花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

山内荘に武家興隆の源を探る

2011-02-11 | 鎌倉の四季
 
   
   <<證菩提寺>>

武家興隆の源となった山内の荘園地帯に牧草地や水田や山砦を歩き、領主となった首藤一族が開発しその後を継いだ源氏、北条氏、足利氏に思いを馳せながら山里の風景を楽しんで来ました。

首藤山内屋敷跡

遠く藤原釜足の流れをくむ秀郷→資清(主馬首・・シュメノオビト・・)は、主馬の長に任じられ、以後首藤氏と称されるようになったのです。12世紀前半の首藤義通・俊通親子辺りと言われています。
その屋敷跡は鎌倉街道から明月院に入ってゆく右側と考えられています。
現在では円覚寺と建長寺の間を北東に広がる谷戸が「明月ヶ谷」と呼ばれています。
明月院の前身の明月庵は首藤俊通を弔うために、息子の經俊が建立しました。

明月ヶ谷の急坂を登ると今泉台の住宅地が拡がっています。北方向に進み横浜の本郷台駅へと歩きました。

散在ヶ池森林公園(別称:鎌倉湖)

          

江戸時代に大船と岩瀬の水争い解決のために造られた人造湖で、湖岸線延長772m、最大水深7.6m、広さ13ヘクタール。
1000種近い動植物が生息しています。鬱蒼と茂る樹木に囲まれ、森林公園として整備されていて楽しみなところになっています。
写真は管理棟に面した湖面に鯉が集まっていました。

せせらぎの小径

     

 矢沢堀小川アメニティ

     

アメニティには散策木道があり、水車がゆっくり回っていて その下流は生物の種類が豊富で量も多いと聞きます。

證菩提寺

       

【開基】源頼朝 【本尊】阿弥陀如来坐像 【創建】建久8年(1197)

トップの写真は山門越しに本堂を撮っています。上記は側面から源氏の家紋を入れて撮ったものです。
1180年8月石橋山の合戦で戦死した佐那田義忠の霊を弔うために源頼朝が開いたお寺。
佐那田義忠の父は岡崎義実といい三浦義明の弟。法名を證菩提と号したので当寺の名前もそれにちなむと言われています。

北東の高い尾根が武蔵の国との境になっており鎌倉の関門になっています。鬼門でもあり更に食料補給地であり武器の製造地でもあり、鎌倉の武家の興隆に大いに寄与した地域と考えられています。

本堂の隣に収蔵庫があり國重文の阿弥陀三尊像を拝観いたしました。(映像はwebサイトより)
        
          

いたち川散策路

     
          

鎌倉の北部にあって横浜と入り組んだところに、長くうねりながら自然の川の姿をとどめながら、下流で柏尾川と合流し尚藤沢で境川と合流して江ノ島付近で駿河湾に注ぎます。
「いたち川」とは鎌倉時代に出立のセレモニーをしたところで「いざ出で立ちぬ~」が、訛ったものだと言われています。
この川の周辺一帯はお米が一番取れる地帯として奈良・平安時代からの中心地であり、鎌倉時代は幕府の食料生産地でありました。

春日神社
  
      

 【創建】山内首藤氏  【創建年】平安時代  【祭神】春日大明神

平安時代 この地は山内荘といい、柏尾川流域を経営した秀郷流藤原氏の名族、山内首藤
の荘園でありました。
春日神社は山内首藤により荘園の中に創建されたと考えらますし、祖先神の奈良の春日大社より勧請したと考えられます。

源頼朝は石橋山の戦いで平家方についた首藤經俊を許さずこの土地を土肥実平に預けます。後に和田の乱以降は北條義時の所領になり、鎌倉幕府が滅ぶと次第に衰退して戦国時代には小田原北条氏が再建したと伝えられています。

現在の本殿は「中宮」と言われ、江戸末期頃の春日曼荼羅彫刻が四面に飾られていて見ることが出来ます。神社の神主は常住せず時折奈良からお見えになります。

          

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