神社のある風景

山里の神社を中心に、歴史や建築等からの観点ではなく、風景という視点で巡ります。

田村神社

2010年06月26日 | 滋賀県
滋賀県甲賀市土山町北土山


最近どこにも出掛けていないので、アップする画像が無い。
来週には遠出をする予定なので、それまでは更新を休もうかとも思ったが、過去に撮ったものの中から何とか使えそうなものを探してみて、この田村神社を掲載することにした。
比較的、規模の大きい神社で、全体像を紹介するには結構な枚数の写真がいると思うけれど、撮影時はコントラストが強く、掲載できそうな写真があまり撮れなかった。
そのため、ちょっと断片的になってしまい、しかも季節外れの紅葉の写真である。

ここへは20年近く前にも訪れた記憶があって、確かこの付近の山を友人と歩いた帰りに、バス待ちの時間に立ち寄ったと思うのだけど、随分と曖昧な記憶で、長い参道があったことくらいしか思い出せない。
夕暮れ時でひっそりとしていた印象が強いが、今回訪れた時には10人以上の方に出会ったから、かなり参拝者の多い神社といえるだろう。
社務所などの建造物も思いのほか立派で、ひっそりとした風情が好きな者にはちょっとうるさく感じられるが、それらを取り巻く「杜」の立派さも記憶を上回っており、川沿いの立地も活かされていて、なかなかに奥深い環境が味わえた。



国道1号線に面した鳥居。
周囲は町中といった感じではないけれど、交通量、民家ともそれなりに多く、落ち着いた雰囲気は無い。





ただ、鳥居を一歩くぐれば別世界で、木々に包まれた落ち着きのある空間になる。
振り返って1号線方向を見る。



参道なかほどにある鳥居。
ここで道が横切っており、左手に行けば池と駐車場、右手に行けば田村川を渡る橋がある。
他にも杜の中につけられた小道があったりして、丁寧にあちこち歩くと楽しい。



再び参道を振り返る。
曖昧な記憶の中では杉と檜ばかりの参道だったのだが、予想外の鮮やかさだ。



もう一つ鳥居をくぐると広い空間に出て、社務所などが建ち並んでいる。
その横に拝殿もあるが、風景的にも光線状態的にも撮る気になれないので割愛。
拝殿横から神明鳥居をくぐると水路があって、水辺へと降りる石段がモミジの落ち葉で染まっていた。
石段の反対側にも道があり、田村川の川辺に出られるようになっている。



本殿前の階段から振り返る。
橋の手前、右手が先ほどの石段、左手が田村川への道である。



これは本殿前から振り返ったもの。



本殿。



本殿からは水路の向こう側につけられた道を辿る。
田村神社では厄除祭が有名らしく、建ち並んだ授与所からその賑わいが察せられる。



ちょっと横道に逸れて、杜の中の小道を歩いてみることにする。



参道沿いよりも樹種は豊かになって賑やかだ。
黄色から赤にかけてのグラデーションを描くモミジ、白に近いのはコシアブラだろうか。





林間に差し込む光に輝く紅葉は、ちょっと相応しくない表現かも知れないけれど、ステンドグラスのような美しさがあった。


2万5千分1地形図 土山
撮影日時 091204 11時~12時40分

駐車場 あり(神社西側)
地図


松尾神社

2010年06月16日 | 再訪

京都府亀岡市西別院町犬甘野


ここを訪れるのは四度目で、以前にも紹介している。
参道が長く、緑濃い。
そこを歩く度、この木とこの枝を伐ると、もっと奥行きの感じられる、素敵な参道になるだろうなぁ、などと夢想したりした。
べつに庭師の方のような技術や知識があるわけではないけれど、参道の手入れをしてみたい、と強く思わされた場所だった。

前回の参拝から二年以上が経過して、久しぶりに再訪したくなった。
雨の降る日だったが、まだここの雨天の風景は見ていないし、ちょうどいいと考えて神社に向かう。
神社から離れた広い場所に車を止め、傘を差して歩く。
雨に潤う新緑の参道を思い浮かべながら歩けば、やや強い雨も苦痛でなくなる。



神社前に着くと、何か違和感を覚える。
天気の違いによる印象の差かと思ったがそうではなく、天気が悪いにも関わらず妙に明るいからだ、と気づく。
ああ・・・と思わず声を発してしまいそうになったのは、鳥居周りから、その奥へと続く参道にかけて、相当数の木々が伐採されている様子が窺えたからだ。



