犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

恨みと逆恨み

2008-10-10 22:46:29 | 国家・政治・刑罰
被害者の裁判参加制度と裁判員制度が、ほぼ同時期に始まることになった。家族を殺された被害者の裁判参加を懸念する意見の論拠として、2つの理由が挙げられている。1つは、「遺族の恨みや報復感情が法廷にストレートに出てしまい、冷静であるべき法廷が荒れてしまう」。もう1つは、「被告人が遺族を逆恨みし、遺族に対して報復をする恐れがあり、遺族はかえって傷ついてしまう」。裁判参加の反対論においては、この2つの理屈は両立している。もとより社会科学においては、この種の「根拠→主張」の並列は、技術的に多く用いられている。要件事実論における仮定的抗弁のようなものである。しかし、このような並列は、端的な背理である。この背理の原因は、被害者の家族の側は「恨み」であり、被告人の側は「逆恨み」であるという点にある。

人間の直観的な文法は、論理に瞬間的にベクトルをつける。「効果」と「逆効果」。「キレる」と「逆ギレ」。「恨み」と「逆恨み」。こちらが恨みたいのを我慢しているのに、逆に向こうから恨まれた。このような不条理があってよいものか。何がどう逆なのか、後で説明しようとすれば、なかなか難しい。しかし、人間の直観は、小難しい理屈よりも先に答えを出している。論理の筋としてはこうなるはずなのに、実際にはその筋が曲げられていると感じたとき、人間は正当にも「逆」の語を所有する。弁証法的には、「正」と「反」は「合」に止揚しているはずであるが、「反」にとどまる限り、それは論理に逆らっている。あえて哲学の専門用語を使う必要もない。「上手く言えないけれども筋が通らない」、そう思えてしまうのであれば、確かに筋は通っていないからである。

被害者の家族の裁判参加に反対する意見の論拠として、「遺族の恨みや報復感情が法廷に持ち込まれる」という理由と、「被告人が遺族に逆恨みや報復をすれば遺族は傷つく」という理由が並列されることは、端的に筋が通らない。一方では、遺族が犯人を恨むことは当然であるが、それは抑えるべきであるとの価値判断がある。他方では、犯人が遺族を逆恨みすることは本末転倒であるが、それを抑えることはできないとの価値判断がある。両者は、見事に逆を行っている。遺族は恨みを抑えるべきであるから、遺族は法廷に来てはならない。また、犯人は逆恨みを抑えることはできないから、やはり遺族は法廷に来てはならない。筋の通った恨みは抑えられ、筋の通らない逆恨みは認められる。従って、筋が通らない。人間の直観的な文法は、瞬間的にこのようなベクトルをつけるはずである。このベクトルがなければ、そもそも「恨み」と「逆恨み」の区別がつけられないからである。

犯罪被害者の二次的被害については色々と論じられているが、犯人による逆恨みも二次的被害の典型である。これを抑えるのは、あくまでも「犯人が逆恨みをしないこと」であって、「遺された家族が犯人の逆恨みから逃げ回ること」ではない。後者では、二次的被害がさらに拡大してしまう。もっとも、現実に家族が裁判参加をする際に、逆恨みを恐れるのは当然のことである。そこで、意見陳述においては、「この意見陳述によって逆恨みされることを恐れていること」それ自体を述べればよい。「私としてはもちろん重い刑を科してほしい。しかし、逆恨みが怖くてここでは言えない。心の中では被告人を恨んでいるが、被告人の前では怖くて恨んでいると言えない。法廷に来るのも怖かった。悩んだ。逡巡した。しかし、今日法廷に来なければ、一生後悔すると思った。だから、今私はここにいる」。このような逆説は、裁判官には通じにくいが、裁判員には通じやすいはずである。

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