犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

警視庁警視の酒酔い運転

2008-11-21 20:37:58 | 実存・心理・宗教
茨城県警は17日、酒酔い運転の現行犯で、警視庁総務部施設課警視の日高幸二容疑者(50)を逮捕した。日高警視は交通部門のベテランであり、交通安全対策担当課長として飲酒運転防止などを担当し、「飲酒運転させない宣言の店」と書かれたステッカーを飲食店などに配る職務に従事していた。日高警視は、17日午後3時すぎから3時間、総務部施設課の同僚とキャンプ場で缶ビールや缶酎ハイなどを飲んだとのことである。そして、接触事故を起こして逃走しようとしたが、2キロ走ったところで取り押さえられてしまった。同警視からは基準値の4倍を超える呼気1リットル当たり約0.6ミリグラムのアルコールが検知されたが、本人は「1時間半から2時間仮眠を取ったので大丈夫だと思った」「翌朝早く鹿児島県の実家に帰省する妻を見送るため家に帰りたかった」「田舎道なので、ゆっくり運転すれば大丈夫だと思った」などと供述しているという。

「自分が飲酒運転を取り締まる立場であるにもかかわらず、飲酒運転をするとは警察の名に恥じる言語道断の行為であり、誠に驚きを禁じえない。今回の行為によって、国民の警察への不信感はますます膨らんでしまった。飲酒運転を撲滅するために、警察官の飲酒運転の罪は一般国民のそれよりも重く罰しなければならない」。このような正義にあふれた非難を浴びせることは簡単である。このような熱い主張における「驚き」は、実際には驚いていないことが多い。飲酒運転を防止すべき立場にいる警察官は誰もが清廉潔白であり、誰一人として飲酒運転はしていないと信じていたならば、このような鬼の首でも取ったかのような喜び方はしないはずである。今回の飲酒運転の発覚は氷山の一角であり、飲酒運転をする人はどのような立場であれ安易に飲酒運転をすること、しない人はどのような立場であれ絶対に飲酒運転をしないこと、日高警視の逮捕はこの当たり前のことを明らかにしただけである。

社会とは何か。規則とは、善悪とは何か。これらは法哲学の根本問題である。そして、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに絶対唯一の答えが出ないのでれば、「なぜ飲酒運転をしてはいけないのか」という問いについても同様である。このような問いは、道路交通法は自らの自由を束縛するもの、面倒臭くてうるさいものだと感じる人においてのみ問題となる。最初から、あえて法律に言われなくても飲酒運転は非常に危険な行為であり、怖くてできないと考えている人にとっては、道路交通法は束縛とは感じられない。法律がわざわざ「悪い」と言わなくても、飲酒運転とは悪い行為であるとの結論が先に出ているからである。その意味で、飲酒運転撲滅キャンペーンを目にして、「最近の世の中はうるさいから気をつけよう」と感じたのであれば、それは論理が逆である。もともと法律とはこのような逆の論理に立脚したものであり、破ろうと思わない者にとっては何の拘束にもなっていない。

この世から殺人がなくなれば死刑は不要になるのと同じように、この世から飲酒運転がなくなれば「飲酒運転させない宣言の店」のステッカーも不要になる。実際にステッカーを配っていた日高警視自身の飲酒運転は、このような論理を見事に示してしまった。飲酒運転はいけないのだと何回も言われなければわからないような人間は、実際には何回言われてもわからない。法律で決められているから仕方なく従おうと思っている限り、決して自分の頭で飲酒運転の悪質性と危険性を考えることがなく、本音のところでは捕まらなければいいと考えているからである。飲酒運転は本当に危ない行為なのだ、走る凶器なのだという直感は、他人に教えられて身につけるものではなく、本人が自分の頭で理解するしかない。近年、飲酒運転で大事故を起こし、被害者の人生が滅茶苦茶にされてしまったといったニュースは数多い。このようなニュースを目にして本来人間に湧き上がるはずの感情は、「飲酒運転などしたくない」という自発的な欲求である。これは紛れもない自由であって、束縛ではない。