参道に入り、鳥居を振り返る。
左手は、以前は向こう側が見辛いほどに木々が密生していて、確かに雑然としているようにも感じられたし、それ故に手入れしてみたいなんてことも思ったのだが、今はあからさまなくらいに見通せて、ちょっと悲しくなってくる。
杉、檜、椿などの一部を除いた常緑樹、それから落葉樹の殆どは伐られてしまったようだ。
それなりに太い木も切り株だけになってしまい、期待した新緑の潤いも感じられない。
でも、皮肉なことに、雨脚が強まって辺りが煙ると、隙間だらけになった木々の間から入り込む光は程よいものとなり、森厳とした深みのある参道を描き出した。



伐られた木や切り株があちこちに見られる。
良くは判らないけれど、庭師が入った直後の庭というのは、随分とバッサリいったなぁ、と思うことが多い。
結果的に見れば、その方が庭の美しい期間を長く保てるのだろうし、現時点で丁度いい具合にしようと少し手を入れたところで、すぐに元の雑然と茂った状態に戻るであろうとは思う。
参道は庭とは違うし、庭園的な美的感覚だけで語るわけにはいかないにしても、それでも、もう少し太い木や落葉樹も残してほしかったと思う。



二の鳥居辺りも、やはり相当数の木が減ってしまっているようだ。
緑に包まれているといった感覚になれた場所なのに、殺風景な空間になってしまった。
ただ、ここも雨のお陰か、美しいと感じさせられるものは湛えている。



二の鳥居と拝殿、その向こうには三の鳥居が見える。



三の鳥居から四の鳥居と本殿覆屋。
右手には磐座へと続く石段がある。



前回の撮影は7月で、この辺りは苔の豊かなところだったが、今年はどうなるだろうか。



本殿前から振り返り、見上げる。



同じく本殿前から狛犬を。
以前はここから磐座の存在がわからないくらい緑が茂っていたが、今はすっかり見通せるようになった。
鬱蒼として、秘められた場所という感じだったのだが。





磐座が纏う苔や羊歯も減っていくかも知れない。
もちろん長い目で見れば、また木々は育って、また苔も羊歯も増えていくのだろうけど、やはりこういう光景は寂しいものだ。


2万5千分1地形図 法貴
撮影日時 100507 10時10分~11時10分

駐車場 軽なら神社の傍に停められるが路駐。普通車は離れたところで道路の広い場所に駐車したほうが無難。
地図


内鹿野谷

2010年06月08日 | 滝・渓谷

和歌山県新宮市高田


新宮市街から熊野川を5kmほど遡ったところで、高田川という支流が流れ込んでいる。
比較的、大きな谷で、遡れば高田の集落があるし、いくつもの支谷を山深くに刻んでいる。
その中の一つに、以前に掲載した「桑の木の滝」があるのだが、その知名度が高いせいか、他はあまり知られていないようだ。
だが、地形図を見れば、寧ろ桑の木の滝は地味な存在で、他の谷川の方が強い存在感を放ち、随所に険しく興味深い地形を描いている。
内鹿野谷は、そういった高田川を形成する谷の一つで、前回の滝本北谷と同じく、沢登りの人達の間で知られている程度。ただ、滝本北谷とは違って、ここには遊歩道が設けられている。
遊歩道は一部区間のみで、この谷の核心部を見ることは出来ないけれど、それでも充分に魅力的で、もう少し知られてもいいのではないかと思う。

訪れたのは2回目の滝本北谷に行く前日。
朝に出発すると昼過ぎに新宮辺りに着くので、半日をどこで費やそうかと考えたとき、この内鹿野谷が思い浮かんだ。
以前からある程度の情報は目にしていたけれど、とにかく思い浮かんだのが出掛ける前夜のことで、おさらいもせず、大して期待もせずに現地に到着した。
水車のある広場に駐車し、遊歩道を無視して右岸の踏み跡を辿る。というのは、遊歩道というものは、危険箇所を迂回するために、得てして景観の良い場所を避けてつけられているからだ。
が、これは失敗だった。



踏み跡はすぐに怪しくなり、仕方なく流れに沿って歩くものの、前日、前々日に降った雨で増水しており、思うように進めない。
ただ、二日間で100ミリ以上の雨が降ったらしいのに、流れは全く濁りを見せず、周囲の山が豊かであることを感じさせる。



見るべきところも無いまま苦労して進み、やっと渓谷らしい風景が現れる。
これはたぶん雨のお陰だろう、支谷が滝となって本流に降り注ぐ。



その後はまた平凡なのに進みにくい状況が続き、ちょっとウンザリしてくる。
流れに沿って石垣が現れたので、道があるかも、と思ったが廃道。
おまけに雨が降り出してきて、引き返そうかという気分になるが、内鹿野谷は滝以外にも幾つかの見所があるらしいので、一つも見ずに引き返すのも・・・。
とにかく、一つめの見所だけでも見ておこうと、重い気分のまま先に進む。



