犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

伊藤真著 『高校生からわかる日本国憲法の論点』

2008-05-03 20:22:14 | 読書感想文
「被害者と加害者の人権」より引用 (p.104~105)

憲法は、32条から39条まで、被疑者と被告人の権利をきわめて細かく保障しています。1つには、明治憲法の時代に、拷問による自白の強制が行われるなど、それがあまりにもひどく侵害されたことへの反省から来ています。

そもそも憲法は、強者の弱者に対する理不尽なふるまいを禁じることに存在意義があり、その「強者と弱者」の力関係がもっともはっきりするのが、国家権力と被疑者・被告人の関係です。被疑者や被告人は、悪いことをしたと疑われているのですから、国家権力のみならず、国民からも白い目で見られ、下手をすれば石を投げられてしまうぐらい立場が弱い。その、もっとも弱い立場にいる人たちの人権がしっかり保障されるのなら、それより少しマシな立場にいる弱者の人権も当然守られるだろう。そのような意図のもとに、憲法は、「最弱者」である被疑者と被告人の人権を強く保障しているのです。

「加害者の人権ばかり強く保障されていて、被害者の人権が保障されていない」というのが改憲論者の言い分です。しかし、この批判は2つの点で憲法を誤解しています。まず、被害者の人権は、憲法の条文ですべて保障されています。たとえば被害者のプライバシーは13条で保障されていますし、被害者の「知る権利」は21条で保障されています。それでも被害者の人権が現実に守られていないとすれば、それは憲法のせいではありません。被害者を救済すべき国家の政策が、憲法に則った形で十分に実施されていないというだけの話です。

もう1つの誤解は、被疑者や被告人を「犯罪者」と決めつけている点です。有罪判決が確定するまでは無罪と推定されるのが、日本の刑事裁判の原則です。凶悪犯人だから弁護士をつけるのではなく、凶悪犯人かどうかわからないから弁護士をつけるのです。そして有罪判決が下されるときに、その判断の正しさを保証するのが、弁護士をつけて当事者の言い分を十分に聞いているかといった「適正な手続き」にほかなりません。

被害者の人権保障と被疑者・被告人の人権保障は、決して対立するものではありません。この問題を考えるときには、そのことをぜひ理解しておいてほしいと思います。

 
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今日は憲法記念日であるが、伊藤真氏は自ら「憲法の伝道師」と名乗っているところである。伊藤氏の文章は天才的に上手い。恐ろしく上手すぎて、突っ込みどころがない。「私の願いは、私の意見を押しつけることではなく、皆さん自身に自分の頭で憲法を考えていただくことです」。うん、その通りである。「被害者の人権が保障されていないという意見は、2つの点で憲法を誤解しています」。ああ、そうですか。「被害者の人権保障と被疑者・被告人の人権保障は、決して対立するものではありません」。なるほど、その通りですね。ソフトな語り口ですらすらと語られている間に、何となく変だなぁと思いながらも、いつの間にか読者も伊藤氏と同じ目線に立たされている。

憲法の根本的な意義・役割とは、権力に歯止めをかけるということである。このような命題は、その命題を理解することそのものによって価値中立的となり、客観性と実証性を帯びる。しかしながら、普通はこのような立場を護憲派と呼び、政治的には革新派と呼ばれる。通常、反体制や反権力の命題は、「国家権力による人権侵害がまかり通るのは民主主義社会全体の危機であり、自由と正義を実現するために断固として戦い抜くべきである」といった糾弾口調であるが、伊藤氏はそれと同じことを見事にソフトに語り切っている。それによって客観的な真理に気がつき、「そうだったのか!」と目から鱗が落ちる人が続出する。このような状況は、行き過ぎると洗脳やマインドコントロールになる。

伊藤氏は今や司法試験界のカリスマと呼ばれ、受験生や法科大学院生のほぼ100パーセントに名前が知られている。私も『シケタイ』は14冊全部持っている。若い法律家の間でも、伊藤氏の思想を尊敬している人は非常に多い。全共闘世代、団塊の世代の人権派弁護士が次々と減っていく中で、若い世代の人権派弁護士が誕生しているとすれば、その一端は伊藤氏の功績である。このような構造が続く限り、犯罪被害者の支援は、革新でないという意味で保守となり、左派でないという意味で右派となる。困ったものである。

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