私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

ベランダ園芸

2016-08-31 08:47:41 | 日記

August 31, 2016

台風一過、久しぶりにさわやかな朝だ。午後からの残暑を予感するが、風ははや秋を運んでくる。涼しい内にベランダを整理した。いろいろと話題を提供してくれたゴーヤをまず片づけた。まだ茂っ葉の間にあった実は、小さいのも含めてすべて取り、薄く刻んで一度湯がき卵とじにしたらなかなかおいしかった。新鮮な野菜をとった気分だ。今は時期ではないと分っていたが、すももやゴムの木の大鉢の根を払い、新しい土に植え替えた。庭があったら私は1日中土いじりをしていただろうと思う。人生はなかなか希望通りにはいかない。

午後から、金子兜太と半藤一利の対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』を読み終えた。金子兜太の最新作『あの夏、兵士だった私』が図書館になかったので代わりに借りた本だ。1911年、東北大地震のあった年の7月に刊行されている。この時点で金子さんは92歳、半藤さんは81歳、私が73歳だ。震災のことから始まり、お二人の戦争体験、最後の「忘れてはならない日本人の精神」という章で終わっている。お二人とも反戦の思いは強いが、時代感覚が私とは違うということを感じた。戦後の教育を受けた者との違いや女性と男性の違い、また育った環境の違いかもしれない。何となくすっきりしない気持で夕刊を見ると、「文藝・批評」の欄に、詩人キム・シジョン(金時鐘)さんについての記事があった。紹介記事には、「1929年生まれ。日本統治下の済州島で育ち、45年、日本の敗戦を経験。48年、朝鮮半島の南北分断に反対する武装蜂起「済州島4・3事件」に参加、日本に渡る。50年ごろから日本語で詩や評論を発表。」とある。

半藤一利さんと同年代だが、この記事を読む限りでは、私はこの人の数奇な人生に惹かれた。少しずつ右傾化していく雰囲気が感じられる今の日本にあって、日本精神などといった言葉は私にはなじまない。反戦もグローバルな形で考えたい。キム・シジョンさんの『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書)を、私がレポーターのときの読書会の本にしてもいいかなと思う。詩集もいくつか読んでみたい。次に、新聞のインタビュー形式の記事で語られているキム・ジションさんの言葉を引用させてもらう。 

 詩を書く者は生き方も必然的に問われます。絶対少数者の側に立つ。それが詩を書く者の意思だと思います。参院選の結果を見て、生きるのも嫌だという気分になりましたが、変化を避け、なれ合いを続けようとする社会に分け入っていくのもやはり詩だと信じています。(朝日新聞、2016年8月31日)

画像は、ベランダの夏の薔薇。寂しそうだ。

 


8月末の日常

2016-08-27 18:19:13 | 日記

August 27, 2016

思いついたように、身の回りの物を整理している。この住まいに来てから2回目だ。前の時は 主に描きためた油絵の整理だったが、今回は以前捨て残した絵からはじめて、食器類や衣類に及んだ。年齢を積み重ねるということはおかしいなと思う。十数年前と自分自身は変わっていないのに、なぜあの時捨てなかったのかと思うものがたくさんある。ものを捨てられない人の心理に通じるものだろう。今回は本当に思い切って捨てたが、食器類は少しもったいない気持もあったので、箱に入れてしっかりとふたをし、「身辺整理のために捨てるが利用できるものがあったら使ってください」という紙を張って、いつもの廃棄場所に運んだ。衣類なども持っていく場所があると聞く。若くて車を利用できるときならばともかく、とても今の私には無理である。あとは手紙や写真類であるが、これが難問だ。ただ捨てるというのではなく、読み返したりして楽しみながら、処分できるものは思い切って廃棄しよう。

今年の夏は、お天気が何か変則的だ。台風の影響もあって、暑さよりも湿度に悩まされた。先日3冊一緒に図書館から借りてきた本の返却日(9月4日)が近づいてきたので、読み終わった本について触れる。千早茜『西洋菓子店プテイ・フール』、予約してから半年以上かかって手元に届いた本だ。朝日新聞に紹介されていたものだったと記憶する。図書館で借りなければとても読まない本だが、だらだらした暑さの夏の日に、安楽椅子からずり落ちそうになりながら読むのには適していた。洋菓子に関連する題名の6編の連作で、下町の洋菓子店とそこの女性菓子職人が各編の話に見え隠れして登場し、全体をひとつの物語りとしてくくっている。こういう手法は短編で最近よく見かける。初出はオール読物、それぞれの話で語られる物分かりの良い人生訓が、それらしい。

次に斎藤孝『読書力』を読む。斎藤孝の本は食わず嫌いで読んだことがなかった。ブログでも触れたが、この著者の『語彙力は教養である』という本の紹介をテレビで見て借りた本だ。読書に関係するもろもろのことが語られていて、すべてに納得するわけではないが、これからますます読書頼みの日常が訪れそうな者にとっては、大いに参考になった。「言葉を知る」という小見出しの中の言葉を次に引用させていただく。本について語り合う読書会についても通じると思う。

