犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小浜逸郎著 『「責任」はだれにあるのか』

2008-05-09 21:53:30 | 読書感想文
小浜逸郎著『「責任」はだれにあるのか』 と 伊藤真著『高校生からわかる日本国憲法の論点』との比較


● 『「責任」はだれにあるのか』 p.72~ より

現代の日本社会は、本来の「権利」の概念を無限に拡張して、ある権利の行使のためには必ずそれに見合った責任がともなうということを忘れた風潮が目立ちます。これは、日本国憲法に見られるような、「すべて人は平等で自由であり、これは天から与えられた永久の権利であって、誰も侵すことができない」という単純な「宣言」をそのまま鵜呑みにした子どもっぽい考え方にもとづいています。

欧米語では「権利」は「正しさ(right)」と同義語ですから、それは普遍的に認められた法的な「公正さ」というニュアンスをはじめからもっています。ところが現代の日本では、「権利」とか「人権」といった言葉は、そういう当然のロジックを無視するように乱用されています。もともと「right」という言葉には、西周によって「権理」という字があてがわれていたのですが、このほうがはるかに妥当だと言えるでしょう。「権利」では、ただの個人の欲求がそのまま認められるというニュアンスになってしまい、ちょっとひっくり返せば「利権」となってしまいます。

最近私は、新しく検定を通過した中学生の公民教科書を検討する機会があったのですが、その「サヨク」的惨状ぶりは凄まじく、国家の必要や法秩序との関係で「人権」を説いているものは、わずかの例外を除いてほとんどありませんでした。


● 『高校生からわかる日本国憲法の論点』 p.77~ より

幕末の頃まで「権利」という単語は日本に存在しませんでした。「権利」を意味する英語「right」を翻訳したのは、思想家の西周でした。ただし正確にいうと、彼が考案した訳語は「権理」でした。この「理」がいつの間にか利益の「利」に変わってしまったのですが、「権理」のほうが「right」の意味を正確に言い表しているといえます。「right」という単語には、「正しい」という意味もあるからです。

いまは「利」という文字を使っているため、「利益」「利己主義」といった連想が働きます。そのため「権利を主張する」というと、「自分勝手」「わがまま」などのイメージがつきまといますが、本当はそうではありません。権利とは「正しいこと」ですから、それが「人権」という言葉になれば、「人として正しいこと」を意味します。したがって憲法に人権規定が多いのは、決して国民のわがままを助長するためではなく、「人として正しいこと」を列挙しているからだと考えることができます。

理念として「正しいこと」である以上、私たちはそれを人類普遍の原理にすべく努力しなければなりません。日本国憲法も、それを「重要な価値と考えるべきだ」という主張をして、人権を規定しています。


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● 結論

特定の著者の本だけではなく、色々な著者の本を読めば、多角的な視点が得られる。しかし、単に混乱するだけであり、最初から両方とも読まないほうが良かったという場合が多い。

どのような本に感化されたかで、その人の一生が変わる。ただし、どのような本を読むかは、家族や先輩などの周囲の人間によって決定されていることが多い。

伊藤真氏の文章は驚異的に上手い。どんな文章でも、何も考えずにスラスラと読める。小林秀雄の文章とは正反対である。
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/41.html (被害者参加制度に関する文章)

若い法律家や司法試験受験生の中には、伊藤真氏が古今東西で最も優れた哲学者だと信じている人がいる。



● うんちく

「権利」のほか、学術・科学・技術・芸術・哲学・主観・客観・本能・概念・観念・帰納・演繹・命題・肯定・否定・理性・悟性・現象・知覚・感覚・総合・分解などの訳語を考案したのも、思想家の西周 (にし・あまね 1829-1897)である。

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