6世紀の日本に公伝された仏教は、大和朝廷での物部氏と蘇我氏の崇仏論争を経て、飛鳥寺(法興寺)の造営に至り、その後日本の各地で仏教寺院が造営されるようになったといいます。
近江には大和・河内についで古代寺院が多く存在したといい、飛鳥時代には65ヶ所の寺院があったとされ、その中で旧愛知郡では9カ所の古代寺院が確認されているようです。
愛荘町立歴史文化博物館で開催されている「入門!古代寺院」展では「飛鳥寺」「百済大寺(吉備池廃寺)」「山田寺跡(桜井市)」「川原寺跡(高市郡)」の出土遺物。
滋賀県の湖西地方の古代寺院「南志賀廃寺」「穴田廃寺」「崇福寺跡」からの出土遺物。および旧愛知郡の9カ寺の出土遺物が展示され、大和と滋賀の2地域での古代寺院の遺物が公開されています。
旧愛知郡は、現在の愛荘町を中心とした地域で、かつての郡域には彦根市の一部・東近江市の一部・豊郷町の一部を含んでいたとされます。
旧愛知郡9カ寺とは、「畑田廃寺」「目加田廃寺」「軽野塔ノ塚廃寺」「野々目廃寺」「妙園寺廃寺」「小八木廃寺」「屋中寺跡・下岡部廃寺」「善光寺跡」。
その9カ寺から出土した白鳳時代の木簡や軒丸瓦や平瓦、白磁器などが展示され、特に現在の東近江市に属する地域には、渡来系氏族の依知秦氏と関係深い寺院、または依知秦氏の痕跡がみられるとされています。
愛荘町立歴史文化博物館は来場者が少なく気兼ねなく見られるのと、地域独特の歴史文化の企画展を開催されますので何度か訪れています。
すぐ横には金剛輪寺の参道と総門があり、博物館の裏側には山を借景とした日本庭園があることから、居心地良く感じる博物館です。
展示されているなかで興味深いのは「塼仏」や「塑像片」など遺物や「風鐸」・「泥塔」など多岐に及ぶ。
変わったものでは「皇朝十二銭」という硬貨もあれば「獣面文鬼板」なんてものまである。
ただし変わったものは大和や湖西に多く、旧愛知郡9カ寺では瓦類や墨書土器・白磁器が多かったように思います。
近江の古代寺院は、百済再興のため百済との連合軍で唐・新羅連合軍と戦って敗れた「白村江の戦い(663年)」の後に建てられたものが多いとされます。
そこには天智天皇は戦いに敗れた百済の人に対して近江を生活の場として提供したとされることも影響しているのでしょう。
一方で、古墳時代からこの地域を治めていた渡来系氏族の依知秦氏に大陸の新しい技術をもたらしたとの説もあるようです。
愛荘町には今回の博物展で紹介されていた旧愛知郡の9カ寺のひとつ「畑田廃寺遺跡」が残っているといいますので古代寺院の痕跡を探してみることにします。
「畑田廃寺」は白鳳時代に創建し、平安時代まで繁栄していたとされる寺院で「依知秦氏」の氏寺とも考えられているようです。
畑田集落へ入ったものの、田園地帯を探せども探せども遺跡は見つからない。
地元の人に場所を教えてもらいましたが、聞いた時に不思議そうにされていたのもそのはず、廃寺跡には地蔵堂の横に石碑と礎石が置かれているのみでした。
畑田廃寺の発掘調査では、南北約十八mの金堂跡、東西約二十四m羽状の細殿、鋳造工房跡、寺域を示す大きな溝跡が発見されたそうですが、集落と広い田園地帯だけが広がっている。
ここに大きな古代寺院があったとは想像もつきませんが、そこが古代の遺構の面白いところでもあります。
さて、畑田廃寺のある畑田集落の隣村である勝堂集落には渡来系豪族「依智泰氏」一族の墓ではないかと考えられている「勝堂古墳群」があります。
「勝堂古墳群」は江戸時代の文献に48基の古墳があったと記されており、現在は6基の古墳が残されているようです。
古墳は仏教公伝とともに小型化していき、古代寺院の築造へと時代が変わっていったとされますが、古墳の数の多さから古墳時代の愛知郡には渡来系豪族などが権勢を誇っていたと考えられています。
「入門!古代寺院-旧愛知郡編-」では古代寺院の遺跡が紹介されていましたが、その前時代の古墳時代の遺跡を見ようということで、まずは「行者塚古墳」へと向かいました。
「行者塚古墳」は集落の家の間にあり、一辺23m、高さ5.3mの方形状となっていますが、後世に道路などで削られており、築造当初は30m以上の円墳だった可能性もあると案内板に書かれてあります。
墳頂部に行者堂が建造されたのは後世のことだとされ、そのため「行者塚古墳」と呼ばれるようになったともされています。
この古墳の珍しいところは、車の走行も出来そうにない細い道に民家が並び、その間のむしろ隙間と言っていいような場所にあることでしょう。
全景を撮ろうとすると民家の庭や玄関の中に入ってしまいそうになるような場所です。
