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「いいものを観る」「いいものを観せる」努力が開く未来
人の論理的判断は、ときには鬱陶しい経験になる。多分こうだろうという直感を優先させることが合理的であって当然というような場合がある。場合があるというより、われわれの日常の多くは、そうした脳?の直感とともに行動している。もっといえば、左脳の判断を参考にしながら、右脳の直情評価もあってコトが進んでいく。まさに時と場合によるのだが、どちらを優先させるといいかという“仕切り”に覚悟をもって望むことが必要である。なんの覚悟か、それは命を全うしようとする生身が担っている、生まれながらの責任からである。
先週、京都大学大学院で開かれた「健康デザイン論」の講座に招かれてゲスト参加してきた。講師は広告代理店大手の電通、それも3名の講師がコメントとワークショップを指導した。テーマは「人を動かす“企画書の企てる“方法」で、私が主張するデザインが「問題解決」であるという点で興味があった。彼らは「医療はコミュニケーションである」との考えのもと、いつしか「動いてしまう企画」を提示した。人は理屈では動かないが、共感があれば、心よく賛同する特質を理解したアクティベーション・デザインの提示であった。
済んでしまった、ある程度の結論を後から評価するときも、このような視点を進んで評価することも重要ではないか。ともすればエビデンスの明確な根拠が云々となるが、後日の評価に見捨てられてしまう事例は悲運である。それは大らかな生の認識でではなく、生死につながる計算メモを勿体なく懐に忍ばせるような精神ではないのか。大らかに心地よく笑顔で迎える布袋和尚のような心根がすべてを包み込むことを考えよう。生きていく以上、いいことも、悪いことも、入れ替わり立ち代りやってくる。その動きが見えなければいけない。
こう述べてのすぐさまの決まり切った反論はわかっている。あえてここに議論を書かない。なぜなら正直な感覚を述べているからだ。それよりも心地よい笑顔で優しく振舞い、困った人を支え癒す手立ては何か、どうすれば社会善が生まれるのか、思考の努力をしなければならない。ほんの思いつきだが、こうした点に、本当に共感して脳に焼き込まれるのは、論拠の配置がいかに整然としていても、刻一刻と変化するデータといっても、結局は人間の目を通すのである。重要なことは、意欲の湧き上がる環境やコミュニケーションではないか。
要は「見ること」つまり「見えた世界」をどう活用するかである。過去の記憶やその先入観によってその質も変化する。変化したフェーズによって映像化されたイメージも変化する。つまり見えた世界(としか言いようのない世界)とは写真や動画のようなもので、その撮影条件のよって質は自在に変化しするから、見えた世界(対応するイメージ)にもさまざまな変化と反応がある。そこにあるのは外的な縛りではない。あるのはそこに残された印象である。その場に生まれる“笑顔”にこそ前向きの、次なるアクティベーションがある。Mitameya190224
人の論理的判断は、ときには鬱陶しい経験になる。多分こうだろうという直感を優先させることが合理的であって当然というような場合がある。場合があるというより、われわれの日常の多くは、そうした脳?の直感とともに行動している。もっといえば、左脳の判断を参考にしながら、右脳の直情評価もあってコトが進んでいく。まさに時と場合によるのだが、どちらを優先させるといいかという“仕切り”に覚悟をもって望むことが必要である。なんの覚悟か、それは命を全うしようとする生身が担っている、生まれながらの責任からである。
先週、京都大学大学院で開かれた「健康デザイン論」の講座に招かれてゲスト参加してきた。講師は広告代理店大手の電通、それも3名の講師がコメントとワークショップを指導した。テーマは「人を動かす“企画書の企てる“方法」で、私が主張するデザインが「問題解決」であるという点で興味があった。彼らは「医療はコミュニケーションである」との考えのもと、いつしか「動いてしまう企画」を提示した。人は理屈では動かないが、共感があれば、心よく賛同する特質を理解したアクティベーション・デザインの提示であった。
済んでしまった、ある程度の結論を後から評価するときも、このような視点を進んで評価することも重要ではないか。ともすればエビデンスの明確な根拠が云々となるが、後日の評価に見捨てられてしまう事例は悲運である。それは大らかな生の認識でではなく、生死につながる計算メモを勿体なく懐に忍ばせるような精神ではないのか。大らかに心地よく笑顔で迎える布袋和尚のような心根がすべてを包み込むことを考えよう。生きていく以上、いいことも、悪いことも、入れ替わり立ち代りやってくる。その動きが見えなければいけない。
こう述べてのすぐさまの決まり切った反論はわかっている。あえてここに議論を書かない。なぜなら正直な感覚を述べているからだ。それよりも心地よい笑顔で優しく振舞い、困った人を支え癒す手立ては何か、どうすれば社会善が生まれるのか、思考の努力をしなければならない。ほんの思いつきだが、こうした点に、本当に共感して脳に焼き込まれるのは、論拠の配置がいかに整然としていても、刻一刻と変化するデータといっても、結局は人間の目を通すのである。重要なことは、意欲の湧き上がる環境やコミュニケーションではないか。
要は「見ること」つまり「見えた世界」をどう活用するかである。過去の記憶やその先入観によってその質も変化する。変化したフェーズによって映像化されたイメージも変化する。つまり見えた世界(としか言いようのない世界)とは写真や動画のようなもので、その撮影条件のよって質は自在に変化しするから、見えた世界(対応するイメージ)にもさまざまな変化と反応がある。そこにあるのは外的な縛りではない。あるのはそこに残された印象である。その場に生まれる“笑顔”にこそ前向きの、次なるアクティベーションがある。Mitameya190224
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