犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『容疑者Xの献身』

2008-11-16 19:42:40 | その他
原作 p.45 
こういう男に靖子は惚れたのだと思い、小さな泡が弾けるように嫉妬心が胸に広がった。彼は首を振った。そんな気持ちが生まれたことを恥じた。

p.74 
最後の彼女の一言で、彼の全身の血が騒ぎだした。顔が火照り、冷たい風が心地好い。腋の下には汗までかいていた。

p.163 
「石神さんにそういっていただけると安心です」 靖子の言葉に、石神は胸の奥に明かりが灯ったような感覚を抱いた。四六時中続いている緊張が、一瞬だけ緩んだように思った。

p.184 
草薙は頭を下げ、歩いてきた道を戻っていった。その後ろ姿を見ながら、石神は得体の知れない不安感に包まれていた。それは、絶対に完璧だと信じていた数式が、予期せぬ未知数によって徐々に乱れていく時の感覚に似ていた。

p.238 
湯川は笑顔で頷くと、くるりと踵を返した。歩き始めた彼の背中に、靖子はいいようのない威圧感を覚えた。

p.255 
だが次の瞬間、物理学者の顔つきが変わった。彼は突然椅子から立ち上がると、頭に手をやり、窓際まで歩いた。そして空を見上げるように上を向いた。

p.322 
湯川の話に、靖子は混乱し始めていた。何のことをいっているのか、まるで理解できなかったからだ。そのくせ、何かとてつもない衝撃の予感があった。


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ベストセラーの映画化がなされると、必ず両者の比較による論評がなされる。そして、映画は原作に忠実でない、あるいは原作の良さを表現し切れていないといった感想も出ることになる。しかしながら、文字をそのまま映像にすることは不可能である。原作には原作の良さがあり、映画には別の作品としての独立した良さがある。映画の大画面と大音響による迫力は、印刷された本の文字によっては出すことができない。これは、映画の素晴らしい部分である。これに対して、人間が自ら文章を読み、意味を把握することによってもたらされる独特の興奮は、映画によっては生じることがない。本の文字の行間を読む力量、その場面の映像を思い浮かべる力量の集積が、その人間自身に独特な余韻をもたらすことになる。これが能動と受動の差である。

「それは、絶対に完璧だと信じていた数式が、予期せぬ未知数によって徐々に乱れていく時の感覚に似ていた」。このような何とも言えない不気味なフレーズは、読者に独特の高揚感をもたらす。それでは、映画ではこの部分をどのように映像化すればよいのか。まず、画面に数式や未知数を出して説明しても、小難しいだけで原作の緊張感は伝わらない。また、そのような感覚を持っているはずの主人公の顔をアップにしても、主人公の内心の数式や未知数の動きは全く伝わらない。そうかと言って、原作のとおりにナレーションを入れるわけにも行かない。結局この部分は、どんなに優れた監督でも映画で表現することはできない。それは、人間の内面は絶対に映像化できないということでもあり、文章によってその内面の入口まで誘導するよりほかないということでもある。

東野圭吾著 『手紙』

2008-11-15 21:12:03 | 読書感想文
p.134~

「兄貴が刑務所に入ってたら弟は音楽をやっちゃいけないっていう法律でもあるのかよ。そんなものないだろ。気にすることないじゃないか」
 むきになって語る寺尾の顔を直貴は見返した。こんなふうにいってくれることは涙が出るほどうれしかった。だが彼の言葉をそのまま受け取るわけにはいかなかった。彼が嘘をついているとは思わない。今は本心なのだろう。しかしそれは一時の自己満足によるものだとしか直貴には思えなかった。


p.320~

「犯罪者の家族もまた被害者なんだから広い心で受け入れてやらねばならない、そんなふうに教えるんじゃないのかな。学校だけじゃない。世間の人々の認識もそうだ。君の兄さんのことは職場でも噂になったと思うが、そのことで嫌がらせのようなことをされたかね」
「いいえ」 直貴は首を振った。「むしろ、以前よりも皆さんが気遣ってくれます」
 直貴の答えに満足したように社長は頷いた。
「君に対してどう接すればいいのか、皆が困ったのだよ。本当は関わり合いになりたくない。しかし露骨にそれを態度に示すのは道徳に反することだと思っている。だから必要以上に気を遣って接することになる。逆差別という言葉があるが、まさにそれだ」


