犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者参加人制度と裁判員制度

2008-11-30 19:53:30 | 言語・論理・構造
裁判員の候補者への通知が物議を醸している中、明日から被害者参加人制度が開始される。裁判員制度と被害者参加人制度を組み合わせた形での模擬裁判が初めて行われたのは、ちょうど半年前(5月26日~27日)の千葉地裁であった。その裁判は、農業の男性が飲酒運転をして対向車と衝突し、運転手を死亡させて危険運転致死罪に問われたという設定であった。候補者名簿から選ばれた6人の裁判員が参加したほか、被害者の妻役の女性が被害者参加人として検察官側に着席した。論告で検察官は懲役6年を求刑したが、被害者参加人は「仕事の憂さを晴らすために飲酒したというのは理由にならず、反省の態度は見られない」として懲役20年を求刑した。結局、判決は懲役6年となり、被害者遺族の求刑は全く通らなかった。模擬裁判員の男性は「感情と量刑とは別のものと思い、左右されないようにした」と感想を述べており、裁判長を務めた根本渉裁判官も「裁判員の方々が感情に流されず判断してくれた」と話していた。

この半年前の模擬裁判において明らかになったことは、「参加人は被害感情を吐き出す場所を与えられたのだ」という構造が非常に強固であり、これを壊すのは実に大変そうだということである。裁判所が「遺族の被害感情に流されず判断して下さい」とPRし、裁判員が「遺族の被害感情に左右されないように気をつけて聞いた」となれば、遺族が何を言っても「被害感情を叫んでいる」としか受け止められない。世の中には、被害者は冷静さを失って法律も知らずに一方的かつ感情的に厳罰を叫ぶというステレオタイプのイメージがあるが、これは単に近代刑法のパラダイムにおいて上手く説明がつくからである。実際の被害者はそんな生易しいものではないこと、感情的になる余力もなくむしろ冷静に見えてしまって誤解を受けること、この現実をありのままに裁判員に示すしかない。罪を償うに値すべき適正な罰を受けることは、法治国家の論理的な要請であって、怨恨感情ではない。

被害者参加人制度と裁判員制度は、本来何の関係もなく、たまたま時期が一致してしまっただけである。しかしながら、被害者参加人制度は、裁判員制度の中でよりその効力を発揮できるようなシステムである。司法試験の勉強や司法研修所の専門的な教育を経た後では、被害者遺族の言葉は「被害感情を叫んでいる」以外には聞こえなくなる。頭の中が条文や判例で一杯になってしまって、1人の人間として言葉を聞く能力が衰えているからである。これに対して、法律的なものの見方が固定していない裁判員に対しては、1人の人間としての言葉が伝わる。特に、被告人の反省が口先だけのものであり、一目で演技とわかるような場合には、その比較としての被害者の言葉の厳しさが際立つ。人間の言葉は、その文法的な単語を超えて、震える声のトーンや沈黙の間、抑えても抑えても全身から滲み出る怒りと悲しみ、過酷な運命に立ち向かう絶望の深さなどの総合である。被告人を責めているのではなく、自分自身を責めている。このような現実を前にすれば、裁判員も「遺族の被害感情に左右されない」などとは言っていられなくなる。

模擬裁判は、やはり所詮は模擬裁判であり、実際に人が亡くなっているわけではない。被告人役も被害者参加人役も、あくまでも演技であることがわかっている以上、絶句や行間から示される語られない言葉は弱い。この点において、実際に裁判員制度が始まった場合とは明らかに異なる。実際に裁判員の目の前に事件の当事者が登場したときの凄まじい緊張感は、模擬裁判で実現することはできない。目の前に被告人がいて、この人は飲酒運転という故意犯によって、人殺しに等しい行為を行った。他方、目の前には亡くなった被害者の奥さんがいて、想像もつかない苦しみの前でもがいている。罪とは何か。罰とは何か。生命とは何か。裁判員制度と被害者参加人制度とが融合すれば、このような深い考察も可能になる。但し、「被害者側の応報感情が前面に出過ぎて、法と証拠に基づく冷静な審理にマイナスの影響を与える」「法廷が報復の場にならないようにすることが今後の課題である」といった事前の問題設定が固定してしまうと、それ以上の考察はできなくなる。


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