古墳の前には“大峰山 行者堂”の石碑が立ち、墳頂部には行者堂の遺構が残ります。
せっかくなので石段を登って行者堂跡を見ることにしましたが、なぜここに大峰山ゆかりの行者堂があったのか不思議に感じてしまいます。
行者塚古墳のすぐ近くには「朝日塚(山上塚)古墳」がありましたが、こちらは昭和29年の道路工事の際に土取りされて、わずかに墳丘を残すのみとなっています。
土取りの際には15点の須恵器が出土したというこの古墳は、6世紀後半に築造された直径20m級の円墳だったと考えられているようです。
古墳の外周部には地蔵さんの祠があり、中央部近くには祠があり、清酒が奉じられています。
木製の灯籠も真新しく、地域で大事に守っておられるのが伝わってきます。
現在6基の古墳だけが残存している「勝堂古墳群」の全ては回れませんでしたが、次は勝堂集落内にある「弁天塚古墳」と「赤塚古墳」に立ち寄ります。
「弁天塚古墳」と「赤塚古墳」の2つの古墳は目と鼻の先に隣接しており、6世紀後半に築造されたという「弁天塚古墳」は直径約20m・高さ4.3mの円墳とされます。
古墳の上には祠が祀られているが、内部の構造は未調査のため不明だということです。
古墳を巡っていると、ほとんど原型をとどめていない古墳がある反面、未調査の古墳がかなりあるのも興味深く感じます。
「赤塚古墳」も6世紀後半の築造されたとされ、直径約32m・高さ5.2mの円墳だといいます。
両袖式横穴式石室の羨道の長さは 2.4m 以上、幅約0.9m。玄室の長さは約4mで幅約2m、高さ1.6m 以上あるとされています。
「赤塚古墳」には石室の開口部があるので回り込んでみる。
この古墳には以前にも訪れたことがあり、開口部から羨道を覗き込んでみたが、羨道は土に埋もれており、内部の様子を見ることは出来なくなっています。
勝堂古墳群は6世紀後半とされる古墳が多く、古墳時代後期に古墳が小型化して円墳の古墳群が造られるようになった時代に築造された古墳が多いようです。
また、旧愛知郡は「依智泰氏」が勢力を誇った地とされていて、秦氏と関係の深い古墳が多いとされます。
滋賀県内には古墳が集中している地域が何ヶ所かあり、その地域ごとに有力な豪族の一族が存在していたことになります。
当時の土着人と渡来人との関係がどのようなものであったか、興味深いところです。
近江には大和・河内についで古代寺院が多く存在したといい、飛鳥時代には65ヶ所の寺院があったとされ、その中で旧愛知郡では9カ所の古代寺院が確認されているようです。
愛荘町立歴史文化博物館で開催されている「入門!古代寺院」展では「飛鳥寺」「百済大寺(吉備池廃寺)」「山田寺跡(桜井市)」「川原寺跡(高市郡)」の出土遺物。
滋賀県の湖西地方の古代寺院「南志賀廃寺」「穴田廃寺」「崇福寺跡」からの出土遺物。および旧愛知郡の9カ寺の出土遺物が展示され、大和と滋賀の2地域での古代寺院の遺物が公開されています。
旧愛知郡は、現在の愛荘町を中心とした地域で、かつての郡域には彦根市の一部・東近江市の一部・豊郷町の一部を含んでいたとされます。
旧愛知郡9カ寺とは、「畑田廃寺」「目加田廃寺」「軽野塔ノ塚廃寺」「野々目廃寺」「妙園寺廃寺」「小八木廃寺」「屋中寺跡・下岡部廃寺」「善光寺跡」。
その9カ寺から出土した白鳳時代の木簡や軒丸瓦や平瓦、白磁器などが展示され、特に現在の東近江市に属する地域には、渡来系氏族の依知秦氏と関係深い寺院、または依知秦氏の痕跡がみられるとされています。
愛荘町立歴史文化博物館は来場者が少なく気兼ねなく見られるのと、地域独特の歴史文化の企画展を開催されますので何度か訪れています。
すぐ横には金剛輪寺の参道と総門があり、博物館の裏側には山を借景とした日本庭園があることから、居心地良く感じる博物館です。
展示されているなかで興味深いのは「塼仏」や「塑像片」など遺物や「風鐸」・「泥塔」など多岐に及ぶ。
変わったものでは「皇朝十二銭」という硬貨もあれば「獣面文鬼板」なんてものまである。
ただし変わったものは大和や湖西に多く、旧愛知郡9カ寺では瓦類や墨書土器・白磁器が多かったように思います。
近江の古代寺院は、百済再興のため百済との連合軍で唐・新羅連合軍と戦って敗れた「白村江の戦い(663年)」の後に建てられたものが多いとされます。
そこには天智天皇は戦いに敗れた百済の人に対して近江を生活の場として提供したとされることも影響しているのでしょう。
一方で、古墳時代からこの地域を治めていた渡来系氏族の依知秦氏に大陸の新しい技術をもたらしたとの説もあるようです。