p.386~

「俺はやっぱりあの人たちを許す気にはなれない。あの2人が土下座して謝るのを見てて、俺、何だかすごく苦しかった。息が詰まりそうだった。その瞬間、社長からいわれたことの意味がはっきりと理解できた」
「どういうこと?」
「正々堂々としていればいいなんてのは間違いだってことにさ。それは自分たちを納得させているだけだ。本当は、もっと苦しい道を選ばなきゃいけなかったんだ」


p.403~

 直貴は前にここへやってきた時のことを思い出した。遺族に詫びねばと思いながら、いざ彼等の姿を目にすると、あわてて逃げ出した。
 あの時のツケを俺は払わされたのかもしれない。これまでのことを振り返り、直貴は思った。もしもあの時彼等に詫びていたなら、別の道が開けていたかも知れない。少なくとも、今ほど卑屈な人間にはなっていなかったかもしれない。

 
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毎年7月1日から1ヶ月間、法務省の主唱により、「社会を明るくする運動」という活動が行われている。今年も全国各地で新聞やテレビ等による広報を行っていたが、例によって知名度は低い。この運動は、すべての国民が、犯罪の防止と罪を犯した人の更生について理解を深めることを目的としている。それでは、法務省はこの運動に際して、加害者の家族の苦悩を描いた東野圭吾氏のベストセラーである『手紙』を推薦することはあるのか。この可能性は皆無である。「罪を犯した人の更生について理解を深める」というのは、このような人間の深いところを突く小説に触れるという趣旨ではない。法務省が目指しているのは、公共施設に「ふれあいと 対話が築く 明るい社会」という標語のポスターを貼って、国民を啓発することである。これはもちろん建前であり、偽善である。

前科者や出所者に対する社会の対応は、本来イデオロギーの右左の問題ではない。机上の空論ではなく、人々の生活に密着した心理の問題である。これを偏見や差別意識、人権意識というパラダイムで一刀両断にする手法は、人間の営み全体における位置づけの考察を欠いている。人権意識の向上というパラダイムは、国民が犯罪者やその家族に対して瞬間的な警戒心や違和感を持つことに対してさえ、人権感覚の欠如という評価を下し、一種の後ろめたさを強制する弊害をもたらした。このような硬直した理論では、犯罪者やその家族に対する社会の偏見や差別意識はいつまでもなくなることがない。人権論は、1つの完結した宇宙として、その中だけで閉じてしまった。このようにして捉えられた人間像には、心の襞のようなものがなく、人物に厚みがない。犯罪者の社会復帰についての社会の対応は、本来は他者に問う種類のものではなく、自己に問う種類のものである。

私的報復と死刑は関係がない

2008-11-13 19:40:53 | 国家・政治・刑罰
周知のとおり、死刑廃止論は、犯罪被害者遺族の復讐心を和らげることに力を注いでいる。それは、本人の明示の意思に反しても、あるべき被害者像を提示して、遺された者の「真の幸福」への道筋を示すものである。「憎しみの呪縛からの解放」「報復からは何も生まれない」「犯人を赦さなければ苦しむのは自分だ」といった言い回しは、死刑廃止を進める上で、一般に効果的な論理であると考えられている。しかしながら、死刑の本質的な問題点は、国家権力によって永久に人の生命を奪うこと、すなわち国家による合法的な殺人を行うことにある。そうであれば、遺族が復讐を行うことは、国家権力とは何の関係もない単なる殺人事件である。すなわち、刑法199条の構成要件に該当し、刑法35条ないし37条の違法性阻却事由もないというだけの話である。現に世の中では、怨恨感情による報復としての殺人が毎日のように起きている。犯罪被害者遺族は国家権力ではなく私人であり、私人による復讐心の実現は、国家権力による殺人たる死刑の問題点とは全く関係がない。

それでは、死刑廃止論は、なぜ犯罪被害者遺族の報復心を和らげることに力を注がなければならないのか。それは、実際に世の中の犯罪被害者遺族のほぼ全員が、胸の張り裂けそうな復讐心を抑えて、実際には殺人行為に出ていないからである。すなわち、「人を殺すな」というルールを破った者に対して、自らは「人を殺すな」というルールに従っているからである。そのことによって、単なる私人による一般的な殺人罪の問題が、国家権力による殺人である死刑の問題と結びついてしまう。そして、死刑廃止論と抵触するという妙な構造が生じてくる。もちろん、犯罪被害者遺族が実際に復讐を行えば、事態は180度変わる。殺人犯には立憲主義と近代刑法の下で手厚い人権が保障され、無罪の推定が及び、細かく責任能力が問題にされて精神鑑定が繰り返される。のみならず、「誰でも良かった」という無差別の理由なき殺人に比べれば、復讐としての殺人には明らかに理由がある。被害者遺族に対する「復讐すればあなたも殺人犯です。それでもいいのですか」といった脅しのような文法は、遺族が血の滲むような思いで報復心を抑え込んでいる限りにおいて成立する。

