犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

シェル・シルヴァスタイン著 『おおきな木』

2008-11-04 22:46:32 | 読書感想文
この本は、アメリカで1964年で発売されて以来ロングセラーとなっている絵本であり、「3歳から99歳まで読み方100通りの絵本を超えた絵本」と呼ばれている。子供の時に読んだ本を大人になってから久しぶりに読むと、非常に不思議な感じがするものである。初めてその本を読んだときの遠い記憶が、周辺の風景と共に脳の奥のほうから蘇ってくる。本のほうは何も変わっていない。変わっているのは自分のほうである。そして、頁をめくるたびに、子供の時には気がつかなかったことに気づかされる。同じ本を読むたびに、その本が違って見えてくる。客観性などというものは実に怪しい。作品を味わうよりも先に、その内容をあれこれと解釈する癖がついている大人にとって、このような自分の幼き日の原風景に出会うことは、何かホッとした感じを覚えるものである。

絵本は作り話である。従って、本当か嘘かと問われれば、それは嘘である。これは、言葉というものの本来の機能に合致している。大きな木とりんごの実、それは読者の数だけのイメージを思い起こさせる。しかも、同じ人間の中でも、子供の時と大人の時とでは起こるイメージが異なる。この絵本の中では、子供が大人に成長し、そして最後は老人になる。それを読む側も、子供から大人になり、最後は老人になる。さて、動いているのはどちらであり、動かないのはどちらなのか。奇しくも、プラトンのイデア論の説明においてよく挙げられるのが「りんご」である。絵本の中のりんごはイデアである。絵本の中の文字も絵も、科学的に分析すればインクの染みにすぎない。しかし、本の中には確かに大きな木とりんごの実がある。

訳者の本田錦一郎氏のあとがきに、次のようなことが書いてある。「愛とは、第一に与えることであって、受けることではない。与えるという行為においてこそ、人は自分の生命の力や富や喜びを経験する。しかも、この『与える』行為に犠牲の行為を見てはいけない」。大人になると、このことが理屈でわかようになる。その反面、子供の時の言葉にならない直感は衰えている。愛とは、第一に与えることであって、受けることではない。一言で言えば全くその通りである。しかしながら、そのように言い切ってしまうと、何かが逃げてしまっているような気がする。この本には、1か所だけ読者に問いかけている部分がある。「きは それで うれしかった…… だけど それは ほんとかな」。この問いに対する答えを数学的・科学的に求めようとすれば、必ず失敗する。

絵本を読むことは、絵本に表れた精神を読むことである。これは、著者の意図を理解することではなく、登場人物の気持ちを理解することでもない。絵本は一人歩きする。学校に提出する読書感想文のために本を読むと、どんな本でも途端につまらなくなる道理である。本を外から捉えて読むのではなく、本に内に入り込む。この能力は、子供のほうが優れている。大人は絵本を読むが、子供は絵本に読まれる。子供の時に読んだ本を大人になってから久しぶりに読む経験は、自分自身を知る経験である。読むたびに新鮮な感動が生まれるのは、絵本が自分自身を映す鏡の役割をしているからである。読まれた人の数だけの正解が存在するということは、言葉というものの本来の機能をそのまま示していることでもある。