と、1分も歩かないうちに現れた風景に、一気に気分が軽くなった。



穏やかな瀞にも惹かれるが、少し歩みを進めると、この場所の全容が見え、その凄さに気付く。
静かな水面からは考えられない巨大な岩壁、というか岩塊が横たわり、その対比の妙やスケールに、とにかく圧倒される。





ふと左岸に目をやると、立て札とベンチらしきものが見えた。遊歩道だ。こんなことなら最初から遊歩道を歩けばよかった。
立て札には「内鹿野の一枚岩」と書かれている。
恐らく古座川の一枚岩に倣った命名であろう、スケールは劣るものの、岩の感じは似ている。
ただ、俗化された古座川の一枚岩とは違い、ここでは風景を独り占め出来る。
これで一つめの見所を見たわけだが、当然、引き返そうなんて気持ちは消し飛んでしまう。



ここからは流れも渓谷らしい雰囲気が出てくる。



木々の根元も苔と羊歯の天国で、南紀らしい風景が嬉しくなってくる。



よく整備された遊歩道を快適に進むと、二つめの見所、ズリ石に着く。
その名の通り、流れに沿った岩壁がズリ落ちて、それが粉砕せずに写真のような状態でとどまっている。
立て札によると、明治の末頃にズリ落ちたらしい。
まだ歴史の浅い地形ということになるが、それでも100年ほどもの間、この形状を保っているのは驚きだ。







見ているだけでワクワクしてくるし、童心に返ってこの下を潜りたくなってくるのだけど、増水して脚の付け根辺りまでの深さがあるので諦める。

ここで、やや激しい雨が降り出し、雷鳴も轟く。
暫し木の下で雨宿りする。





小降りになるのを待って出発。
すぐにヨキトリ淵に着く。
その響きから、滋賀県にある斧磨(よきとぎ)という地名を思い浮かべたが、やはりヨキとは斧のことで、ここに手斧を落として取られたことから名付けられたという。
いちおう滝でもあるけれど、滝壺というよりは淵というほうが相応しいだろうか。
右側は洞窟のように抉れ、何かが棲んでいそうな雰囲気がある。



苔生した支流を渡り、道は本流から少し離れる。



横を見上げれば、また巨大な岩塊が。



不意に地形が穏やかになり、道は流れに近づく。木の間越しに見ると、流れは河原状になっていた。
優しさと豪快さ、静と動が極端な地形だ。



河原に降りてみる。
モミジの緑が鮮やかだ。



だが、それよりも目を引くのは、この何とも凄い地形だ。



まさにボトルネックで、ここより上流部に暫く続く河原は、ここで土砂が堰き止められるために堆積して作られたのではないかと思う。
見ていると、奥へと吸い込まれそうな気分になる。



滝や凄い地形もいいが、この河原も捨て難いものがある。



滝や渓谷好きの人達の間でも、河原というのは軽視されがちなので、何とかこういう風景の良さも伝えられたらと思うのだが。



振り返れば岩塊が聳えているが、一部、崩落して中から土が見えている。
土を取り払うと岩が出てくるのは判る。それはよくあることだと思う。
岩盤の下から土の層が出てくる、というのもあると思う。
だが、岩の中から土が出てくるのは、どういった成因なのだろう?



答えなど出せないので、静かな風景に浸ることにする。
先ほどの雨のお陰か、林の奥は靄がかかってきた。



さらさらと形容したくなる流れ。
緑も優しく、心が綻んでくる。



いい川だ。
尤も、普段はもっと水が少ないであろうから、こんな潤いのある風景にならないかも知れない。



幹が折れても、逞しく緑を芽吹いている木があった。
この辺りで尾根の方へと向かう道が分岐し、「水車小屋へ」という道標もある。
こちらから帰ることも出来るようだ。



再び周囲の地形が険しくなり、滝が現れる。
立て札では、手前の小さな滝が「ナマズ口の滝」、奥の滝が「出合の滝」となっている。
ネットや書籍の情報とは食い違っているが、現地の立て札に合わせておく。





出合の滝。
水量が多過ぎるし、少し暗いので真っ白に写ってしまう。
本来は、もっと優美な姿であろう。

遊歩道はここまでで、ここからは沢歩きの領域になる。
かなり立派な滝とナメが連続する渓谷らしいが、滝本北谷より難しそうだし、時間ももう遅い。
ここは「ついで」に立ち寄るような場所ではなく、丸一日かけて楽しみたいところだ。
上流部の探索は技術的に無理でも、またゆっくりと訪れようと決めた。

