犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

門田隆将著 『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』 第15章

2008-11-09 18:21:45 | 読書感想文
第15章 「弁護団の致命的ミス」より

p.215~220より抜粋

「最近では、被告人の主張が一変したことについて、弁護団の方々がインターネットで裁判に関する資料を公開し、弁護団とF君の新たな主張として、社会に向けて発信しています。インターネットで妻の絞殺された時の状況を図解した画像などが無作為に流布され、私の家族の殺され方などが議論されている状況を決して快く思っていません。言論や表現の自由は保障されるべき権利でありますので、私が異議を唱えることはできないとは思っています。ただ、そのようなことが掲載されているところを拝見し、殺されている状況が図解されている妻の悔しさを思うと涙が溢れてきます。怒りなのか、虚しさなのか、この感情をどのような言葉で表せば良いのか分かりません。ただ、家族の命を弄ばれているような気持ちになるのは確かだと思います。

私は事件直後に1つの選択をしました。一切社会に対して発言せず、このまま事件が風化し、人知れず裁判が終結するのを静観するべきか、積極的に社会に対し被害者としての立場で発言を行い、事件が社会の目に晒されることで、司法制度や犯罪被害者の置かれる状況の問題点を見出してもらうべきか。そして、私は後者を選択しました。家族の命を通して、私が感じたままを述べることで社会に何か新しい視点や課題を見出して頂けるならば、それこそが家族の命を無駄にしないことに繋がると思ったからです。しかし、先のように世間の話題になることで、インターネット上で家族の殺害状況の図解までが流布される事態を目の当たりにすると、私の判断が間違っていたのではないかと悔悟の気持ちが湧いてきます」

そして本村は、陳述の最後に、“裁判官の皆様”と呼びかけ、こう語った。「事件発生から8年以上が経過しました。この間、私は多くの悩みや苦しみがありました。しかし、挫けずに頑張って前へ進むことで、多くの方々と出会い、支えられて、今日まで生きてきました。私は、事件当初のように心が怒りや憎しみだけに満たされている訳ではありません。しかし、冷静になればなるほど、やはり妻と娘の命を殺めた罪は、命でもって償うしかないという思いを深くしています。そして、私が年を重ねる毎に多くの素晴らしい出会いがあり、感動があり、学ぶことがあり、人生の素晴らしさを噛み締めています。私が人生の素晴らしさを感じる度に、妻と娘にも本当は素晴らしい人生が用意されていたはずだと思い、早すぎる家族の死が可哀想でなりません。

私は、家族を失って家族の大切さを知りました。命の尊さを知りました。妻と娘から命の尊さを教えてもらいました。私は、人の人生を奪うこと、人の命を奪うことが如何に卑劣で許されない行為かを痛感しました。だからこそ、人の命を身勝手に奪ったものは、その命をもって償うしかないと思っています。それが、私の正義感であり、私の思う社会正義です。そして、司法は社会正義を実現し、社会の健全化に寄与しなければ存在意義がないと思っています。私は、妻と娘の命を奪った被告に対し、死刑を望みます。そして、正義を実現するために、司法には死刑を科して頂きたくお願い申し上げます」。しばらく誰も声を発することができなかった。事件発生から8年余。本村の姿勢は、年月を経ても、いささかも揺らいでいなかった。


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いよいよ12月1日から被害者参加制度が始まり、来年の5月21日からは裁判員制度も始まり、「言葉」と「言葉」が法廷でぶつかり合うことになる。「被害者遺族の激しい憎悪は刑事裁判から理性を剥ぎ取り、近代司法制度を殺せ殺せの大合唱の魔女裁判に変えてしまう恐れがある」。このような命題が支持されるのか否か。これを決めるのも「言葉」である。