神社のある風景

山里の神社を中心に、歴史や建築等からの観点ではなく、風景という視点で巡ります。

一之宮神社

2013年02月27日 | 再訪

兵庫県篠山市中


ブログを開設して間もない頃に掲載した神社だ。
訪れたのも神社巡りを始めるようになって間もない頃のことで、6年ほども前のことになる。
特に深い関心があったわけでもなく、ただ何となく神社巡りを始めただけなので、当時の私は今以上に見るべきところを見ていなかった。
過去記事を見ていると、写真の出来の悪さは勿論のこと、いったい神社で何を見ていたのか、と思うことが多々ある。
そういった反省も含め、久しぶりに訪ねてみることにした。
ただ、撮影時間帯や季節は以前の方が拘っていたように思うし、しかも雨の中だった。
それなのに今回は、友人と一緒のお気楽撮影だったりする・・・。





1月に掲載した玉依神社と同じく、ここも午前と午後の二回訪ねた。
理由も同じで、午前は天気が良くてコントラストが強すぎたためである。



鳥居は数年前に色が塗り直されたようで、鮮やかな朱色に代わっていた。



鳥居の奥に聳える門のような大木。
巨木と呼ぶにはまだ早いが、既にちょっとした風格みたいなものも感じられる。
これは午前に撮ったもので、雪が結構残っていた。



午後には雪がだいぶ融けていた。



境内に積もった雪が光を反射して、拝殿の天井を照らす。



拝殿越しに境内社。



拝殿のある場所から更に高みに本殿覆屋がある。






苔が豊かなので、やっぱり初夏に来るのがいいかな、と思う。



だが、ここの一番の見所は、この本殿だろう。



何故、前回は撮らなかったのか。
いや、雨の朝で暗くてまともに撮れなかったのかも、とは思うが、それにしても印象に残っていないのである。









うーん、過去の自分が理解できない・・・。



それにしても、ちょっと息を飲む佇まいだ。
小さな集落の山陰に、ひっそりとある神社の本殿とは思えない壮麗さ。






私の下手な感想など必要ないだろう。
ただただ見入る。



本殿前から拝殿を振り返る。



境内社。
午前中はずっとこんな陽射しだったので、ファインダーを覗きながら「コントラストがぁ!」を連呼していたら、「初めて憶えた単語を得意がって繰り返す子供かっ」と友人に言われた・・・。
写真は撮りにくい状況だったけれど、屋根や木々から時おり落ちてくる雪が、キラキラ輝きながら風に舞って綺麗だった。



拝殿越しに参道方向の杜。






そういえば、こんな雪の神社の写真は初めてである。
寒くはあったけれど、楽しくて居心地のいい時間を過ごせた。


撮影日時 130226 10時15分~11時40分 13時40分~14時10分
駐車場 神社前駐車可
道路地図
地形図 
 


雑木林

2013年02月19日 | その他

前回掲載した琉璃渓に行った際、氷だけでなく付近の雑木林も撮ってきた。
雑然とした場所が多く何が撮りたいのか判らない写真も多いし、普段ならボツにしてしまうところだけど、何故だか捨て難いものも感じたので掲載してみることにした。

雑木林という言葉には、やや軽んじるような意味合いが含まれているかも知れない。
私自身、原生林や原始林といった言葉を聞いたときのほうが、より惹かれるものがあるのは確かだし、有用でない、取るに足らない、といったものを「雑木」という言葉でひと括りにしている感がある。
「雑」誌と「専門」誌の違いに似ているかも知れない。
同じような言葉に雑魚があるが、こちらはそれこそ悪い意味でしか使われない。
「このザコが!」なんてふうに、人を罵るときにも使われるくらいだが、さすがに雑木のほうは「このゾウキが!」なんて使い方はしない。
それが何故かはともかくとして、実際のところ、雑木林というのは決して無用のものでなかったのは確かで、今でもあちこちに炭焼窯の跡は残っているし、薪を得るためにも必要な木々たちだった。
現代の生活様式ではその価値を変えたとはいえ、とにかく長きに亘って人の営みにおいては欠くことのできない場所であった。