それでは、圧倒的多数の被害者遺族は、なぜ報復に出ていないのか。刑法が殺人罪を定めて人命を尊重しているという理屈は、実際に殺人が犯された事実の前では無力である。これは、殺人を犯した者の属性において無力だというのみならず、国家において殺人罪を定めていることが何の殺人の抑止にもなっておらず、「法律を守りましょう」「人を殺してはいけません」といった理屈が一般的に無効にされたという現実の前にも無力である。この問いを突き詰めるならば、最後は「なぜ人を殺してはいけないのか」という哲学的かつ古典的な命題に直面せざるを得ない。そしてこの答えは、「なぜ人を殺してよいのか」と問うてはいないというその問いの形式において現れている。被害者遺族が報復としての殺人に出ていないのは、外的強制としての法律によるものではなく、内的倫理としての自由意思に基づくものである。そして、この倫理に従う限り、近代社会では、刑罰権を一手に把握する国家権力との連携は必然的なものになる。のみならず、「3人殺さなければ死刑にならない」との国家の判例の基準は、国家権力から遺された者への制約として作用する。

被害者遺族が殺人犯の死刑を望むことは、前近代的な復讐の思想によるものなのか。近代の法治国家では、被疑者の身柄は厳重に留置場に逮捕・勾留され、万全な警備の下に置かれるため、「忠臣蔵」のような復讐劇の出る幕はまず考えられない。殺人犯の代わりにその家族に対して復讐するという行為は、論理的には「最愛の家族を失う同じ悲しみを味わわせる」という意味で、通り魔的な無差別殺人に比べれば遥かに筋が通っている。それでも、現実にこのような行為に出る人もいない。これは、「人を殺してはいけない」という自らの内的倫理の声に従っていることの証左である。すなわち、死刑判決が下るか下らないかの裁判に望みを賭け、最高裁まで5年も10年もかかる長丁場に振り回されて苦しむことは、私的報復の気持ちを抑えていることの反映である。「被害者遺族は死刑制度を通じて復讐心を実現している」といった捉え方は、ひとたび実際に遺族が報復行為に出て、国家権力によって殺人罪で起訴されて判決を受けるという事態になれば、すべてひっくり返ってしまう。被害者遺族と国家権力の結びつきは、「人を殺すな」という倫理を破った者のために「人を殺すな」という倫理を守っている遺族の忍耐力の上に初めて成立しているからである。

海堂尊著 『チーム・バチスタの栄光』

2008-11-11 23:00:51 | 読書感想文
下巻 p.139~

 桐生は白鳥を睨みつける。
「私の外来には手術の順番を待ち続けている患者が大勢いる。彼らは何ヶ月も、いや何年も待ち続けた。いろいろな施設で門前払いを喰わされて絶望の中、ようやく私の元にたどりついた。そんな人たちを前に、体調が悪くなったのでもう手術できませんと、あっさり言えると思っているんですか。そんなことはできない」
 桐生は鋭い視線を白鳥に投げかけ、言い放つ。
「患者を一人術死させたらメスを置かなければならないとしたら、この世の中からは外科医なんていなくなってしまいます」


p.225~

 そんなある日、ヤツが取り調べで、ついに口を開いたというニュースが流れた。ヤツはたった一言、こう呟いたという。
「これじゃあ医者も壊れるぜ」
 メディアは連日、ヤツのセリフを繰り返し垂れ流した。その言葉の真意を、医療関係者や精神科医、ひいては文化人や政治家までもが深読みし、おのおのの内部にある不満因子で膨らませて、独自に発信し始めた。
 大学執行部の旧体質。麻酔医の激務。外科医の怠慢。研修医の憂鬱。拝金主義の経営陣。権利ばかり振り回す患者たち。ヤツの言葉は、そうした現在の医療の現状の、ある一面を見事に切り取っていた。


p.257~
 
「33分の1。桐生先生のバチスタ致死率です。大した外科医です」
 桐生は首を横に振る。
「そう言っていただけて嬉しいです。けれどもそんな数字は、もうどうでもいいんです。数字で人は救えません。失われた命を前にしたら、数字なんて何の意味も持たないのです」
 俺は、桐生がそう答えるだろうということを知っていた。そして今、桐生に伝えなければならない言葉が俺の目の前にある。


