犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

修復的司法の問題点 その4

2008-11-17 20:54:13 | 実存・心理・宗教
修復的司法の思想は、刑法犯のみならずDVやいじめをも射程に捉えるものであり、現行の刑罰制度にとって替わろうとするまでの壮大な体系を有している。しかしながら、この思想は現在のところ、厳罰化を食い止めようとする政治的勢力によって重宝されている反面、肝心の被害者にはほとんど支持されていない。修復的司法は、狭義においては「被害者・加害者・地域社会の3者によって犯罪を解決すること」と定義されており、被害者の支援・加害者の援助・地域社会の再生などの理念が上位概念として据えられている。そして、この究極的な理念において、被害者の応報感情や厳罰感情は発展的に解消され、一元的な解決が図られることになっている。このような捉え方は、人間の名付けられない複雑な感情を一元的な体系に押し込みすぎており、そこからこぼれ落ちているものがあまりに多い。

修復的司法の思想は、これまで犯罪被害者が刑事裁判の枠組の外に置かれてきたことを反省し、被害者と加害者との対話の重要性を指摘する。これは、実際に多くの被害者が求めているものとはテーマが全く食い違っている。被害者は何よりも全身を打ちのめされるような絶望と虚脱感、生きる希望を失った虚無感の中で、この世の不条理に否応なしに直面させられている。中でも最大の不条理とは、修復の不能である。このような救いのない状況における唯一の救いとは、その救いのなさと不条理の原因を正確に知ることである。その上で、近代法治国家においては裁判のシステムが確立されており、被害者は事件の不可欠な構成要素である以上、当事者の地位から排除されているのは本末転倒であるとして、刑事裁判の枠組の中に入ることが正常な制度であると述べているものである。

応報から修復へ、憎しみから赦しへ。このような方策を講じるために、被害者の苦しみや怒りを和らげようとする支援策の動きは多い。しかしながら、被害者支援というものの性質上、本来このような「支援の輪」というものは論理的に広がってはならない。ここが、何らかの政治的主張を通すために集まっている市民運動の集団とは本質的に異なる点である。犯罪被害というものは、本来断じてあってはならず、悪夢でなければならず、現実を受け入れてはならない。ゆえに、カウンセラーや支援者の人達とも、本来は人生の中で一度も出会ってはならないはずである。カウンセラーによって癒されれば癒されるほど、支援者によって救われれば救われるほど、本当は人生において出会うはずのない人に出会ってしまったことの論理矛盾は深くなる。心のケアの先に立ち直りというゴールがあるとの単純な捉え方は、この逆説を見落としている。

日本社会や世界経済のことなどどうでもよい。願いはただ一つだけ、愛する人を返してほしい。このような偽らざる人間の直観に対して、「広く社会を射程に捉える壮大な体系」をぶつけることは、それ自体が鈍感な暴力である。被害者にとって、人生のうちで絶対に出会ってはならなかった者とは、言うまでもなく加害者である。特に、その時が初対面であるような通り魔的な加害者とは、絶対に出会ってはならなかった。ここで、被害者と加害者、さらにはその親族や地域の人々が一堂に会してお互いの気持ちを語り合う場を提供されるならば、これは暴力が拡大するだけの話である。被害者が嫌でも加害者に向き合わなければならないことは、それ自体が新たな絶望である。どうしたら被害者の心が癒されるのか、加害者が立ち直れるのかを話し合った先に示される事実とは、時間は戻らず死者は帰らないということである。すなわち、「修復」という概念の不可能である。

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