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社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

日本語指導その他

2009年02月27日 | 理論
 仏人の知人で、この2月より日本に滞在している女性がいるのだが、いろいろないきさつから、彼女に日本語を教えることになった。まあ、私は留学していた時に日本学科の学生に日本語を教えていたので、初めての経験ではない(ただ、結構時間が経っているので、思い出さねばならないことも多いが)。また、今年度は、非常勤の大学で4年生のゼミを担当させていただいたが、卒論の指導というのも実質、日本語の指導だった。今回日本語を教えることになった彼女は、初級レベルはとうに終え、中の上レベルであり、そういう意味では、それほど大きな差はないといえる(まだ再来日してから一月足らずだが、もう少し立てば、感覚も取り戻してくるだろうし)。

 実際、今年度は、卒論の指導(というか日本語の文章指導)をしながら、助詞や接続詞の訂正を指摘する際に、かつて教えた日本語文法の知識を、もっと生かせれば、とたびたび感じたことがあった。つまり、感覚で文章を訂正するだけではなく、文法知識に基づいて用法の説明ができれば、ずっとわかりやすいだろうにと。今年度は、そうした機会では、「あ~なんだったけ?」と思い出そうとしたものの、時間的制約で、なかなかうまく説明ができなかった。が、今後はそうしたこともないだろうと思う。
 無論、母語としての日本語文法と、母語ではない人に教える日本語文法は違う。しかし、私自身は、後者の文法も前者と同様に重要だと考えている(日本人にとっても)。例えば、母語としての日本語文法では、現在完了相というのは意識されていないが、そうした概念を導入することで、日本語で成立している時間意識や時間概念も明確になると思う。
 ちなみに、学校文法(前者の文法)では、断定の助動詞(「だ・である・です」)を繋辞(けいじ)やコピュラと説明するようだが、日本語文法(後者の文法)では、コピュラという品詞は普通採用しないらしい。(コピュラというのは、英語のbe動詞、独語のsein、仏語ではレゾン・デートルraison d'être の(デ)エートル être のことです。)
 これをして「日本(語)では、存在概念がないのに存在論をやっているのか?」と言うこともできるし(笑)、他方で、「存在概念がなくても存在は成立するジャン!」とハイデガー批判をしても良いと思う。個人的には、コピュラを特別視するというのは、やはり西欧的な論理にはまることになるんだろうと思う。が、他方で、そうした問題設定をあえて引き受ける必要もやはりあるのかもしれない、そういう考えも可能なんだろうと思う。多分、デリダなどは後者なんだろう(ただ、こうした「まとめ方」をしてしまうと、デリダのある側面を見落とすことになるという意見もあるだろうな。多分、西欧的論理をそのものとして引き受けるというのはラクー=ラバルトの名の方をあげるべきなんだろう)。

 などと、止めどもなく、連想ゲームのように物事を考えるのだった。


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