犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

神奈川県立神田高校 入学試験不合格問題

2008-11-28 18:23:20 | 言語・論理・構造
先月の29日、神奈川県平塚市の県立神田高校の入学試験において、試験日に服装・態度に問題があった受験生を不合格にする措置が採られていたことが判明した。これを受けて神奈川県教育委員会は、同校の渕野辰雄校長を今月1日付で県立総合教育センターに異動させた。この処分に対しては、教育委員会に前校長を擁護する意見が寄せられ、復職を求める多数の署名も集まった。これに対して一昨日、不合格とされた受験生の保護者が心情を吐露した。「子どもの可能性の芽が摘まれてしまった。謝罪されても、もう時間は戻らない」。「息子もあの時入学していれば違った人生を歩んでいたはずなのに」。「(嘆願書が提出されたことについて)不合格にされた息子のことも理解してほしい。外見への偏見で22人の人生を変えたのだから」。この発言を受けて、教育現場やネット上ではさらなる賛否両論の波紋が広がっている。

不合格によって可能性の芽が摘まれた。高校に通えなかった時間は戻らない。高校に行っていれば別の人生を歩んでいた可能性があった。受験生の保護者の言うことは全てその通りである。理屈としては、全く非の打ち所がない。ところが、この言葉は人々の心をあまり掴まなかったばかりか、多くの批判を浴びている。これは、人間の直感的な違和感、倫理の針の振れるべき方向といったものに基づく。正義という概念は、万人において正義であることにおいて正義となり得る。従って、それが正義である限り、不正義を糾弾する必要はない。入学試験における合否判定の方法は、所詮は相対的なものであるが、正義の概念は不動である。高校入試の合否判定の方法における意見の表明は、単にそれに利害関係を持つ人の真実であって、万人の真実ではない。ここにおいて、戻らない時間、別の人生の可能性といった絶対的な正義を政治的主張のために援用されれば、聞く者の倫理は瞬間的に激しい拒絶を示す。

時間は絶対に戻らない。別の人生を歩んでいた可能性が奪われた。これらの文法が正当にも通用するのは、人の不条理な死の場面においてである。その代表は戦争やテロであるが、事故や自殺による不慮の死もすべて同じことである。人生の一回性、時間の不可逆性という理不尽を誰よりも知り抜いているのは、後に遺された者である。そして、この残酷さを知り抜いた者は、この絶対的な真実を他者に向かって主張することはない。なぜならば、万人にとっての真実は、自分自身を除くことができないからである。他者に向かって発せられた真実の言葉は、それが真実であることによって、すべては自分自身にも向けられる。そこでは、正義・不正義の二元論が成立する余地がなく、正義の名において他者を糾弾する余地もない。不合格になった受験生の保護者に対する違和感は、この点に関する保護者の鈍感さへの苛立ちである。

現代の自由主義社会においては、たかが髪型ではないか、ピアスを外せば済むだけの話ではないかと言えば、自己決定権の重要性に基づく反論を受けるのがいつものことである。そして、不合格は自業自得であるという保守派と、公権力による人権制約が問題なのだという進歩派が例によって対立する。そして、時間は戻らない、人生は一度きりだというところまで話が大きくなる。これは言葉の安売りである。人間は言葉によって全てを伝えることはできないが、それでも言葉を使うより他に意思を伝える方法はない。語り得ぬものによって語ること、これは政治的な要求ではなく、特定の主義主張でもない。「息子はどうして高校に行けなかったのか」という問いに対しては、「そこまでして何が何でも合格したかったならば、試験当日には髪を黒くしてピアスを外せばよかったのに」という答えがすぐに出る。これに対して、「息子はどうして命を落とさなければならなかったのか」という問いに対しては、そのような答えは出ない。言葉の安売りは、社会において使用される言葉の意味を軽くし、沈黙や絶句による意思伝達をますます困難にする。