花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

逗子 流鏑馬

2009-11-24 | 鎌倉の四季

                         【流鏑馬のお披露目】

「吾妻鏡」は鎌倉幕府の行事記録ですが、正治2年(1199)二代将軍源頼家が、逗子小坪の海岸で弓馬の達人を集めて「笠懸」を射させたという記録があります。
笠懸とは「流鏑馬」同様、疾走する馬上から弓を射るという関東武士の当時最高の武技であったのです。
尚武の気風に富む頼家は、好んでしばしば行った事が記録に残されています。

「流鏑馬」は起源が古く、六世紀の半ば神事として始まり平安朝では、宮廷の公事として年々催されておりました。
源頼朝が鎌倉に幕府を開き全国統一を果たした事で、天下泰平を祈願するため文治3年(1187)8月15日鎌倉八幡宮で「流鏑馬」を催し、以来源家三代を経て文永3年(1267)まで毎年行われました。

時経て昭和20年の終戦後米国進駐軍に、武田流司家が流鏑馬騎射を披露したところ、この日本伝統武芸に魅せられて「流鏑馬の練習」に励んだとあります。
昭和23~24年には逗子の人々も観覧に加わり 日米親善流鏑馬騎射会が盛大に行われて地元の人々に大きな慰めと希望を与える事になりました。

今年私は初参加でしたが早めに最前列に陣取ることが出来て幸いでした。アメリカの人たちもいて多勢の人が海岸を埋め尽くしていました。
儀式に則って粛々と進められますが、最初のところは場所的に拝見が叶わずこれは来年に持ち越しと致しました。
馬場には3つの「式乃的(しきのまと)」が立てられ、馬上の射手は馬を全速力で走らせながら腰の鏑矢を抜いて重藤(しげとう)の弓につがえ、一の的から次々に三の的まで馬場を駆け抜けます。私はこの式乃的を拝見出来て満足でした。

鎌倉鶴岡八幡宮の流鏑馬は参道を十字に横切って、両側の人垣の間を馬は疾走しますが、逗子海岸では大海原を背に駆け抜ける様を味合わうことが出来たのでした。

【これぞ流鏑馬→ 的を定め→ 矢は放たれる→ 尚も疾走 】

       
     

東から西に向かって3つの的を狙った後はその馬場を歩いて出発地点に戻ります。6人の射手はこれを3回繰り返すのです。

     

逗子の海も賑わっているようでした。