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人は生きている限り必ず死ぬ。従って、最善の医療を尽くしても救えない命があることは、あまりに当然である。そして、医療は無数の患者の死によって今日まで進歩してきた。しかしながら、医師がこのこと自体を患者に主張した途端、それは論理的に背理を生ずる。患者は医師のことを、あらゆる病気を治せる神様だなどとは微塵も思っていない。どんな優秀な医師にも治せない病があることは常識的に理解している。それゆえに、医師が「救えない命があって当然だ」といった姿勢を示すならば、それは当たり前のことを当たり前に言っているだけの話となり、そのことによって医療過誤訴訟は減ることがない。

患者や遺族から訴えられた医師からは、裁判の過程において、次のような反論が出ることがある。「原告側の論理は、末期がんで入院して死亡した患者についても入院時より悪化して死亡したから病院に過失があると主張するに等しく、全くの暴論であり、かような医学的知識のない素人の感情論は断じて受け入れることはできない」。このような誹謗中傷合戦が繰り広げられる医療過誤裁判は非常に悲しい。最後のところで医師が患者や遺族から訴えられるのか否か。この差は、わずかなボタンの掛け違いに端を発することが多い。

客観的事実は客観的に決まらない

2008-11-10 18:56:41 | 言語・論理・構造
ある日の某市役所の窓口にて


● その1

住民 「2000円の収入印紙ください」

係員 「はい」

~30秒後~

係員 「5000円の収入印紙ですね、5000円お願いします」

住民 「あの、2000円の印紙なんですけど」

係員 「えっ、あなた、さっき5000円っておっしゃったでしょう」

住民 「そうでしたか」

係員 「そうですよ」

住民 「あっ、すみません」

係員 「もう領収書を書いてしまったんで、本来は買い取って頂かなければならないんですけどね、今回だけは特別ですよ」

住民 「ありがとうございます」

係員 「これからは気をつけて下さいよ、本当に。クレーマーが多くて、私達も忙しくて大変なんですから」


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● その2

住民 「5000円の収入印紙ください」

係員 「はい」

~30秒後~

係員 「お待たせしました。5000円の収入印紙ですね。5000円お願いします」

住民 「あの、2000円の印紙なんですけど」

係員 「そうですか。先ほど、5000円と・・・」

住民 「私は2000円って言いましたよ」

係員 「はい・・・」

住民 「何を聞いてるんですか」

係員 「大変失礼いたしました。もう少々お待ちください」

住民 「しっかりして下さいよ。5000円なんて払いませんから。こういう間違いばかりしてるから、税金泥棒だって言われちゃうんですよ」

係員 「本当に申し訳ございませんでした」

門田隆将著 『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』 第15章

2008-11-09 18:21:45 | 読書感想文
第15章 「弁護団の致命的ミス」より

p.215~220より抜粋

「最近では、被告人の主張が一変したことについて、弁護団の方々がインターネットで裁判に関する資料を公開し、弁護団とF君の新たな主張として、社会に向けて発信しています。インターネットで妻の絞殺された時の状況を図解した画像などが無作為に流布され、私の家族の殺され方などが議論されている状況を決して快く思っていません。言論や表現の自由は保障されるべき権利でありますので、私が異議を唱えることはできないとは思っています。ただ、そのようなことが掲載されているところを拝見し、殺されている状況が図解されている妻の悔しさを思うと涙が溢れてきます。怒りなのか、虚しさなのか、この感情をどのような言葉で表せば良いのか分かりません。ただ、家族の命を弄ばれているような気持ちになるのは確かだと思います。

私は事件直後に1つの選択をしました。一切社会に対して発言せず、このまま事件が風化し、人知れず裁判が終結するのを静観するべきか、積極的に社会に対し被害者としての立場で発言を行い、事件が社会の目に晒されることで、司法制度や犯罪被害者の置かれる状況の問題点を見出してもらうべきか。そして、私は後者を選択しました。家族の命を通して、私が感じたままを述べることで社会に何か新しい視点や課題を見出して頂けるならば、それこそが家族の命を無駄にしないことに繋がると思ったからです。しかし、先のように世間の話題になることで、インターネット上で家族の殺害状況の図解までが流布される事態を目の当たりにすると、私の判断が間違っていたのではないかと悔悟の気持ちが湧いてきます」

