犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第16章

2008-05-14 22:13:44 | 読書感想文
第16章 犯罪者「福祉型」社会との対決

犯罪もいじめも、加害者と被害者の対立構造という点で共通している。中嶋氏によるこの洞察は非常に鋭い。加害者の被害者に対する犯罪行為は、あくまでも私人間の行為であって、人権侵害と呼べるものではない。他方、加害者に対する警察権力による取調べや国家刑罰権の行使は、人権侵害そのものである。人権論からはこのようなパラダイムが動かせないのであれば、このパラダイムはいじめ問題にもそのまま影響を及ぼす。

「いじめは人権侵害です。お互いの人権を大切にしましょう」。このようなフレーズが独立で唱えられる限りは、とりあえず問題はない。ところが、人権論はその本質において、私人間の行為は人権問題とは捉えられないのだから、いじめは人権侵害であるとの命題は矛盾を生じる。他方、いじめた生徒への出席停止処分、懲戒の体罰などが問題となれば、これは教師の人権侵害として槍玉に挙げられる。ここでは権力である教師が「悪」、いじめた生徒が「善」であって、いじめられた生徒は蚊帳の外である。犯罪被害者が善悪二元論から疎外される構造とそっくりであることがわかる。

いじめに苦しんでいる生徒が、「いじめは人権侵害です」とのフレーズを信頼して従来の人権論に頼ると、これは確実に裏切られる。旧人権論は加害者保護の法体系であり、いじめた側が「そんなことは言っていない」「そんなには殴っていない」などと弁解を始めたならば、途端に無罪の推定に始まる近代刑法の理論が登場するからである。この矛盾が見事に噴出したのが、かなり昔のことになってしまったが、平成5年1月の山形マット死事件であった。

7人の少年(A~G)は体育館にいる他の生徒たちに見えないように、児玉有平君をマット用具室に押しこみ、扉を閉めた。室内に入ると、「児玉、ここなら誰もいない。さっき俺が見た『金太郎』をやれ」、Cがそう有平君に命じた。有平君は「えー、えー、できません」と断った。Aは「児玉、ちょっとこっち来い」と有平君を呼び、顔面を殴りつけた。続いてBが「足を踏まれた」と因縁をつけ、有平君の足を蹴り上げた。Cはそこでさらに背中を1発殴った。有平君と同じ卓球部で1年生のFまでもが、「なぜ先輩の言うことが聞けないんだ」と顔を殴り、膝を蹴っていた。有平君は泣くような声で、「すいません許してください」と謝った。その後、少年達は一発芸をやらせるのはあきらめ、一方的にリンチを加えていった。

これだけでも大したいじめであり、「いじめは人権侵害です」とのフレーズからすれば、明らかな人権侵害であると評価されるべき行為の連続である。ところが、このいじめが鹿川裕史君や大河内清輝君の自殺と同じレベルで語られることはなかった。逮捕・補導された7人の生徒が犯行の否認やアリバイの主張をし、その自白の信憑性が問われ始めると、人権論の絶対的な正義は定位置に戻ってしまったからである。「いじめは人権侵害です」と言いつつ、「犯罪は人権侵害です」とは絶対に言わないのが旧人権論である。この欺瞞を看破するためには、やはり中嶋氏が述べるように、犯罪者「福祉型」社会と対決するしかない。

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