犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大阪・梅田ひき逃げ事件

2008-11-08 17:22:31 | 言語・論理・構造
大阪・梅田で10月21日未明、交差点を横断中の会社員・鈴木源太郎さん(30)が車に約3キロ引きずられて死亡したひき逃げ事件で、大阪府警は11月5日、ホストの吉田圭吾容疑者(22)を逮捕した。罪名は、殺人罪(刑法199条)・自動車運転過失傷害罪(刑法211条2項)・無免許運転の罪(道路交通法64条)である。府警は、轢いた行為は自動車運転過失傷害罪にあたり、死亡するまで引きずったことが殺人罪にあたると判断したようである。一連の行為がいかなる罪名に該当するのか、この最初の判定は難しく、実務上も一大論点となっている。「一罪一逮捕一勾留の原則」があるため、最初のところで間違えると、あとで面倒なことになるからである。従って、逮捕・送検・勾留・起訴の各段階で、被疑事実の同一性の判定と罪数判断が専門的に細かく問われることになる。

轢き逃げ事犯で殺意を認定することができるのか、これはアカデミックな刑法学者の間では何十年も激しく争われている論点である。いわゆる「未必の故意」と「認識ある過失」との区別である。この点の学説は、故意概念についての意思説と表象説の対立に従って、認容説と認識説とに分かれている。そして、認識説の中には蓋然性説という見解があり、さらに動機説と呼ばれる全く異なった見解もあるが、その内容は認識説に近いものや認容説に近いものなど様々である。アカデミズムの中で議論を戦わせている者にとって、今回の事件は非常に「興味深い」素材である。約3キロ引きずった場合に故意が認定できるのであれば、1キロならどうか、100メートルならどうだったのか、いわゆる「判例の射程」が何よりも問題となる。そこで、アカデミズムにおいては、次のような言い回しが流布している。いわく、「今後のさらなる判例の集積が望まれる」。

言葉は世界を作り、構造を作る。ある特定の業界における専門用語は、その外の世界との間に壁を作る。そして、その専門用語による世界は物理的に実在するものとなり、専門家と呼ばれる人達は、その世界を理解していない一般人に対して優越感を持つようになる。今回の事件で、被害者の弟の秀次郎さん(25)は、記者会見で次のように述べていた。「兄は2人目の子どもが生まれる前だったのに、志半ばで事件に巻き込まれた。無念でなりません」。「今は気が張っているが、気持ちの糸が切れるかもしれないので、遺体の発見現場に行けない」。「夜眠る前に兄を思い出し、胸が締め付けられている」。このような人間が心底から絞り出す言葉にならない言葉は、専門用語の世界とは言語のレベルが異なる。そして、このような言葉を専門家にぶつけると、例によって激しい拒絶に遭う。いわく、「理性的であるべき刑法や裁判が感情的になってはならない」。あるいは、「被害感情が癒されるように心のケアをすべきである」。

被害者は3キロも路上を引きずられて、どんなに痛かっただろうか。どんなに苦しかっただろうか。そして、あろうことかこのような運転者に命を奪われて、どんなに無念だっただろうか。愛する人には1秒でも長く生きてほしいが、ここでは1秒でも早く死んでいたことを望まざるを得ない。この胸の張り裂けそうな矛盾にどう向き合えばよいのか。裁判員制度の導入を前にして、これらの言葉は「感情」に分類されている。そして、刑法の条文における事実認定の「理性」よりも一段下に置かれている。しかしながら、これは単に加害者と被害者のどちらを主語にして文章を作るかの違いであって、「理性」と「感情」の違いではない。加害者を主語にした文章を作ることが、裁判という時と場所によって異なる限られたルールの中で、国家刑罰権の発動という枠組に合目的的であるというだけの話である。加害者における「殺意を有していたか」の判定は過去の一点の評価であり、現在の内心ではない以上、これは現時点での生死に関わるものではない。路上を引きずられている被害者の内心に思いを馳せて苦しむこと、これは殺意の認定よりも遥かに理性的な行為である。