犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤井誠二著 『重罰化は悪いことなのか - 罪と罰をめぐる対話』  第Ⅰ章~第Ⅱ章 

2008-11-27 23:36:24 | 読書感想文
第Ⅰ章~第Ⅱ章  芹沢一也×藤井誠二 より


藤井: 反省なんて本人にもわからないような、空疎なものでしょう。逆に心から悔いているのに、それを言葉にできない犯罪者もいるかもしれません。「謝罪の言葉」なんて嘘でも書けます。「反省が十分ではない」という言い方も、感情の自然な発露です。「反省」の手紙が嘘だとわかっていても、被害者のなかには、文中に改心がこめられた言葉がひとつでもあるかどうかをさがす人もいます。だから、そういった複雑な感情や内面が複雑にからまりあって、たとえば「反省が十分ではない」という言葉に表出されるのだと思います。(p.68)

芹沢: 僕は、司法段階での「反省」の制度化は、「推定無罪」の原則に触れると思うのです。人は判決がくだされるまでは、あくまでも「被疑者」です。これは近代という時代が国民の権利と自由をめぐって手にした、もっとも貴重な成果のひとつだと思います。「反省」という内面に関わることを、自由刑を執行する行刑の立場を越えて全面化する。しかも、その判断が被害者に握られているとしたら、それはやはり危険なのではないでしょうか? 「反省」というロジックのもとに、社会のなかに権力を蔓延させては絶対にいけないと思います。(p.69~73)


***************************************************

生きたかったのに生きられなかった命を思うと、その人生が悲しすぎる。あるはずであった未来はどこへ消えたのか。ある日突然家族を奪われた者のこのような思いは、政治的に無色透明である。ところが、近代社会が獲得した国民の権利と自由という概念は、これを政治の文脈に押し込んでしまった。愛する人を亡くした人の思いは、左側の思想と衝突し、それによって相対的に左ではないということで、右側に分類されてしまう。藤井氏と芹沢氏の対話は、この辺のところが非常によく出ている。藤井氏がどんなに「右でも左でもない論理」を提示しても、芹沢氏はそれを「右である」と解釈した上で返答をする。会話はキャッチボールである。重い球を投げたのに軽い球が返ってくると、精神的に苦しい。藤井氏が軽い球を投げないように努力している様子がよく伝わってくる。

政治的な主義主張は、根拠や必要性を提示して、相手を説得することが必要である。そのために最も有用なのが、不安を煽ることである。これは右も左もお互い様である。街頭の監視カメラの反対論は、「推進派は犯罪が急増しているとの不安を煽っているのではないか」と述べつつ、「権力の監視による不安を国民に広く知らせなければならない」と述べており、結局は不安の中身が違うだけである。「犯罪不安社会」は右寄りであり、「刑罰不安社会」は左寄りであり、どちらをより不安と感じるのが正しいのかという多数派形成の争いである。煽りたくない不安は煽らず、煽りたい不安は煽る。これは、持って生まれたものの考え方、周囲の教育、個人的経験の違いであって、客観的真実を目指す議論は意味がない。両者の根底に共通する生死の実存不安の一致点を忘れている限り、この種の議論は打ち切るのが賢い。

藤井氏と芹沢氏の差は、哲学的センスの差でもある。なぜよりによって自分の家族が選ばれ、殺されてしまったのか。この問いに正解を導く以前に、この問い自体を正確に捉えようとすれば、自分自身の生死を抜きに考えることはできなくなる。そこでは、不可避的に哲学的な思考が要求されることになり、存在への畏れに打ちのめされる直感が必要になる。藤井氏の被害者支援の活動に対しては、単に左から右に転向したのではないかといった批判も見られる。しかしながら、藤井氏が何回も述べているように、藤井氏が懐疑の目を向けているのは、様々な社会問題を簡単に割り切ってスッキリしているイデオロギー的な思考方法である。芹沢氏は、「いずれ加害者も社会復帰する以上、加害者と被害者はどうすれば共存できるのか」という問いを外側に向かって立てる。これに対して藤井氏は、「被害者はどうしても加害者と共存したいとは思えないのだ」という問いを内側に向かって立てている。