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社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

マルクスの遺産? アルチュセール著『再生産について』書評会:報告、反省、再考

2006年03月04日 | アルチュセール『再生産について』
 先日行われた、ある研究会での、アルチュセールの『再生産について』をめぐる書評会について、その報告です。で、まずは事後的ではありますが、今回の企画の意図について、説明を(まあ、実質的には弁明ですが(^-^;)。

 今回の企画で一番主眼としたかったのは、アルチュセールの『再生産について』が書かれた時代背景について(要は、60年代にあった政治・学生運動という背景について)、考えるたいものでした。というのも、2001年にパリで行われたマルクス国際会議におけるアルチュセールの部会で、聴衆から出された質問は、政治に関わるものが多かったからです。残念ながら、その際には、この問題について十分な議論がなされることがなかったのですが、それを日本という文脈で考えた場合どうなるか? というその点を、考察してみたかったわけです。そうした意図から、橋爪大三郎先生・上野千鶴子先生を迎えることで、この点を議論できるのではないかと考えたわけです。

 ただ、こうした司会者の意図は、本質的に「過去を振り返る視点」からの考察と言えるでしょう(この点は事後的に気付いたのですが)。橋爪先生のコメントは、ある意味、そうした意図に乗っ取ったものであったと、思われます。橋爪先生には、「当時の視点から」アルチュセールを再検討し、ご自身が経たインテレクチュアル・ヒストリーを、展開していただきました。森嶋通夫の資本論読解を引きつつ、「価値が定義できない故に、搾取概念を定義できない」という展開は、おそらくは彼の時代が歴史的に経験した理論の遍歴、その歴史的「証言」なのだと、私には思われました(搾取が提示できない故に、自分は『降りた』のだという「告白」として)。

 ただし、若い世代の評者(と言っても私とてまだペイペイですが(^◇^;))の報告は、そうした「過去を振り返る視点」というよりも、むしろ未来を向いた問題意識で成されていたと言えるでしょう。実は、司会者としては、この点は当初の意図からすると想定外で、うまく扱えなかった点だと反省をしております。

 その時は、発表者ごとに順を追って質疑応答することで、「過去のアルチュセール」について「ケリ」をつけたあとで、院生のコメントへ移り、「未来志向のアルチュセール」を扱えば、過去から未来へと展開する議論展開になるだろうと、思ってはいましたが、実際の議論は、良い意味でも・悪い意味でも「フランク」な議論へと展開していってしまったわけです(出席者からの発言を募ったので──評者間の関係を議論の軸とするアイデアも、あたまの中に浮かんでいなかったわけではないのですが……。そこはまあ、あまり介入しすぎるのも良くないと考えた一方で、司会者としての任を果たしていなかったとも思いますが(_ _ )/ハンセイ)。

 ただ、「今の時点から考えると」、そこは他方で、評者は討論者でもあったわけですから、評者自身が、橋爪コメントに関して問いかけをしていただければ、もっとこの「過去‐未来」の関係を扱えたとも思いますが……(ただし、この点は、後の「コンパ」で、一部議論されていたのですが。でも、何分酔った勢いだったので)。

 以前から考えていたのですが、ここで再確認したのは、「新しい理論」と「古い理論」の交代は、実際のところ、「新しい理論が古い理論を乗り越える」という仕方で成されるのではなく、現実の社会状況の変化が「新しい理論を要請する」のであるという事、故に、複数の理論間をつきあわせて、一方が他方を乗り越えるという展開ではないということです。「一方が他方を乗り越える」という展開を、書評会の中で擬似的に展開しようなどという、私の「意図」は、その当初より無茶な野望だったといえるでしょう。

 そう考えるならば、逆に、「過去を振り返り、それを乗り越える」という「進歩主義」観を離れて、自由にアルチュセールのアクチュアリティーを議論することが可能だったかもしれません。

 実際のところ、私の問題関心は、「アルチュセールをどうするか」という視点と不可分に、「マルクスをどうするか」という視点があったのですが、これはまさに「マルクス主義の遺産」を考えねばならないという、「後ろ向きの視点」だったと言えるでしょう。

 しかしそこは、上野先生がすでに冒頭の発言で言っていたように、「マルクスがスタンダード」であった時代はもはや終わっている、そして、若い世代のアルチュセール読者からすると、この「マルクス云々」という視点は、「どうでも良い」問題と言えるのかもしれません。そうした意味で、プロブレマティークが転換してしまったのだと。

 まあ、この点は、立命館大学で行われる次の企画の中心主題にしてもらえれば、今回の書評会の意義もあったと言えるのではないでしょうか。

 直前まであたふたしていて、会場設営の準備不足などもあったりしたのですが、大先生が集まったときの企画というのは、先生方がそれぞれに自分の主張をして終わる、という事が多いようなので(伊吹さんによると)、それからすると、いくつかの争点もあったのではないかと思います……、これは全くの言い訳<(_ _)>。

 と、長々と述べて参りましたが、内容報告にはなっていませんね。それについては、順を追って、コメントいただいた方の内容をそれぞれ紹介していきたいと思います(事後的に私個人が考えたこと、あるいはその時にあたまの中にあったことを交えながら)。

 いずれにしても、事後的に考えるに、アルチュセリアンである私個人としては、アルチュセールの議論の展開は、「過去を振り返る」ことよりも「未来を向くことにある」という点を確認できた良い機会でした。ということで、続きは後日。


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