さて、帰りは先ほどの分岐まで戻り、尾根の方へと登っていく道を取る。


最初からしっかりした道ではあったが、進むにつれ歩き易く、しっとりとした感触の道になる。
やがて石垣まで用いられた道になり、これが遊歩道として作られた道ではなく、もっと歴史あるものだと気付く。



斜面の下にも石垣が現れ出した。
これは家屋があった場所だろう。



やがて斜面の上にも石垣が。
しかも数段にも重なり、石段が間を縫っている。
背後の林が霧に煙り、大袈裟に言えば、古代遺跡を目の当たりにしたような気分。
けれど、それよりもっと生々しく、何か圧倒されそうな気配がある。
生活の痕跡などは残っていないけれど、風化しきれない人の息吹のようなものが漂っている。





いつの頃から、どれくらいの人が歩いてきたのだろう。
歴史ある、生活のための道は、昨今の性急な道と違って足に優しく、負担は最小限だ。
時に尾根の反対側に出るようなルートも、長い年月の中でそのように定まった最良のルートなのだろう。



今は杉ばかりの山肌が、当時はどんな表情だったのかと夢想する。
地形図を見れば、なるほど穏やかな地形で、集落があってもおかしくないが、地名はもちろん、家屋記号も何も記されていない。
無性に、古い地図が見たくなった。



切通しで尾根を越えると、あとはやや急な下り道となり、水車小屋近くの集落に出る。
辺りは霧などかかっておらず、車もあれば現代風の民家もあって、隔絶された世界から抜け出してきたような気分になった。


2万5千分1地形図 新宮
撮影日時 100521 13時~17時50分

駐車場 あり
地図


滝本北谷上流部(2回目)

2010年06月01日 | 滝・渓谷



滝本北谷には、どうしても見ておきたい滝が一つあった。
初めて訪れて部屋滝まで行ったときにも、それが心残りで前回の上流部探索に繋がったのだが、それも雨のために行けずじまい。
というわけで、前回から約一ヵ月後、また上流部から滝本北谷を下ることにした。
今回は、夜に地蔵茶屋に到着して車中泊し、朝一番から谷に入った。



林道付近はほぼ植林されているし、もともと南紀は常緑樹の多いところであるから、そんなに風景は変わっていないだろうと思っていたのに、谷に降りてみて一ヶ月前との違いに驚く。
朝の色合いと相俟って、緑が滴るようだ。







前回と重なる部分は撮影も簡単に済ませようと思っていたのに、なかなか歩みは進まない。
前回より水量も多く、歩きにくくもある。



やっと急流の場所まで来る。
緑の中に白い帯が鮮やかだ。
前日の雨で岩が濡れており、二度目の今回の方が怖い思いをしながら下る。





比丘尼滝も緑が深くなって、より潤いある姿になっていた。



前回は何も感じず通り過ぎた場所に、今回はとても惹かれたりもする。
ここは殺風景に思えたのに、今は山の気に満ちている。



岩に生えた木も、逞しく緑を芽吹いて谷を彩る。



ここは、本来手前の岩の部分がナメ滝で、向こうに見えている水溜りが滝壺だったと思われる場所だ。
今は流路が変わって、流れはずっと左の方を流れている。
ちょっと庭園のような趣のあるところだ。



ゴーロ帯手前の河原だ。
もう緑いっぱいで嬉しくなってくる。



ここで朝日が顔を出し、谷間にも日の光が届きだす。



苔生した木の根元を流れが洗う。



その木の苔の中に、ヒメレンゲが咲いている。
本来、沢沿いの岩の上に多い植物で、周辺にも沢山咲いていたが、一株だけこんなところで芽吹いてしまい寂しそうでもある。



さて、ここから前回引き返したゴーロ帯になる。
見た目には特に難しそうにも思えないけれど、とにかく手間がかかる。
風景的にもつまらなくなるし、予想外に時間も食う。



やっとのことでゴーロ帯を抜けると、流れは岩床の上を迸るようになり、爽快な沢歩きとなる。
ただ、直射光が降り注ぎだし、コントラストが強くなって撮影にはツライ条件だ。











この辺りは、滝本北谷を遡行する人が「素晴らしい」と絶賛するところで、まるでコンクリートの水路のような岩の上を水が流れる。
当然コンクリートのような味気ないものとは違い、自然の造形の妙にただただ感心するばかりだ。