雑木林という言葉の響きには、どこか温もりも感じさせる。
春の新緑の逞しい生命力、夏には昆虫と小動物で賑わい、秋にはドングリがいっぱい落ち、冬の眠りには枯葉が陽射しの温もりをいっぱい溜め込んで積もる。
そういった自然の営みが、人の営みと密接に絡み合いながら、長く長く繰り返されてきた。
今はそういった繋がりは薄れてしまっているけれど、言葉のどこかに感じる温もりや、郷愁に似た感覚を抱くのは、自身が知らない時代のことであっても、綿々と積み重ねられた歳月の息吹が、雑木林のそこかしこから感じられるからかも知れない。

なんて大層な感じのことを書いたけど、写真は雑木林の良さが全然捉えられていないのです・・・。



これは琉璃渓で撮ったもので雑木林とはちょっと違うのだけど、この木を撮ったときに何故か「雑木林が撮りたい」と思った。



もっといい表情の枯葉を撮るべき。と、自分で思う・・・。



こちらのヒノキゴケは、冬の朝らしい表情を見せてくれた。



ここもまだ琉璃渓で、日を浴びる遊歩道。



遊歩道から逸れて雑木林に入る。















薄っすらと雪があっても、冬の陽のお陰か、あるいは枯葉の暖かい茶色のお陰か、あまり寒々しい景色にはならない。



とはいえ、林内に入ってアンダー気味に撮れば、モノトーンに近い景色になる。









全体的にやっぱり雑然として、私の写真では伝えられないだろうけど、居心地はとてもいい。









琉璃渓では人に出逢うことも多いが、ここではそんなこともなく心の底から寛げる。
のんびりぼーっと日向ぼっこしていられる。












春遠からじ、という気配も感じる。






琉璃渓の遊歩道に戻る。
ここから駐車場まではすぐだが、その僅かな距離で10人ほどの行楽客と擦れ違う。
これが普通の山ならば、声に出して「こんにちは」と挨拶するのだが、何となくそういう雰囲気でもないので、軽く頭を下げるだけにする。
それでも、擦れ違う際に目を合わせないよう顔を逸らす人が大半で、会釈してくれた人は3人ほど。
声を出して挨拶をしてくれた人は1人だけだった。


琉璃渓

2013年02月13日 | 滝・渓谷

京都府南丹市園部町大河内


久しぶりに琉璃渓に行く。
この時期にここへ行くときは氷の撮影が目的なのだが、今冬は特に厳しい冷え込みもなく、あまり期待は出来ない。

現地の気温はマイナス3℃。
林下には所々に薄っすらと雪があるものの、風も無くそれほど寒さは感じない。
それに今日の私はいつもと一味違うのだ。
寒さ対策の秘密兵器、「貼るカイロ」をお腹と背中に装備しているし、軍手まで装着している。
・・・・・・普段、防寒に無頓着な私にとっては、これでも重装備だったりするのです。

いつも通り、上流側から遊歩道を下っていく。
予想以上に凍った場所が少なく、どこをどう撮ろうか、なんて迷うほどのことも無い。
撮りたいと思うものが殆ど無いので、随分と歩みが捗ってしまう。



流れが凍り付いているところは皆無だが、さすがに水溜りは凍っている。


岩に引っかかっている枯れ木や、流れの上に張り出した枝なども、寒そうな姿ではある。



あとは水飛沫がかかるところに出来る氷が、ぽつんぽつんとあるのみ。
こういった小さな範囲を拾うように撮っていくしかない。






ちょっと手のひらのような・・・。






何だかんだ不満に思いつつ、やはり撮っていれば楽しくなってくる。
カメラの操作に邪魔なので、左手の軍手も早々に取ってしまう。









凍っている場所は少なくても、なかなかに表情は多彩だ。






あと少しで水面に触れそう。
実体よりも綺麗な色を水面に映していた。



橋と休憩所のある滝の落ち口付近が、いつも「いい表情」を見せてくれるところで、今回もここで沢山の写真を撮る。















いつしか不満は消えて満ち足りてくる。



やがて谷底にも太陽の光が差し込むようになってきた。
何の写真か判りにくいけれど、陽射しに輝く川面と岩にへばり付いた枯れ葉が暖かい色になる。
尤も、私には「貼るカイロ」が装着されているので寒さなど感じてはいないが。



