犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

理由が知りたい

2008-11-24 19:24:07 | 時間・生死・人生
元厚生事務次官宅連続殺傷事件で、逮捕された小泉毅容疑者(46)は、三十数年前に飼っていたペットの犬を保健所に処分されて腹が立ったと供述しているとのことである。このような犯行動機を聞かされて、世論が納得できるはずがない。「本当の理由は別にあるのではないか」。「そんなことで人が殺せるわけがない」。「このような理不尽がまかり通るようなことでは故人も浮かばれない」。どれもこれも、当たり前の感情である。「小泉容疑者は誰かを庇っており、共犯者がいるのではないか」という推測は、「もっとましな理由を語る共犯者がいてほしい」という願望でもある。この国民レベルでの名付けがたい感情は、これまで犯罪被害者遺族が人知れず抱え続けてきた感情である。そして、「被害感情」「厳罰感情」と名付けられて、癒しやケアの対象とされてきた感情である。

三十数年前にペットを処分された恨みをこのような形で晴らすなど、あまりにも短絡的である。いや、短絡的ですらなく、全く結びつきようがない。もし、小泉容疑者の身内や知人が「消えた年金」に苦しんでいて、社会保険庁に恨みを募らせていたのであれば、どれほど救いようがあっただろうか。もし、小泉容疑者が社会保険事務所の職員であり、市民からの苦情対応に疲れ切って元事務次官を逆恨みしていたのであれば、どれほど筋が通っていただろうか。言論の自由を脅かす者は断じて許さない、テロに対しては国民一丸となって断固とした戦いを挑まなければならないと言って振り上げた拳は、下ろすに下ろせない状態である。行き場を失った人間の名付けられない感情は、厳しい捜査による真相の解明への期待に収斂するしかない。これは、突き詰めれば「理由を知りたい」との一点である。このもどかしさは、怒りや悲しみよりも論理的に先に来る感情である。

この「知りたい」という心底からの苛立ちは、これまで無数の犯罪被害者が人知れず抱え続けてきた感情である。しかしながら、その要求は、大上段から「被害感情」「厳罰感情」と解釈され、加害者の更生・社会復帰の利益と対立し、厳罰化の賛否両論や死刑存廃論の政治的な対立に置き換えられてきた。近年はようやく、「理由を知りたい」との要求が被害者意見陳述制度や裁判参加制度に結実してきたが、それでも問いの所在は正確に捉えられていない。「知りたい」との要求をするや否や、それは判で押したように癒しやケアの対象とされてきた。今回の事件は、これまで犯罪被害者遺族が背負ってきた名付けられない感情を、かなり広範囲の国民に共有させることになった。ここでは、他人事として「被害者遺族」を観察することはできない。小泉容疑者の動機の陳述を聞いて納得できず、「これでは故人も浮かばれない」と思った者は、すべて「被害者遺族」の地位に立っている。

何をどう頑張っても、死者が還ることはない。だからこそ、そうなってしまったことの理由が知りたい。このような生命倫理を含んだ問いは、問う者と同じ視点に立たなければ問いの所在がつかめない。ところが、現実には問いと答えはなかなか一致しないことが多い。今回の事件においても、「なぜ」という問いに対する答えとして出てくるのは、「小泉容疑者は自宅アパートで苦情トラブルを起こしていた」「深夜に建設会社社長の自宅に怒鳴り込むなどクレーマーとして有名だった」「職を転々として孤立していた」といったものばかりである。「なぜ」と問えば問うほど狭いところに入り込み、真相究明とは程遠いところに引っかかるばかりで何も出てこない。この国民レベルでのイライラも、すべてはこれまで犯罪被害者遺族が向き合ってきた感情そのものである。理由を語るべき者は、恨みや憎しみをぶつける相手と一致する。しかしながら、「理由を知りたい」との真摯な思いは、厳罰を望む意思とは全く別であり、ましてや死刑を望む意思とは別物である。