愛荘町には今回の博物展で紹介されていた旧愛知郡の9カ寺のひとつ「畑田廃寺遺跡」が残っているといいますので古代寺院の痕跡を探してみることにします。
「畑田廃寺」は白鳳時代に創建し、平安時代まで繁栄していたとされる寺院で「依知秦氏」の氏寺とも考えられているようです。
畑田集落へ入ったものの、田園地帯を探せども探せども遺跡は見つからない。
地元の人に場所を教えてもらいましたが、聞いた時に不思議そうにされていたのもそのはず、廃寺跡には地蔵堂の横に石碑と礎石が置かれているのみでした。
畑田廃寺の発掘調査では、南北約十八mの金堂跡、東西約二十四m羽状の細殿、鋳造工房跡、寺域を示す大きな溝跡が発見されたそうですが、集落と広い田園地帯だけが広がっている。
ここに大きな古代寺院があったとは想像もつきませんが、そこが古代の遺構の面白いところでもあります。
さて、畑田廃寺のある畑田集落の隣村である勝堂集落には渡来系豪族「依智泰氏」一族の墓ではないかと考えられている「勝堂古墳群」があります。
「勝堂古墳群」は江戸時代の文献に48基の古墳があったと記されており、現在は6基の古墳が残されているようです。
古墳は仏教公伝とともに小型化していき、古代寺院の築造へと時代が変わっていったとされますが、古墳の数の多さから古墳時代の愛知郡には渡来系豪族などが権勢を誇っていたと考えられています。
「入門!古代寺院-旧愛知郡編-」では古代寺院の遺跡が紹介されていましたが、その前時代の古墳時代の遺跡を見ようということで、まずは「行者塚古墳」へと向かいました。
「行者塚古墳」は集落の家の間にあり、一辺23m、高さ5.3mの方形状となっていますが、後世に道路などで削られており、築造当初は30m以上の円墳だった可能性もあると案内板に書かれてあります。
墳頂部に行者堂が建造されたのは後世のことだとされ、そのため「行者塚古墳」と呼ばれるようになったともされています。
この古墳の珍しいところは、車の走行も出来そうにない細い道に民家が並び、その間のむしろ隙間と言っていいような場所にあることでしょう。
全景を撮ろうとすると民家の庭や玄関の中に入ってしまいそうになるような場所です。
古墳の前には“大峰山 行者堂”の石碑が立ち、墳頂部には行者堂の遺構が残ります。
せっかくなので石段を登って行者堂跡を見ることにしましたが、なぜここに大峰山ゆかりの行者堂があったのか不思議に感じてしまいます。
行者塚古墳のすぐ近くには「朝日塚(山上塚)古墳」がありましたが、こちらは昭和29年の道路工事の際に土取りされて、わずかに墳丘を残すのみとなっています。
土取りの際には15点の須恵器が出土したというこの古墳は、6世紀後半に築造された直径20m級の円墳だったと考えられているようです。
古墳の外周部には地蔵さんの祠があり、中央部近くには祠があり、清酒が奉じられています。
木製の灯籠も真新しく、地域で大事に守っておられるのが伝わってきます。
現在6基の古墳だけが残存している「勝堂古墳群」の全ては回れませんでしたが、次は勝堂集落内にある「弁天塚古墳」と「赤塚古墳」に立ち寄ります。
「弁天塚古墳」と「赤塚古墳」の2つの古墳は目と鼻の先に隣接しており、6世紀後半に築造されたという「弁天塚古墳」は直径約20m・高さ4.3mの円墳とされます。
古墳の上には祠が祀られているが、内部の構造は未調査のため不明だということです。
古墳を巡っていると、ほとんど原型をとどめていない古墳がある反面、未調査の古墳がかなりあるのも興味深く感じます。
「赤塚古墳」も6世紀後半の築造されたとされ、直径約32m・高さ5.2mの円墳だといいます。
両袖式横穴式石室の羨道の長さは 2.4m 以上、幅約0.9m。玄室の長さは約4mで幅約2m、高さ1.6m 以上あるとされています。
「赤塚古墳」には石室の開口部があるので回り込んでみる。
この古墳には以前にも訪れたことがあり、開口部から羨道を覗き込んでみたが、羨道は土に埋もれており、内部の様子を見ることは出来なくなっています。
勝堂古墳群は6世紀後半とされる古墳が多く、古墳時代後期に古墳が小型化して円墳の古墳群が造られるようになった時代に築造された古墳が多いようです。
また、旧愛知郡は「依智泰氏」が勢力を誇った地とされていて、秦氏と関係の深い古墳が多いとされます。
滋賀県内には古墳が集中している地域が何ヶ所かあり、その地域ごとに有力な豪族の一族が存在していたことになります。
当時の土着人と渡来人との関係がどのようなものであったか、興味深いところです。
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