寒さは感じていない筈なのに鼻水が出てきた。
やはり体感以上に気温は低いのだろう。
辛うじて苔と繋がっている氷柱がゆらゆら揺れて、何だか鼻水のようだ、などと風情の無いことを思う・・・。



薄暗い場所の氷は幻想的であるけれど、日の光を浴びた氷も違った美しさがある。



支流に懸かる小さな滝。
ここは水飛沫が辺りに飛び散って、周囲が凍りやすい環境になっている。
今回も他の場所より氷は多かったが、いつも雑然とした印象の場所で、やはり写真にはしにくい。



氷に閉じ込められた枯葉を、もっとアップで撮ればよかった・・・。






水飛沫のかかるところは殆どが氷に覆われる。



それなのに、水量が少ない割りに滝本体は凍った姿を見せてくれたことがない。
ただまあ光が弾けるような水飛沫を見るのも悪くはない。

ふと気付けば、カメラバッグのポケットに挟んでいた軍手が無くなっていた。
どこかで落として気付かなかったのだろう。
落としたそれはゴミと同じになるから、結果的にはポイ捨てと同じで申し訳ないと思うのだが、同時に軍手に対しても申し訳ないような気持ちにもなる。
擬人化してしまうというか、多少は役立ってくれたのに、放置されて雨風に打たれて・・・なんてついつい考えてしまうから、私の部屋には不要なものが溜まってしまうのだろう。


撮影日時 130212 8時~11時


5周年

2013年02月05日 | その他

また写真も無くて恐縮ですが、ブログ開設5周年を迎えることができました。
正確には昨日がそれにあたるのですが、まあ今日が仕事お休みなので。 
5年続いたといえば、自分の中では結構すごいことなのですが、よく考えると更新していない時期もかなりありましたし、こうやって手抜き記事で済ましていることも多いので、全然すごくないですね。

こういうブログを やっていますと、いったいどんな方が見に来てくださっているのだろう、などとよく考えるのですが、最近は新たにコメントをくださる方も増えて、それも素敵な方ばかりなので嬉しく思っています。
しかもお若い方からもいただけて、大きな励みになりました。
若い人に神社好きが増えてほしいなぁ、という希望も、このブログを始めた理由の一つでしたので。
更に、コメント欄が神社のことだけでなく、様々な話題で賑わうのが望みだったので、最近の私はちょっとハイだったりします。
どうだ、いいだろう、と友人に自慢しちゃったりする痛い奴になってます。
三重や奈良、大阪に兵庫、遠く福岡にまで友人が出来たような、そんな感覚です。
過去に遡れば、もっと多くの都道府県に広がります。
ただ、私はまあ、あまり出来た人間ではありませんので、たまに失礼なことを書いたり無知なことを言ったりするかも知れませんが、どうか長くお付き合いください。
というか、後になって書き直したいと思うコメントが多々あります。(本文記事は修正できますけど、コメントは管理者でも修正できないんですよ・・・。)

もう数年以上にもなるお付き合いをして下さってる常連さん、見捨てないでくれてありがとうございます。 
何度か辞めようと思ったこともありますが、支えられてここまで続けてこられました。
刺激や知識など、様々なものをいただきました。
これからもよろしくお願いします。

そういえば昨日は立春でした。
私のブログ開設日は立春でもあるわけで、何か春らしい写真があればなぁと思い、ちょっと過去の写真を見てみました。
以前、落雷の記事で書いたように、過去データは復旧してないのですが、過去の写真を焼いたCDが一枚だけありました。
既にここに掲載したものか類似したものしか無く、枚数も僅か。
とはいえ、このブログ内にストックされているデータをそのまま使うのもなぁ、というわけで、そのCDから一枚、春の写真を選びました。
過去にここに掲載したものと、微妙に色合いを変えて撮ったもので、まあ同じ写真と言ってもいいものですが・・・。
立春というか、思いっきり春の写真ですが、復旧してない全ての写真も含め、私の中で10指に入る好きな写真です。 