そして本村は、陳述の最後に、“裁判官の皆様”と呼びかけ、こう語った。「事件発生から8年以上が経過しました。この間、私は多くの悩みや苦しみがありました。しかし、挫けずに頑張って前へ進むことで、多くの方々と出会い、支えられて、今日まで生きてきました。私は、事件当初のように心が怒りや憎しみだけに満たされている訳ではありません。しかし、冷静になればなるほど、やはり妻と娘の命を殺めた罪は、命でもって償うしかないという思いを深くしています。そして、私が年を重ねる毎に多くの素晴らしい出会いがあり、感動があり、学ぶことがあり、人生の素晴らしさを噛み締めています。私が人生の素晴らしさを感じる度に、妻と娘にも本当は素晴らしい人生が用意されていたはずだと思い、早すぎる家族の死が可哀想でなりません。

私は、家族を失って家族の大切さを知りました。命の尊さを知りました。妻と娘から命の尊さを教えてもらいました。私は、人の人生を奪うこと、人の命を奪うことが如何に卑劣で許されない行為かを痛感しました。だからこそ、人の命を身勝手に奪ったものは、その命をもって償うしかないと思っています。それが、私の正義感であり、私の思う社会正義です。そして、司法は社会正義を実現し、社会の健全化に寄与しなければ存在意義がないと思っています。私は、妻と娘の命を奪った被告に対し、死刑を望みます。そして、正義を実現するために、司法には死刑を科して頂きたくお願い申し上げます」。しばらく誰も声を発することができなかった。事件発生から8年余。本村の姿勢は、年月を経ても、いささかも揺らいでいなかった。


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いよいよ12月1日から被害者参加制度が始まり、来年の5月21日からは裁判員制度も始まり、「言葉」と「言葉」が法廷でぶつかり合うことになる。「被害者遺族の激しい憎悪は刑事裁判から理性を剥ぎ取り、近代司法制度を殺せ殺せの大合唱の魔女裁判に変えてしまう恐れがある」。このような命題が支持されるのか否か。これを決めるのも「言葉」である。

大阪・梅田ひき逃げ事件

2008-11-08 17:22:31 | 言語・論理・構造
大阪・梅田で10月21日未明、交差点を横断中の会社員・鈴木源太郎さん(30)が車に約3キロ引きずられて死亡したひき逃げ事件で、大阪府警は11月5日、ホストの吉田圭吾容疑者(22)を逮捕した。罪名は、殺人罪(刑法199条)・自動車運転過失傷害罪(刑法211条2項)・無免許運転の罪(道路交通法64条)である。府警は、轢いた行為は自動車運転過失傷害罪にあたり、死亡するまで引きずったことが殺人罪にあたると判断したようである。一連の行為がいかなる罪名に該当するのか、この最初の判定は難しく、実務上も一大論点となっている。「一罪一逮捕一勾留の原則」があるため、最初のところで間違えると、あとで面倒なことになるからである。従って、逮捕・送検・勾留・起訴の各段階で、被疑事実の同一性の判定と罪数判断が専門的に細かく問われることになる。

轢き逃げ事犯で殺意を認定することができるのか、これはアカデミックな刑法学者の間では何十年も激しく争われている論点である。いわゆる「未必の故意」と「認識ある過失」との区別である。この点の学説は、故意概念についての意思説と表象説の対立に従って、認容説と認識説とに分かれている。そして、認識説の中には蓋然性説という見解があり、さらに動機説と呼ばれる全く異なった見解もあるが、その内容は認識説に近いものや認容説に近いものなど様々である。アカデミズムの中で議論を戦わせている者にとって、今回の事件は非常に「興味深い」素材である。約3キロ引きずった場合に故意が認定できるのであれば、1キロならどうか、100メートルならどうだったのか、いわゆる「判例の射程」が何よりも問題となる。そこで、アカデミズムにおいては、次のような言い回しが流布している。いわく、「今後のさらなる判例の集積が望まれる」。

言葉は世界を作り、構造を作る。ある特定の業界における専門用語は、その外の世界との間に壁を作る。そして、その専門用語による世界は物理的に実在するものとなり、専門家と呼ばれる人達は、その世界を理解していない一般人に対して優越感を持つようになる。今回の事件で、被害者の弟の秀次郎さん(25)は、記者会見で次のように述べていた。「兄は2人目の子どもが生まれる前だったのに、志半ばで事件に巻き込まれた。無念でなりません」。「今は気が張っているが、気持ちの糸が切れるかもしれないので、遺体の発見現場に行けない」。「夜眠る前に兄を思い出し、胸が締め付けられている」。このような人間が心底から絞り出す言葉にならない言葉は、専門用語の世界とは言語のレベルが異なる。そして、このような言葉を専門家にぶつけると、例によって激しい拒絶に遭う。いわく、「理性的であるべき刑法や裁判が感情的になってはならない」。あるいは、「被害感情が癒されるように心のケアをすべきである」。

