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社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

知の閉鎖的空間?:雑誌『情況』座談会「再生産について」

2005年09月29日 | アルチュセール『再生産について』
 私が翻訳に参加させて頂いた『再生産について?イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』について、雑誌『情況』8/9月号で企画された座談会のなかで、興味深いエピソードがあったので、少し紹介を。

 これは西川先生が主張したことなのだが、仏のグランゼコールのひとつであるエコール・ノルマルについて。ウルム街のエコール・ノルマルの出身者の中には、アルチュセール、フーコー、ブルデュー、デリダなど(時代を少し上ればサルトルや、さらにはベルグソン、デュルケムなど)がいるが、こうした状況、仏の名だたる知識人はノルマリアンであるという状況をして、西川先生は、「どう考えても異様だ」と主張している。
 この西川先生の意見には私も同意する。そして、先生の感覚の健全さにも感心した。仏思想界ではエリートを産出する学校として考えられているエコール・ノルマルだが、しかし「すべてがノルマリアン」だという状況は、何か閉鎖的なシステムが働いていない限りあり得ないように思われる。これは私が地方都市に留学していたからかもしれないが、パリへの「中央集権」という事実を痛感した。

 ただし、この「中央集権」からすると、アルチュセールの立場は非常に微妙だ。西川先生は、結局はアルチュセールも「同じ穴の狢」と言うが、しかし、そうは言ってもアルチュセール自身の地位やポジションは、そうした中央集権的な/閉鎖的な空間の周辺部に位置していた。彼は一生をノルマルの補助教員として送るし、また、彼の学生に接するその仕方は、ノルマルのそれ、あるいは仏大学界のそれとも非常に異なっていた(ダグラス・ジョンソンによると、アルチュセールは、自分の学生達がアグレガシオンの試験会場に行くのに一緒に行ってやり、試験が終わったときにはそれについて面接をしてあげたという[ただしこれは彼自身も伝聞で聞いている])。また、党の問題に関してもそうで、彼は最後まで党にとどまり続けるわけだが、それとて彼はあくまで「周辺の存在」であったのだ。

 彼自身のpolitiqueを考えるとき、この「微妙さ」をこそ考察せねばならないように思われる。

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