犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

海堂尊著 『チーム・バチスタの栄光』

2008-11-11 23:00:51 | 読書感想文
下巻 p.139~

 桐生は白鳥を睨みつける。
「私の外来には手術の順番を待ち続けている患者が大勢いる。彼らは何ヶ月も、いや何年も待ち続けた。いろいろな施設で門前払いを喰わされて絶望の中、ようやく私の元にたどりついた。そんな人たちを前に、体調が悪くなったのでもう手術できませんと、あっさり言えると思っているんですか。そんなことはできない」
 桐生は鋭い視線を白鳥に投げかけ、言い放つ。
「患者を一人術死させたらメスを置かなければならないとしたら、この世の中からは外科医なんていなくなってしまいます」


p.225~

 そんなある日、ヤツが取り調べで、ついに口を開いたというニュースが流れた。ヤツはたった一言、こう呟いたという。
「これじゃあ医者も壊れるぜ」
 メディアは連日、ヤツのセリフを繰り返し垂れ流した。その言葉の真意を、医療関係者や精神科医、ひいては文化人や政治家までもが深読みし、おのおのの内部にある不満因子で膨らませて、独自に発信し始めた。
 大学執行部の旧体質。麻酔医の激務。外科医の怠慢。研修医の憂鬱。拝金主義の経営陣。権利ばかり振り回す患者たち。ヤツの言葉は、そうした現在の医療の現状の、ある一面を見事に切り取っていた。


p.257~
 
「33分の1。桐生先生のバチスタ致死率です。大した外科医です」
 桐生は首を横に振る。
「そう言っていただけて嬉しいです。けれどもそんな数字は、もうどうでもいいんです。数字で人は救えません。失われた命を前にしたら、数字なんて何の意味も持たないのです」
 俺は、桐生がそう答えるだろうということを知っていた。そして今、桐生に伝えなければならない言葉が俺の目の前にある。


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人は生きている限り必ず死ぬ。従って、最善の医療を尽くしても救えない命があることは、あまりに当然である。そして、医療は無数の患者の死によって今日まで進歩してきた。しかしながら、医師がこのこと自体を患者に主張した途端、それは論理的に背理を生ずる。患者は医師のことを、あらゆる病気を治せる神様だなどとは微塵も思っていない。どんな優秀な医師にも治せない病があることは常識的に理解している。それゆえに、医師が「救えない命があって当然だ」といった姿勢を示すならば、それは当たり前のことを当たり前に言っているだけの話となり、そのことによって医療過誤訴訟は減ることがない。

患者や遺族から訴えられた医師からは、裁判の過程において、次のような反論が出ることがある。「原告側の論理は、末期がんで入院して死亡した患者についても入院時より悪化して死亡したから病院に過失があると主張するに等しく、全くの暴論であり、かような医学的知識のない素人の感情論は断じて受け入れることはできない」。このような誹謗中傷合戦が繰り広げられる医療過誤裁判は非常に悲しい。最後のところで医師が患者や遺族から訴えられるのか否か。この差は、わずかなボタンの掛け違いに端を発することが多い。