私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

うっとうしい日々に

2014-06-26 09:15:24 | 日記
June 26, 2014

しばらく更新がなかった友人のブログを開くと、フランスに出かけてられたとか、フランスといってもスペイン国境近くピレネー山麓のロマネスク教会を訪ねるツアーに参加されたそうだ。こういったいわゆる観光ではないプラスαの外国への旅は、様々な面で余裕がないと出来ない。相変わらずのすばらしい写真に見惚れながら、心からうらやましいと思った。ひるがえって私の日常は、このところの梅雨をも含めて、荒れ気味のお天気の中で、ぐたぐたと過ごしている。

点訳は、理数の会で引き受けたものがすべて打ち終わり校正にまわした状態なので、やっと少しゆっくりた気分で、『医学辞典』の点訳に取り掛かり始めている。何しろ全部で8ファイルほど預かっているうちの、まだ2ファイル目だ。申し訳ないような気もするが、私にとっては点訳は老化防止の意味もあり、あまり自分の時間を占領させたくはないという気持ちがいつも働いている。しかし、この世界一筋の方も多いので、そう我がままもいっていられない。『辞典』の方は締め切りがないぶん、マイペースでやれる。また数式や化学式、専門用語も出てくるので、勉強にはなる。ベテラン方の引っ張る紐の先についていければいいというところだ。

再開した読書会の最初の本は、『アンデルセン童話集』1(岩波文庫)だ。実は私がが点訳をやり始めた時、『アンデルセン』を手始めに点訳してみようなどと考えていた。ところがこういった書物はすでに点訳されており、また個人が点訳しただけでは、点訳書としては通用しない。すくなくとも2人の校正者の目が必要だ。当然のこととはいえ、まさかこんなに人と関わることが多い世界だとは思わなかった。まあ点訳によって私の世界も遅ればせながら広がったし、得難い友人を得ることもできた。あと何年できるか分らないが、マイペースを保ちながら携わっていきたい。同時に人に動かされる仕事は精神的に不衛生な所もある。自分だけの世界を持ちたい、何か創ってみたいという思いが強くなることもたしかだ。そんな日々である。いつも同じところをどうどうめぐりしているようなブログで、すいません。

画像は、散歩の途中で携帯で撮った「ひるがお」。ピンクの色が、まわりのグリーンの中で、さわやかさを際立たせている。

バッハ「ミサ曲 ロ短調」

2014-06-22 19:57:20 | 日記
June 22, 2014

点訳で知り合いになった若い友人が出演している演奏会に出かけた。会場の第一生命ホールは、新宿から大江戸線に乗り、「勝ちどき」で降りて徒歩8分、わが家からはかなり遠い。しかしとてもいい演奏会で、やはり生演奏はいいものだと、実感した。曲は、バッハの「ミサ曲ロ短調」。私はCDでよく聞いている大好きな曲だ。合唱は「東京オラトリエンコール」、友人はアルトで参加していた。練習が大変だったことだろう、しかし充実した日々であっただろうと、うらやましく思った。合唱も、また独唱者も一流の方たちで素晴らしかったが、私は、管弦楽の「アンサンブル・アルス・ノヴァ」のコンサートミストレス・恵藤久美子さんのヴァイオリンが印象に残った。音楽家には疎いので、帰宅してネットで調べてみて、やはりすごい方だと分った。機会があったらこの方のヴァイオリンをもう1度聴きたいと思った。

この合唱団を設立された指揮者の岡本俊久氏は、早稲田大学のグリークラブの学生指揮者として活躍した後、本格的な指揮者として色々な方面で活躍されている方で、この合唱団を率い、バッハを中心としたドイツ教会音楽の名曲を携えて、ドイツに過去6回演奏旅行をされていると、配られたパンフレットに紹介されていた。岡本氏のような指揮者だけでなく、普通大学に入りながら、音楽のいろいろな方面で活躍されている方は多い。音楽の女神のとりこになった方たちは何んと幸せなことだろう、と思った。大雨になるという予報だったが、大したことはなく、会場のある「晴海トリトンスクエア」まで東京湾にかかる動く歩道を通りながら、久しぶりに海を眺めたり、疲れたけれども楽しい1日だった。

画像は、妹のメールから、イタリアの「けし」。日本のものと少し違う。もっと群生している写真もあったが、見事だった。

八王子へ

2014-06-19 14:43:56 | 日記
June 18, 2014

八王子に住む友人宅にお邪魔させていただいた。いつも読書会の時にわが家に着てくださる方なのに、私が伺うとなると小旅行になる。たまに出かける場所は遠方に感じるのだろう。JR八王子駅からバスで20分程乗るだけだが、高尾山がある丹沢山系に向かっているので、窓外の景色は緑が濃くなる。浅川橋を渡るときは、まだ車を運転できていた頃に、この橋を渡って友人宅で彼女を乗せて桧原村にドライブした頃のことが、記憶の中から昨日のことにようによみがえる。沢山ご馳走になり、沢山おしゃべりをして、帰宅したのは6時近かった。心置きなく話せる友人は大切な宝だと思いながら、同じ歳なので、同じように年を取っていくのが淋しい。

