犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『おくりびと』

2008-10-11 22:42:59 | その他
「死とは『門』なんです。ですから、私は門番なんです。私はここで沢山の人を見送ってきました。死という『門』をくぐって行く、だから『行ってらっしゃい』と送り出すんです。お疲れ様、また会おうって」。これは、笹野高史さん演じる火葬場の職員の名台詞である。思わず「哲学は大学ではなく火葬場で起きている」と言いたくなる。死は終わりではない、新たな旅立ちの門出であるといった凡庸なコピーであれば、今の世の中には十分にあふれている。これらのコピーは、死を直視せずに遠ざけ、「門」という言葉をこの世からあの世への境界という意味でしか理解していない。これに対して、笹野さん演じる職員は、人が死ぬことは当たり前のことであるという大前提に立ち、生きている人には必ず死が訪れるという現実において「門」という言葉を使用している。誰しも生まれてしまった限り、死という「門」に向かって歩いていざるを得ない。この現実を直視することによって、初めて死者の尊厳という言葉の正確な意味がわかってくる。

死は悲しいものである。他方で、死体は恐ろしいものである。人が死ぬとはどのようなことか。なぜ人は死ななければならないのか。仮に死体の恐ろしさが、生理的な不気味さのみで説明のつくものであるならば、火葬は一刻も早く行われるべき行為として望まれなければならないはずである。しかしながら、遺された者は、なぜか棺の蓋を永遠に閉めたくない、ずっと遺体の顔を見ていたいとの思いに駆られる。死の瞬間よりも、火葬場の炉が棺を吸い込み、扉が閉まった瞬間の記憶が遺された者を激しく揺さぶる。今まで生きていた者が、すでにそこに死んでいる。生きている者がこの現実に直面して当惑するのは、この意味が理解できないからである。どんなに生物学的には肉体が動かなくなっても、物理的な肉体がそこに存在する限り、死はそこに存在しない。葬儀とは、この理解できない死を理解するための社会的けじめである。ゆえに、心のこもっていない形式的な儀式ほど虚しいものはない。

すでに亡くなってしまった人の遺体は、現在の日本の法律の下では、数日後には確実に灰になっている。経済効率という視点で考えるならば、遺体を整え、衣装を着せて棺に納める納棺師という仕事は、全く説明がつかない。遺族の相続財産も減るだけである。それにもかかわらず、生きて死ぬべき人間は、遺体を丁重に扱わなければならないという生命倫理を保有する。さらには、遺体を丁重に扱いたいという心底からの欲求を保有する。それは、遺体が未来の自分の姿だからである。人生が生と死に挟まれた短い期間に存在するものである限り、論理の必然によって、死を大切にしなければ生を大切にすることもできない。納棺師の温かい所作によって、遺体は明らかに美しい存在へと変わってゆく。生気を失って土色になっていた顔は、まるで眠っているかのような、安らかな顔に変わる。それに伴って、遺族の間からも怖さが消えて、愛情や感謝の念が込み上げてくる。生あっての死、死あっての生、この形而上的な真実は、心のこもった儀式によって確実に具体化されている。

主演の本木雅弘さんは、納棺師という仕事に十数年前に出会い、ずっとテーマとして温めてきたのだと語っている。すなわち、本木さんは詩人の青木新門氏の著書『納棺夫日記』で納棺の世界を知り、日本における納棺の儀式に惹かれ、映画関係者に紹介したことから今回の映画化が実現したとのことである。それにしても、地味な仕事、日の当たらない仕事として敬遠されるばかりか、ともすれば卑しい仕事として嫌悪される納棺師を、崇高な仕事に就いていることへの誇りという面から描き切った監督・脚本家の力には驚かされる。死を正面から扱ったこの映画が圧倒的な評判を呼んでいるのは、自らの未来の姿である死体は客体化・対象化が不可能であり、死を遠ざけることによっては美化が不可能であることによるものである。映画の中で、広末涼子さん演じる主人公の妻が、夫の仕事の中身を知って「汚らわしい! 触らないで!」と叫ぶ場面がある。この言葉は、お葬式をビジネス的にのみ行い、戒名とお布施の話ばかりしている人にこそ妥当する。

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