岩ばかりではあっても、それを苔が覆い、更にそれをヒメレンゲの花と、ツツジやフジの花びらが彩り、そして木漏れ日も降り注ぐ。



これはシャクナゲの花だ。
シャクナゲは比較的高い山に多いと思われがちだが、南紀では低地にも多く見られる。









本当は曇り空で撮りたいと思っていたけれど、コントラストの強いこんな風景も悪くないかな、と思えてきた。
何より、水の中をザブザブと行くので、太陽の光がとても心地いい。



やがて亀壷の滝。
ここは正面から光を浴びて、滝が真っ白状態。
まともに写真が撮れる状況ではなかったが、手前の木のシルエットが、白いスクリーンに描かれた影絵のようだ。



高速シャッターで写し止めると、まるで洗剤の泡のよう。



滝の名前の由来は、この深い滝壺なのだろう。
深さ6mほどあるのだとか。

この亀壷の滝のすぐ下流で、更に大きな滝が落ちている。
左岸をぐるりと回りこむように下っていくのだが、この二つの滝が連なる険しい場所のすぐ横に、驚くほど穏やかな地形が広がっている。
恐らく、遥か昔はここが流路だったのだと思う。
その穏やかな場所で小休止していると、二人組の遡行者に出会う。
大学生くらいのカップルで、本格的な沢登りの出で立ちだ。
尤も、ここではそれが当然で、リュックは担いでいるものの普段着姿の私に彼等は驚く。
挨拶と沢の状況、今後のルートなどを話して別れる。
とても爽やかで気持ちの良いカップルだ。

そして、私が一番見たかった滝が全容を現す。


先ほどのカップルの姿が滝上に見えるので、滝の大きさがよく判るのではないかと思う。
その向こうには亀壷の滝が見えている。
というか、つい先ほど私も通った場所だけれど、傍から見ているとえらく危険で恐ろしく感じる。









ものすごく均整のとれた姿でありながら、それでいて単純でなく、表情は多彩だ。
ここは一般的には屏風滝と呼ばれている。
しかし、とある書籍や現地の立札では溜ノ湾殿滝とされており、ここの下流にある滝を屏風滝としている。
ネット上ではここを屏風滝とする意見が優勢で、その根拠がこの形なのだが、一瞬、なるほどと思うものの、いや、これは屏風ではないだろう、とも思う。
本来、屏風とは折り畳める間仕切りで、その形状から各地にある屏風岩と称される場所は殆どが柱状節理である筈だ。然るにこの滝は、屏風ではなく「壁」である。
とはいえ、溜ノ湾殿滝という名称も意味不明で、納得のいく答えなど出せないのだが。



しかしまあ、それはともかく予想以上に美しい滝だったので、名前のことは気にせず見入ることにする。
滝の水勢は凄まじく、数十メートル離れていても水飛沫が飛んでくる。



まるで天然の砂防ダムのようだ。









高速とスローを織り交ぜながら、光と影と水の表情の変化を楽しんで撮る。





全体像も高速とスローで。





谷間を流れる水煙が、虹色の帯になった。







どんな表情も美しかったが、この日の水量、光線加減を考えると、やはり高速シャッターの方が向いているかも知れない。
ダイナミックで迫力ある姿を見せてくれた。

私は今まで100以上の滝を見てきたけれど、ここは最も好きな滝の一つになった。
優美でありながらも豪快、繊細でありながらも明快、そんな、あらゆる要素を併せ持っている。



滝のすぐ下流の流れ。






穏やかな流れは僅かな距離で、また険しい道を下って次の滝の前へ。
先ほども少し触れたが、ここは立札では屏風滝となっている。
一般的にはケヤキ原の滝とされているが、この滝の左右高みにある岩壁は柱状節理ではある。
滝本北谷の盟主とも言われているが、正直、私は先ほどの滝で完全に満足してしまい、この滝はついでになってしまった。
もう少し離れた位置から見た方が美しいのだろうけど、もはや体力も気力も限界に近く、僅かでも余分に動きたくないといった感じで、この滝の良さは写せなかった。

以前に下流から遡行した時の部屋滝までは、まだ少し距離があるが、当初からここまでの予定をしており、やや中途半端ではあるが引き返すことにする。
帰りは相当ツライ道のりで、足を引きずるようにして地蔵茶屋まで戻る。



地蔵茶屋から麓へ降りる途中にある那智高原公園の駐車場に立ち寄る。
ここはよく車中泊をする場所で、いつも美しい夕日と星空を見せてくれる場所でもある。
今回は雲が広がってしまったが、それでも夕焼け空が広がってくれた。
一眠りして、満天の星空を見てから家路へと就く。


撮影日時 100522