被害者は3キロも路上を引きずられて、どんなに痛かっただろうか。どんなに苦しかっただろうか。そして、あろうことかこのような運転者に命を奪われて、どんなに無念だっただろうか。愛する人には1秒でも長く生きてほしいが、ここでは1秒でも早く死んでいたことを望まざるを得ない。この胸の張り裂けそうな矛盾にどう向き合えばよいのか。裁判員制度の導入を前にして、これらの言葉は「感情」に分類されている。そして、刑法の条文における事実認定の「理性」よりも一段下に置かれている。しかしながら、これは単に加害者と被害者のどちらを主語にして文章を作るかの違いであって、「理性」と「感情」の違いではない。加害者を主語にした文章を作ることが、裁判という時と場所によって異なる限られたルールの中で、国家刑罰権の発動という枠組に合目的的であるというだけの話である。加害者における「殺意を有していたか」の判定は過去の一点の評価であり、現在の内心ではない以上、これは現時点での生死に関わるものではない。路上を引きずられている被害者の内心に思いを馳せて苦しむこと、これは殺意の認定よりも遥かに理性的な行為である。

2ではないがゼロでもない

2008-11-05 19:22:55 | 時間・生死・人生
人はどうすれば悲しみから救われることができるのか。この問いには唯一の答えがない。宗教は様々な解答を語ることによって、実際に人々の悲しみを癒している。しかしながら、その解答はそれぞれの宗教によって異なるというそのことによって、一人ひとりの信仰心に支えられている。ゆえに、信じる者は救われるが、疑う者は救われない。そして、いくつもの解答があることを不審に思い、唯一の答えがないことが答えだと知る者は、悲しみから救われることがない。ところが、ここでは問われていない前提がもう一つある。「どうすれば悲しみから救われることができるのか」と問う限りにおいて、「悲しみから救われるとはどのようなことか」という問いは問われていない。この問いは大前提として置き去りにされている。しかし、順番としては、そもそも「悲しみから救われるとはどのようなことか」を問わなければ、一体に何に救われたり救われなかったりするのかも確定できないはずである。そして、この問いの方向は、この大宇宙の片隅に生まれて生きて死ぬ不思議さ、その事実に畏怖する謙虚さの感覚と切り離すことができない。

無限の宇宙と永劫の時間の中では、人一人の人生など無に等しい。しかし、ここに宇宙などという空間があるのは、紛れもなくここに自分が存在しているからである。どういうわけか、自分は他の誰でもなく、ここで自分の人生を生きている。これは誰にとってもお互い様である。人生は一度きりである。そして、一度きりであるということは、二度ではないということである。人は時間を同じくして二人分の人生を生きることはできない。また、来世や生まれ変わりを信じない人にとっては、その信じないということによって、来世や生まれ変わりは存在しない。従って、どう頑張っても人生は一度きりである。ところが、一度きりであるということは、同時にゼロ回ではないということでもある。この事実は、常に「ゼロ回でなかった」との過去形で表れる。過去形であれば、存在していることと存在していたことの間に差はない。すなわち、人の生命が重いのではなく、人の生死が重い。他の誰でもない人がその人として存在したことは、悲しみの名で呼ばれるべきものではない。もちろん、喜びの名で呼ばれるほど安いものでもない。

自分が自分である不思議、その人がその人である不思議、これは自然科学では説明のつかない事項である。この無限大の宇宙における人間存在に畏怖し、その風景を謙虚に捉えた場合、そこには自ずと「魂」の語が表れる。これは特定の宗教のそれではなく、脳科学における「意識」、心理学における「心」、哲学における「脱人格的自我」のことである。これは信じるも信じないもなく、信じたり信じなかったりするまさに「それ」のことである。自分は他人ではく、他人は自分でなく、自分は他の誰でもなくこの世に生まれて生きて死んでゆくこと、この事実は科学では証明できない。よって、魂の存在は科学的に証明できない。生きている者の魂が証明できない以上、死者の魂だけをあえて問題にする必要もない。同じように、死者には脳や意識がないことから、科学は死者は無であると言いたがる。しかしながら、そもそも生きている者の心脳問題も解けず、生きている者の意識も科学的に捉えられないのだから、やはり死者のそれだけを問題にする必要もない。