思い出の場所 京都市北区

2013年02月01日 | その他

あまり頻繁に撮影に行けないので、文章だけのシリーズ企画を始めようかと。
文章を書くのが好きなので、とりあえず何か書きたいという欲求を満たしているだけだから、まあ興味無い人はスルーしてください。
チラシの裏の落書きのようなものだし、後日、恥ずかしくなって削除するかも知れないものなので。


私は京都市北区の金閣寺から程近い場所に生まれた。
たぶん、私の人生最初の記憶は、二歳のときに当時住んでいたアパートに訪ねてきた伯父を見送る際、バイバイと手を振りながら階段を頭から落下したことだ。 
それこそ、最上段から最下段までの思い出だったりする。
その後のことは記憶に無いが、私はタクシーに乗せられ医者に運び込まれたらしい。

二歳の途中から北区を離れたが、高校生になって間もない頃、諸事情があって祖母の家で暮らすことになった。
祖母の家も金閣寺の近くにあって、近所の裏山といえる場所から山道を辿ると金閣寺の境内に入れた。
数年ぶりに懐かしいその山道を歩いてみると、金閣が見え出した頃に以前には無かった金属の柱があった。
はて、これはなんだろう? と覗き込んでみて、それが赤外線センサーであることに気付いた。
ここに辿り着くまでにも同じものがあったような気が・・・。
べつに金閣をタダで見てやろうと思ったわけではなくて、何か貴重な植物があるのではと思って入り込んだのだが、 信仰の場所は思いのほか警戒の厳しい場所になっていたようだ。
警備員の仕事は迅速で、どうしようかと迷っている間にそれはトランシーバーを持って現れた。
「あー、不審な男性が一名、今からそちらに連行します」
ちょっ、待っ、ええっ!?
私は警備員の詰所と思しき場所に連れて行かれ、こっぴどく叱られた。
金閣寺は私にとって親しみを感じる場所でもあり、敬遠したくなる場所でもあり・・・。

祖母の家から伏見区にある学校へは1時間半ほどかかった。
高校の廊下の窓から北にある京都タワーがよく見えた。
冬になると北の空がいつも気になって、度々タワーの向こうに続く空を眺めた。
伏見区では晴れていても、祖母の家の方では雪がちらつくことが多いのだ。
下校途中で雪が降り出し、みるみる街を白く染めていくと、我慢できなくなって市バスを途中で降り、雪道を慈しむように踏みしめて歩いたことが何度かある。
雪国の人には申し訳ないけれど、楽しくてワクワクするような帰り道だった。

祖母の家の近所に、僕と同い年の女の子が住んでいた。
近所でも評判の綺麗な子であったけれど、通う学校も違ったし、滅多に顔を合わすことも無かった。
それに、お互い微妙な年頃でもあるから、顔を知っている程度で挨拶を交わすわけでもない。
綺麗なのは確かだけど、気の強そうな、無愛想な子という印象しかなかった。
ある日、下校途中の彼女を見かけた。
たった一人、歩道の縁石の上を両手を広げてバランスをとりながら歩く姿は、普段の印象とは違って愛らしくて、か弱かった。
僕の視線に気付いた彼女は、はっとした表情を浮かべた後、鋭く挑むような視線を向けてきた。
僕は目を逸らし、何事も無かったように通り過ぎた。
たったそれだけの瞬間を今でもふと思い出す。

祖母の家の裏山は足繁く通った。
雪の積もった山を歩くのは楽しかった。
真っ白に染まった景色を見ると、自分の心まで真っ白になれたかのようで、いつも雪が降るのを焦がれていたように思う。
山は静寂に満ち、山は僕の足跡だけを残した。
焦がれていたのは、たぶん雪だけではないのだろう。
真っ白になるほど、より焦がれてしまうものがあったと思う。

祖母にはお世話になった。
おばあちゃんと呼びかける人がもういないのは寂しいし、感謝の念は伝えられない。
脳梗塞で誰が誰なのか定かではなかった晩年の祖母が、不意に私のことを心配して様子を訊いたことがあったという。
なのに私はお見舞いにも行かなかった。
変わってしまった祖母を見たくなかったからだけど、今思えばなんてひどい孫だったのだろう。

京都市北区に入ると、何か匂いまで違って感じられる。
そこには祖母の家の匂いがあり、数々の過ちと後悔に彩られた高校時代の自分の背中を見つけることができる。