞いた。
「女子アナは置き屋のなんとか」からそのひとがどう「のし上がったか」と
言う話だった。
…これは一般化したらいけないかもしれない。
ひとって、いろいろな「脚質」や「性格と気質」、そして「成育環境」によって
「登る山」の形や高さ、険しさが違ってくることを考えに入れてないな、
とすごく違和感と腹立ちを感じる。
…そういう「努力」が「もし」正しいものだとしたら、
そのひとはいまも「生き残って」いるのかもしれん。
しかしいまの「自分の網」には引っかかっていないからどうなんだろう?
自分は「長い距離を強く踏み締めて歩ける」ということを齢35にしてわかったから、
あのことばの端端に「違和感」を感じた。
自分にとって「生きること」とは長い山道を歩き続けていること。
ああいう風に短い感覚で人生を生きることが良くない、とは
自分は言うことが出来ない。
正直、自分を知らないとき、山道に疲れて歩けなくなって自分を見失う時には
こういう強さは羨ましいと思う、そしてそうじゃない自分を激しく責める。
けれど、歩き続けなければ意味ない、目的地にたどり着くにしても、
自分の最終的な場所はいったいどこよ?
それがわからないと道に迷うと言い聞かせて今日も生きる。