死別の悲しみから救われるということは、「死者は今どこにいるのか」の問いに答えを見つけることである。そして、その問いの答えは、「なぜ『死者は今どこにいるのか』という問いを問わざるを得ないのか」という問いそのものの中にあり、この問いは無限に自己言及の形を採る。人生は一度きりであって、二度ではない。しかし、ゼロでもない。従って、完全な無になるということは、現在という時間が過去を含んでいる以上、論理的に起こりようがない。自分が自分であり、他人が他人であるとすれば、「その人そのもの」は一体どこへ行ってしまったのか。「天国にいる」「彼岸にいる」「あの世にいる」という言い方は、自然科学的にはあり得ない。しかしながら、何故だか深く腑に落ちる。この感覚は、存在が存在として在ることの不思議、在ったことの不思議、これらの謎に驚くことができるならば、特定の宗教の様々な教義を超えて、誰もが理解できる種類のものである。「一期一会」という言葉は、二回ではないという意味において奇跡の感覚をもたらすが、ゼロ回ではないという方向からも捉えてみれば、その意味はさらに深くなる。

シェル・シルヴァスタイン著 『おおきな木』

2008-11-04 22:46:32 | 読書感想文
この本は、アメリカで1964年で発売されて以来ロングセラーとなっている絵本であり、「3歳から99歳まで読み方100通りの絵本を超えた絵本」と呼ばれている。子供の時に読んだ本を大人になってから久しぶりに読むと、非常に不思議な感じがするものである。初めてその本を読んだときの遠い記憶が、周辺の風景と共に脳の奥のほうから蘇ってくる。本のほうは何も変わっていない。変わっているのは自分のほうである。そして、頁をめくるたびに、子供の時には気がつかなかったことに気づかされる。同じ本を読むたびに、その本が違って見えてくる。客観性などというものは実に怪しい。作品を味わうよりも先に、その内容をあれこれと解釈する癖がついている大人にとって、このような自分の幼き日の原風景に出会うことは、何かホッとした感じを覚えるものである。

絵本は作り話である。従って、本当か嘘かと問われれば、それは嘘である。これは、言葉というものの本来の機能に合致している。大きな木とりんごの実、それは読者の数だけのイメージを思い起こさせる。しかも、同じ人間の中でも、子供の時と大人の時とでは起こるイメージが異なる。この絵本の中では、子供が大人に成長し、そして最後は老人になる。それを読む側も、子供から大人になり、最後は老人になる。さて、動いているのはどちらであり、動かないのはどちらなのか。奇しくも、プラトンのイデア論の説明においてよく挙げられるのが「りんご」である。絵本の中のりんごはイデアである。絵本の中の文字も絵も、科学的に分析すればインクの染みにすぎない。しかし、本の中には確かに大きな木とりんごの実がある。

訳者の本田錦一郎氏のあとがきに、次のようなことが書いてある。「愛とは、第一に与えることであって、受けることではない。与えるという行為においてこそ、人は自分の生命の力や富や喜びを経験する。しかも、この『与える』行為に犠牲の行為を見てはいけない」。大人になると、このことが理屈でわかようになる。その反面、子供の時の言葉にならない直感は衰えている。愛とは、第一に与えることであって、受けることではない。一言で言えば全くその通りである。しかしながら、そのように言い切ってしまうと、何かが逃げてしまっているような気がする。この本には、1か所だけ読者に問いかけている部分がある。「きは それで うれしかった…… だけど それは ほんとかな」。この問いに対する答えを数学的・科学的に求めようとすれば、必ず失敗する。

絵本を読むことは、絵本に表れた精神を読むことである。これは、著者の意図を理解することではなく、登場人物の気持ちを理解することでもない。絵本は一人歩きする。学校に提出する読書感想文のために本を読むと、どんな本でも途端につまらなくなる道理である。本を外から捉えて読むのではなく、本に内に入り込む。この能力は、子供のほうが優れている。大人は絵本を読むが、子供は絵本に読まれる。子供の時に読んだ本を大人になってから久しぶりに読む経験は、自分自身を知る経験である。読むたびに新鮮な感動が生まれるのは、絵本が自分自身を映す鏡の役割をしているからである。読まれた人の数だけの正解が存在するということは、言葉というものの本来の機能をそのまま示していることでもある。

