犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

岩田靖夫著 『いま哲学とはなにか』  第Ⅱ章「人はいかなる共同体をつくるべきか」

2008-11-26 17:47:13 | 読書感想文
p.43~

デモクラシーが成立するためには、その国家を構成している人々が、人間の倫理の原理である正義について、また、その国家の構造、運営の仕方、その進むべき理想、などについて明確な認識をもち、その認識に基づいて行為し、変革し、国家を動かしてゆく責任能力をもっていなければならないのである。アリストテレスは人間を理性的動物と規定した。そうであれば、すべての人間が理性をもっているのだから、国家の在り方にも責任をもっているはずである。

アリストテレスが評価しないデモクラシーとは、国家が少数(たとえば5パーセント)の富裕層と大多数(95パーセント)の貧困層に二極分化しているような国において起こる多数者の支配である。そのような国には、不満と怨恨と軽蔑が渦巻き、絶えず内紛内戦の危険が潜んでいる。そのような国は、富裕層が警察力によって庶民大衆を抑圧する寡頭制になるか、その逆に、貧困な大衆が富裕層を抹殺して国の経済・文化水準を低下させる悪しき意味でのデモクラシーになるか、そのどちらかなのである。

「ポリス(国制)である」とは、その共同体を構成している構成員が自治能力をもっているということであり、言い換えれば、みなが理性的存在者であるということであり、さらに言えば、みなが「ただ生きている」というのではなくて、「善く生きる」ために自覚的に存在しているということなのである。この意味で、ポリスは単なる自然的生成物ではない。なぜなら、善を目指す共同体は単なる自然的生成物ではありえないからである。

アリストテレスは、デモクラシーが現存の国制の上でもっとも安定した国制であり、そこでは人間が自由で平等であると理解されている点は正しい、と考えているが、ただし、自由とは「多数者がなんであれ自分が欲することを為す権限である」と考えている点で誤っている、と言っている。「自分のきまぐれに従うこと」をアリストテレスは奴隷的と言っているが、自由とはそういう意味で奴隷的な精神を言うのではなくて、自分と異なる他者を異なるままで是認し配慮するという精神の広さを言うのであり、そういう人々の集まりが「中間の国制」であり、そこで人々は安定するのである。


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アリストテレスが述べる理想的な国会とは、野党議員が総理大臣に対してカップラーメンの値段を質問したり、総理が間違えると鬼の首を取ったように正義を振りかざして喜んだりしない国会である。そして、アリストテレスが述べる理想的な共同体の構成員とは、その質問に答えられなかった総理大臣を見ても、「総理は庶民の金銭感覚がない。このような総理では国が良くなるはずがない。政治家としての資質を疑う」と怒ったりしない構成員である。政治がなかなか良くならない現状には、それなりの理由がある。相手を貶めて優越感を得ることによって支持を得た野党は、与党になった途端、同じ目に遭って支持を失うことになる。このような二大政党制は単に不安定であり、「中間の国制」ではない。