少し時間が戻るが、今朝のNHKラジオの深夜便の時間に、大好きな詩人で作家の小池昌代さんが、「名作の読み方」というテーマで、樋口一葉の『にごりえ』について、朗読を交えて語っていた。小池さんは、『にごりえ』の中の貧しい長屋の情景を、作者の一葉と読者と作品の登場人物が共有する…ここに小説の読み方がある、といったことを話されていた(半分眠りながら聞いているので、間違っているかもしれないが)。これは当然のことではあるが、私は改めてなるほどと思った。先日『火山のふもとで』という長編小説を読んだ。作品の出来としては申し分ないのであろうが、私には物足りなく思えた。作品に語られている話が共有できないのだ。それなのに、明治時代に書かれた樋口一葉の作品の、しかもほんの数行の文章が、心に残った。今回再開した読書会で、私は樋口一葉の作品を取り上げてみたいと思っている。

画像は、妹のメールから、「けし」。イタリア旅行の途中で撮ったという。日本にはないような色の花だ。

日本の長編小説

2014-06-13 19:00:17 | 日記
June 12, 2014

久しぶりに、日本の長編小説、松家仁之『火山のふもとで』(新潮社)を読んだ。アメリカで、帝国ホテルの設計を手掛けたフランク・ロイド・ライドに師事したという建築家が所長である建築事務所の、夏の間移動する軽井沢の別荘での、「国立現代図書館」設計コンペに向かう仕事を中心に置きながら、所長である「先生」と所員たちの静かに流れていく生活を描いたものだ。長く新潮社で編集に携わってきたという著者の描く人物たちの織り成す物語は、上品で、人々の内面のどろどろしたところに踏み込まず、読者の想像に委ねている。私は知らなかったが、この本が世に出た1912年の秋には、各紙の文芸時評で話題になったという。私は、割合に偏った読書をする傾向があるので、たまにはこういった作品に触れてみるのもいいかもしれない。2作目の「沈むフランシス」はデビュー作ほどの出来ではなかったようだが、一応図書館に予約しておいた。

先日見た映画『ローザ・ルクセンブルグ』で、ローザが最後に当局に捕らえられる直前に、革命運動を共に闘ってきたカール・リープクネヒトに「ピアノを弾いて」と頼み、カールが、ベートーヴェンの「月光」を弾く場面がいつまでも頭から離れない。この直後の二人の悲劇を予感させながらも、静かな知的な空気が画面を包む。ローザもカールも当時の最高の学府で学んだ学徒であったことを、「月光」が暗示している。映像と耳から入る音の合体したものが醸し出す芸術性は、映画ならではのものだろう。というわけで、今日は一日、『火山のふもとで』を読みながら、「月光」「悲愴」「熱情」が入っているCDをくりかえしかけて過ごした。毎日こういったおだやかな日を過ごせればいいのだが、私はせっかちな性分なので、なかなかじっと1日家にこもっていることが出来ない。どんどん足腰が弱くなってきているこの頃、この落着きの無さは困ったものである。

画像は、妹のメールから、「梅花ウツギ」。

贅沢な日々

2014-06-08 19:51:52 | 日記
June10, 2014

6月8日(日)
友人と、上野の都美術館で開かれている「バルテュス展」をみてきた。10:30頃に展示場に入り、出た時は  1:00になっていたので、途中2度休んだとはいえ、大変な量の作品をみたことになる。久しぶりの美術作品の鑑賞だったが、満足できた。この画家は光を一番重要視していたと言われている。たしかにほとんどの絵を占める人物、特に少女の光と影の織り成す生々しい美しさには、ほれぼれさせられた。さらにデッサン力と構図の確かさも、安心して眺めていられる絵だった。解説に、ピカソが認めた孤高の画家という言葉があったが、具象画とはいいながら、正確なデッサンを基盤にしたうえでのデフォルメされた人物の顔や姿は、何かピカソのキュービズム時代の絵を連想させられた。モデルの内面にある何かを描こうとしたのだろう。上野駅近くの食堂でランチを済ませ、またまた友人宅にお邪魔して、くつろいだ時を過ごさせていただいた。