裁判員制度の標語が白々しい理由

2008-11-03 18:21:38 | 国家・政治・刑罰
民主主義社会において、法律は国民によって作られるものである。本来、法律は国民の多数決の代表たる国会議員によって作られるというだけではなく、国民の規範意識・遵法精神によって支えられていなければならない。ところが、現代の日本において、この規範の感覚は見事に壊れている。民主主義のルールとしては、守りたくない法律があるならば、国民は勝手に法律を破るのではなく、選挙と国会議員を通じて廃止・改正を訴えなければならない。社会の実態に合わなくなった法律は、国民によっていつでも廃止・改正できるというのが民主主義の原則だからである。しかしながら、現在の日本社会においては、国民は法律の制定・改廃の当事者であるという感覚が非常に持ちにくくなっている。複雑化したシステムの中では、主権者として法律に関わっているという認識を持つことが難しいからである。裁判員制度は、このような現代の日本国民の上に、いきなりポンと投げられてしまった。現代人のほとんどは自らと法律との距離を測りかねているのに、あろうことか、その法律を犯した人を裁かなければならなくなってしまった。

社会とは、「私」が集まった「私達」「我々」の感覚によって成立する虚構である。この感覚によって、初めて自分と社会がつながることになる。ところが、複雑化・専門化が進んだ国家では、選挙によってこのつながりを確認することが難しい。国民が身近な問題として抱えている大多数のことは、ほとんどの場合、選挙で誰が当選しても変わらないからである。選挙のたびに「あなたの一票が社会を変える」と言われて、実際には何も変わらなかったという経験を繰り返せば、人間はいつの間にか民主主義の虚構性を学習してしまう。そして、投票率はいつも低迷し、法律はどこか別の世界で勝手に動いているといった感覚が通常のこととなる。国民の知らないところでいつの間にか「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が可決・成立し、法務省や最高裁が裁判員制度のPRに躍起になっているのは、この皮肉な構造を示している。国民の規範意識・遵法精神の問題が置き去りにされている状況は、民主主義の原則からすれば、中心部分が空洞化している。他方で、裁判員制度の導入の賛否の議論のほうでは、実に民主主義的な光景が広がっている。

平成21年の5月から日本で裁判員制度が始まること、この事実はそれ自体で他の問題から浮き上がっている。すなわち、このタイミングで裁判員制度を始めることに時代的な必然性はない。ここ数年、凶悪犯罪の増加による治安の悪化への不安は、多くの国民の共通認識となっているが、裁判員制度はその認識とも結びついていない。万引きや恐喝などの少年犯罪、会社員や主婦にまで広がる薬物汚染、相変わらず減らない振り込め詐欺など、規範意識の低下に対する警戒感と脱力感は国民の共通認識となっているが、裁判員制度はその認識とも結びついていない。さらには、公務員の汚職、相次ぐ大企業の偽装などの不祥事が連日マスコミを賑わせているが、裁判員制度はこの点とも結びついていない。時代論の大好きな国民が、なぜか平成21年の5月に裁判員制度が始まることを処理できないでいる。これは、裁判員制度の対象事件が、殺人や放火などの重大犯罪に限定されていることに基づくものではない。現代人のほとんどは自らと法律との距離を測りかねているため、主権者として法律を犯した人を裁くことの意味が掴めていないことが原因である。

圧倒的多数の日本人にとって、法律はどこか別の世界で勝手に動いている。ゆえに、裁判員制度のPRの標語はどれも白々しい。「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」。「国民と司法のかけはし 裁判員制度」。「裁判に 深まる理解 高まる信頼」。「活かしましょう あなたの良識 裁判に」。このような能書きは、民主主義の建前からすれば、わざわざ教えられるまでもないはずである。これを改めて文字にし、国民の理解を得るべくPRに走り回らざるを得ないということ自体が、法律が国民の規範意識・遵法精神によって支えられているという原則の崩壊を示している。景気の低迷、所得格差の拡大、非正規雇用労働者の増加、少子高齢化、介護保険、年金といった問題では自分のこととして熱くなる国民の多くが、裁判参加についてはどうしても熱くなれない。現代社会の構造からすれば、これは無理からぬことである。多くの国民は、自らが法律の制定・改廃の当事者であり、主権者として法律に関わっているなどとは思っていない。従って、その法律を犯した者を裁くモチベーションもない。このような変な状況の中で、上戸彩のポスターだけが目立っている。