犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

私的報復と死刑は関係がない

2008-11-13 19:40:53 | 国家・政治・刑罰
周知のとおり、死刑廃止論は、犯罪被害者遺族の復讐心を和らげることに力を注いでいる。それは、本人の明示の意思に反しても、あるべき被害者像を提示して、遺された者の「真の幸福」への道筋を示すものである。「憎しみの呪縛からの解放」「報復からは何も生まれない」「犯人を赦さなければ苦しむのは自分だ」といった言い回しは、死刑廃止を進める上で、一般に効果的な論理であると考えられている。しかしながら、死刑の本質的な問題点は、国家権力によって永久に人の生命を奪うこと、すなわち国家による合法的な殺人を行うことにある。そうであれば、遺族が復讐を行うことは、国家権力とは何の関係もない単なる殺人事件である。すなわち、刑法199条の構成要件に該当し、刑法35条ないし37条の違法性阻却事由もないというだけの話である。現に世の中では、怨恨感情による報復としての殺人が毎日のように起きている。犯罪被害者遺族は国家権力ではなく私人であり、私人による復讐心の実現は、国家権力による殺人たる死刑の問題点とは全く関係がない。

それでは、死刑廃止論は、なぜ犯罪被害者遺族の報復心を和らげることに力を注がなければならないのか。それは、実際に世の中の犯罪被害者遺族のほぼ全員が、胸の張り裂けそうな復讐心を抑えて、実際には殺人行為に出ていないからである。すなわち、「人を殺すな」というルールを破った者に対して、自らは「人を殺すな」というルールに従っているからである。そのことによって、単なる私人による一般的な殺人罪の問題が、国家権力による殺人である死刑の問題と結びついてしまう。そして、死刑廃止論と抵触するという妙な構造が生じてくる。もちろん、犯罪被害者遺族が実際に復讐を行えば、事態は180度変わる。殺人犯には立憲主義と近代刑法の下で手厚い人権が保障され、無罪の推定が及び、細かく責任能力が問題にされて精神鑑定が繰り返される。のみならず、「誰でも良かった」という無差別の理由なき殺人に比べれば、復讐としての殺人には明らかに理由がある。被害者遺族に対する「復讐すればあなたも殺人犯です。それでもいいのですか」といった脅しのような文法は、遺族が血の滲むような思いで報復心を抑え込んでいる限りにおいて成立する。

それでは、圧倒的多数の被害者遺族は、なぜ報復に出ていないのか。刑法が殺人罪を定めて人命を尊重しているという理屈は、実際に殺人が犯された事実の前では無力である。これは、殺人を犯した者の属性において無力だというのみならず、国家において殺人罪を定めていることが何の殺人の抑止にもなっておらず、「法律を守りましょう」「人を殺してはいけません」といった理屈が一般的に無効にされたという現実の前にも無力である。この問いを突き詰めるならば、最後は「なぜ人を殺してはいけないのか」という哲学的かつ古典的な命題に直面せざるを得ない。そしてこの答えは、「なぜ人を殺してよいのか」と問うてはいないというその問いの形式において現れている。被害者遺族が報復としての殺人に出ていないのは、外的強制としての法律によるものではなく、内的倫理としての自由意思に基づくものである。そして、この倫理に従う限り、近代社会では、刑罰権を一手に把握する国家権力との連携は必然的なものになる。のみならず、「3人殺さなければ死刑にならない」との国家の判例の基準は、国家権力から遺された者への制約として作用する。

被害者遺族が殺人犯の死刑を望むことは、前近代的な復讐の思想によるものなのか。近代の法治国家では、被疑者の身柄は厳重に留置場に逮捕・勾留され、万全な警備の下に置かれるため、「忠臣蔵」のような復讐劇の出る幕はまず考えられない。殺人犯の代わりにその家族に対して復讐するという行為は、論理的には「最愛の家族を失う同じ悲しみを味わわせる」という意味で、通り魔的な無差別殺人に比べれば遥かに筋が通っている。それでも、現実にこのような行為に出る人もいない。これは、「人を殺してはいけない」という自らの内的倫理の声に従っていることの証左である。すなわち、死刑判決が下るか下らないかの裁判に望みを賭け、最高裁まで5年も10年もかかる長丁場に振り回されて苦しむことは、私的報復の気持ちを抑えていることの反映である。「被害者遺族は死刑制度を通じて復讐心を実現している」といった捉え方は、ひとたび実際に遺族が報復行為に出て、国家権力によって殺人罪で起訴されて判決を受けるという事態になれば、すべてひっくり返ってしまう。被害者遺族と国家権力の結びつきは、「人を殺すな」という倫理を破った者のために「人を殺すな」という倫理を守っている遺族の忍耐力の上に初めて成立しているからである。