6月10日(火)
今日は2本の映画を続けてみてしまった。今週は1年分の贅沢を味わったような気分だ。以前満席で見られなかった『ハンナ・ア―レント』が、同じアルテリア・シネマで1週間だけ上映されることになった。何しろ当日券のみしか通用しないので、チケット発売の9:30分に出かけてチケットを買った。上映時間の12:00まで、ちょうど図書館に届いていた松家仁之『火山のふもとで』(新潮社)を読んで時間をつぶした。この映画直後の2:30から、見たいと思っていた『ローザ・ルクセンブルグ』があり、続けて見たというわけだ。2作ともマルガレ-テ・フォン・トロッタ監督作品で、主演女優も同じバルバラ・スコヴァが演じている。少し疲れはしたが、こういった機会は2度とないと思うので、思い切ってみてよかった。同じ監督、同じ主演女優というドイツ映画において、もちろん扱っている題材は全く違うのだが、共に自己の意志を曲げない凛とした姿の女性に接することが出来たことは、両作品をみた収穫であった。もう一つ私が思ったことは、2人の女性の生きた時代の違いである。ローザ・ルクセンブルグが革命家として活動したのは18世紀後半から第1次世界大戦にかけてであり、ハンナ・アーレントは、20世紀後半を代表する思想家である。

『ローザ・ルクセンブルグ』において、この時代の社会主義者として社会に立ち向かおうとする人々の命を懸けた戦いは、ローザが射殺されて川に投げ込まれるという衝撃的なシーンで終わる。一方、『ハンナ・アーレント』では、ハンナが「ニューヨーカー」に書いた、ナチの首謀者であった「アイヒマン」を裁く法廷の傍聴記事の内容が論争を巻き起こす。ユダヤ人として収容所に送られながらもアメリカに亡命できたアンナが、尋問に答えるアイヒマンを目の当たりにして、彼が怪物や悪魔のような存在ではなく、ただ命令に従っただけの「凡庸な悪」の遂行者であり、本当の「悪」を追求しなければならないと書き、さらにユダヤ人の上層階級の人が、ナチに協力して少数のユダヤ人を助けるために大勢のユダヤ人を犠牲にしたのではないかという問題を投げかけ、ユダヤ人をはじめ多くの知識人の反発をかった。この映画ではこのことがテーマになっている。共に信念に従って強く生きた女性ではあるが、ローザの悲惨な最期が目に焼き付いて、現実のむごたらしさの前で、思考は何ほどの価値を持つのだろうか、ハンナを理解しながらも、現代はものが言える時代ではないかという感想をもった。映画のできとしては、私は、『ローザ・・・』の方を取りたい。同じ監督がこの二つの作品を作ったのであるから、監督の中では、折り合いがついていることなのだろう。又伝えたいメッセージがあったのだろう。最近、ドイツ映画やドイツ文学に触れると、ナチの残忍さということだけでくくれない個人の内面を扱ったものが多い。これは私たち人間が背負った永遠の課題だろう。

画像は、妹のメールから、「アルチルベ」。

必要な虚偽

2014-06-05 22:07:52 | 日記
June 5, 2014

数日前の朝日新聞「天声人語」の文頭で、芥川龍之介が書いた「あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである」という言葉を引用していた。日本維新の会の決別に関する話題だった。今日も、それぞれのグループの数合わせがニュースになっていたが、私はこういった政治には最近すっかり興味を失いつつある。これではいけないと思いながらも、現代は、世界中が保守化の傾向が強くて、自分の信念はどこやらに隠して、お行儀よくあたりさわらずなことをいうという時代のようだ。そう考えると、芥川のこの言葉は、今の社会にぴッたリ当てはまりそうだ。

ブログの更新がもたついているうちに時はどんどん過ぎていく、恐ろしいほどの速さで。6月4日は理数点訳の会の例会があり、渋谷あたりの会場まで出かけた。ここもまさしく社交の場であり、私には一番苦手な環境だが、芥川の言葉が頭の隅に残っていたので、皆さんの行動を観察する余裕はできた。私も小さな虚偽を使って例会後のお茶をやめて、若い友人が合唱で参加されるという演奏会のチケットをいただき、早々に帰宅した。この方をみていると、上手にご自分の世界を持っていて、点訳のボランテイアに埋没しない態度を私も見習わせてもらっている。

今日は図書館に本を返して、予約してあった本、アーロン・エルキンズ『葡萄園の骨』(ハヤカワ文庫)を受け取ってきた。エルキンズの「骨」シリーズは、いぜんは文庫本になるとすぐに買って読んでいたが、新作は久しぶりだ。いつもの友人のブログで紹介されていたので、早速予約したら、意外に早く届いた。著者のエルキンズは人類学者だったが、作家デビューし、今やアメリカを代表するミステリ作家である。たしか『水底の骨』という題名のものだったと思うが、モン・サン=ミシェル島の引き潮のときには海に浮かび、満ち潮の時に現れる陸橋を題材にしたミステリが記憶に残っている。なにはともあれ、梅雨に入り、うっとうしい空気の中で、懐かしいミステリ・シリーズの一冊が手にできたことはうれしい。

画像は、友人のメールから「オリエンタルポピー」。赤い色が鮮やかだ。