神社のある風景

山里の神社を中心に、歴史や建築等からの観点ではなく、風景という視点で巡ります。

15年

2010年01月21日 | その他

もうあの日から15年が経ったのだ。
私自身が被った被害は軽微なもので、だから私があの日のことについて触れるのはどうかと思って、数日遅れでこんなことを書いている。
あの日を思うと、今でも落涙することがある。
同じ職場にいた、笑顔の似合う二十歳の女の子は、思い出の中でも笑顔のままだ。
新入社員研修の時に、いろいろなことを教えてくださった先輩は、いつも煙草をふかして、その煙の向こうで笑顔を浮かべている。
あの激しい揺れの中で、あの激しい悲しみの中で、無力感に打ちひしがれ、恋人を喪った友の悲しみを推し量ろうとして、また無力感に苛まれ───。
どうか、もう二度とあのようなことが無いようにと願わずにはいられない。


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7 コメント

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Unknown (Jun)
2010-01-21 21:21:09
このところ毎日ツィッターで地震のことを呟いている旧友。
mixiで当時の自分の被災体験を毎日書いている旧友。
あの当時毎朝新聞を開くと必ず死亡者判明記事に知り合いの名前が載っていた。一家全員と言う知り合いもいた。みんないなくなったら、誰があの人たちを思い出してあげるのだろう。

あの日も酷く寒かったですね。
私は前の日に神戸に行くつもりだったのですが、朝からものすごく体が重たくなって押しつぶされそうな感じで蒲団から出られなかったのです。翌朝、何事もなかったかの様に体が軽くなって、朝食の支度をするために台所に立っていたら、突然家が揺れました。今まで体験したことのない揺れで、あれが現地ではどれほど激しく恐怖だったかと、身震いします。
二度と繰り返して欲しくないけれど、ハイチでも・・・
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Unknown (hiro1jz)
2010-01-22 08:30:00
こういうことは、溢れてくる思いを「書くべき」、
という気持ちと、安易に書くべきではない、
という気持ちが入り乱れて、去年も書こうとしてやめました。
福知山線脱線事故なども、凄く身近な場所で起きたので、
なにやら思いが溢れてきて、何か書くべきでは、
なんて思うのですが、やはり思いとどまりました。
今回は15年ということで、やはり少しだけでも触れておきたかった。
それに、自分の周りに震災のことを知らない人が増えてきた、
ということもあって、少し焦るような気持ちにもなりました。

私の住んでいた場所は震度6の地域のはずですが、
あの揺れの激しさは私にとって地震の概念を超えていて、
地鳴りや空が光ったことも相俟って、
もっと終末的なものだと思ったくらいでした。
地震は何度でも繰り返されるでしょうし、
せめて建物や家具はそれに備えておきたいところですが、
ままなりませんね・・・。
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Unknown (たんばの人)
2010-01-22 23:14:58
神戸の親戚も一時は
丹波へ身を寄せていました。

神戸が震災からあれだけ早く
再生してこれたのは

あれだけの廃材を持ち込む
交通路と場所が
あったことだと思います。

処分場だった北区の谷間は
今どういう状況になっているか
それも気になっています。
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Unknown (hiro1jz)
2010-01-23 06:14:42
あの時、地域を越えて多くの人が支え合いましたよね。
行政や防災について、考えさせられることも多くありましたが、
ボランティア元年と言われるように、
人の温もりが感じられたのは、
あの大きな被害の中での救いです。

あれだけの廃棄物、どうなったのかと思ってましたが、
北区の谷間に処分場があったのですか・・・。
かなりのアスベストが飛散したという話も聞きますし、
有害なものもかなり混じっていたでしょうが、
あの混乱の中では、ただ埋めただけかも知れませんね・・・。
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無力感・・・ (mikumano)
2010-01-24 21:28:08
hiro1jzさん、いつもありがとうございます。

hiro1jzさんは、兵庫県でしたね!あの大震災は悲しい思い出だったのですね。

私は昨年那智勝浦町長だった従兄が急逝致しまして、同じような無力感を感じているのかも知れません。
突然いなくなったので、言葉を掛ける事も会話をする事も出来ず、なんとも言葉に出来ない毎日を過ごして参りました。今は残された家族を温かく見守る事がせめてもの供養だと考えています。

すみません。私の話になってしまいました。
亡くなられた皆様に、心からご冥福をお祈り申し上げます。
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Unknown (幽黙)
2010-01-24 23:19:41
触れようかどうしようか
ちょっと迷ったのですが…
愚生の住まうあたりも
震度は6ありました
寝ているベッドが
まるでトランポリンのようで
からだの向きが
自分の思うようにならない
ようやく体の向きを変えると
百科事典なども入っている
重い材質の本棚が
踊るように跳ねている
すぐに
地震だとは気がつかない
その何が何だかわからない
というおそらくほんの僅かの
"間"
が一種の恐怖感なんだろうな
と思ったりしました
幸い食器棚などの陶磁器が
割れたくらいの被害でした

まだオレンジ色の
小さい灯りを点しておかないと
夜眠れない…
情けないような
あたりまえの反応のような…
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Unknown (hiro1jz)
2010-01-25 09:06:26
>mikumanoさん
いつもありがとうございます。
私は、被災はしましたけれど、渦中というよりは傍観者に過ぎないのです。
大きな悲しみであったことは確かですが、
やはり第三者なので、肉親や大切な方をなくされた方とは想いも違うと思います。
南紀も地震の可能性がずっと言われている地域ですし、
mikumanoさんも、防災対策にぜひとも気をつけてください。

那智勝浦町長さんのことは、新聞で知りました。
その後、mikumanoさんのブログで繋がりを知りましたが、
おかけする言葉が見つからず、コメントは控えさせてもらいました。
お許しください。
今更になりますが、心よりご冥福お祈り申し上げます。


>幽黙さん
揺れを感じたら、まず火の元の確認、
なんて子供の頃から聞いていましたが、
立って歩くことも出来ない揺れに、
為す術が無い、という感じでしたね。
重くて四角いブラウン管のテレビは吹っ飛ぶし、
鍵をかけていた筈の窓は、窓枠の歪に耐え切れず全て開いてしまい・・・。
想像を絶するというのは正にあのことで、
揺れに対する恐怖は、刻み込まれて拭えなくなりました。

私は子供の頃、祖母から何度も関東大震災の話を聞かされました。
祖母は当時横浜に住んでいたのですが、実体験であっても、
子供心には、ただの昔話、といった印象で、
リアリティというか、恐怖を実感することは出来ませんでした。
あの震災の体験も、ただの昔話になってしまうのだろうか、
そう思うと、少しでもあの状況を知っているなら、
たとえ小さな私的な感情ではあっても、
何か書いておこう、なんて思ってしまいました。
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