 話し言葉の種類は限られている。日常を過ごすだけならそれほど難しい言葉は必要ない。しかし、その日常の話し言葉だけで思考しようとすれば、どうしても思考自体が単純になってしまう。表現する言葉が単純であれば、思考の内容も単純になっていってしまう。逆にいろいろな言葉を知っていることによって、感情や思考自体が複雑で緻密なものになっていく。これが書き言葉の効用である。書き言葉には、話し言葉にはないヴァリエーションがある。
 言葉をたくさん知るためには、読書は最良の方法である。なぜ読書をした方がよいのかという問いに対して、「言葉を多く知ることができるからだ」という答えは、シンプルなようだがまっとうな答えだ。 (斎藤孝『読書力』岩波新書)

もう1冊の金子兜太と半藤一利の対談集はこれから読むので、別の日に触れたい。画像は、紹介した本。こんなきれいな本が図書館で借りられるのはうれしい。


台風

2016-08-22 09:01:19 | 日記

August 22, 2016

珍しく関東地方に台風が直撃している。私の住まいのある区も避難地域としてテレビに名前が挙がっている。携帯にも避難警告のメールが届いている。私の住む場所は避難の必要はないが、この地域も小さながけを切り開いた住宅地が近くにある。避難警告が出ても、年寄りや障害者、幼い子供のいる家庭は、この突風と豪雨の中をどうやって避難するのだろうか、改めて天災の恐さを実感する。

今日のこの状況は予報でほぼ分っていたので、昨日暑さが少しおさまた夕方図書館に出かけた。予約してあった本が3冊用意されているとの図書館からのメールが来ていてた。本は、斎藤孝『読書力』(岩波新書)、金子兜太・半藤一利『今日本人に知ってもらいたいこと』(KKベストセラーズ)、千早茜『西洋菓子店プティ・フール』(文藝春秋)。最後の本はだいぶ前に予約してあった本で、何で予約したのかもう覚えていない。目次から、洋菓子店を舞台にした6編の短編小説のようだ。まずこの本から読み始めよう。
 
やっとテレビもラジオもオリンピックの騒ぎから解放された。私も競技をテレビ鑑賞して楽しむことはある。しかし公共放送がオリンピック一色なのは、私でなくてもおかしいと感じる人はいるだろう。スポーツの単純な世界に没頭している間に、何かおかしなことが政治の世界で進んで行くのは怖い。米国のオバマ大統領が検討しているとされる「核の先制不使用」について、安倍首相がハリス米太平洋軍司令官に反対姿勢を示したと米紙ワシントン・ポストが報じた。核の問題を含め、私には積極的にいろいろな政治情勢を論じる力はないが、安倍首相を取り巻く環境に敏感でいたい。

画像は、「べコニア」。一鉢100円で買った花が、夏のベランダを飾ってくれている。


語彙力不足

2016-08-19 12:24:23 | 日記

August 20, 2016

もともと国語力はないと自認しているが、先日テレビの「久米書店」という番組で斎藤孝『語彙力こそ教養である』(角川文庫)が取り上げられているのを興味深く見た。新聞や本は人並みに読んでいると思っているのに語彙が増えないのは、速読も関係しているのではないか。また言葉の実践の機会であるコミュニケーション不足もあるかもしれない。語彙力だけでなく、誤って言葉を理解していることも多い。点訳を始めてからこのことは痛感している。校正で指摘されると恥ずかしいが、これでずいぶん改善されたのではないかとも思う。長年誤った読み方をしてきた言葉の正しい読み方に出会って、背筋が寒くなることもある。わざわざ語彙力を増やすための勉強をするつもりはないが、この短い、つたないブログでも、書きつづけることが何かにつながると信じたい。

急に語彙力について思い立ったのは、次回読書会の本、林芙美子『放浪記』を読みはじめたこともある。同じ作者の『浮雲』を読んだばかりなのであまり新鮮味がないと思いつつページをめくると、最初からこの作家の筆力に引き込まれた。この本は林芙美子の自叙伝といってもいい本なので、書かれている作者の歩んできた道のりを思うと、この作家の持って生まれた文学的才能に驚くばかりだ。しかし、街頭で男物の下着を売りながら、ロシアの作家アルツイバーセフの『ランデの死』を読むといった描写は、読書好きだったこの作家の自負心でもあろう。そしてこの作家の語彙力の源泉がここにあるのだと感心する。まだ読みはじめたばかりだが、その描写の数行を次に引用させてもらう。

 別に行くところもない。大きな風呂敷包みを持って、汽車道の上に架った陸橋の上で、もらった紙包みを開いて見たら、たった二円はいっていた。二週間あまりも居て、金二円也。足の先から、冷たい血があがるような思いだった。―ブラブラ大きな風呂敷包みを下げて歩いていると、何だかザラザラした気持で、何もかも投げ出したくなってきた。通りすがりに蒼い瓦葺きの文化住宅の貸家があったので這入ってみる。庭が広くて、ガラス窓が一二月の風に磨いたように冷たく光っていた。(林芙美子『放浪記』新潮文庫)

改めてこの数行の文章を書きうつしてみると、これは語彙の問題ではなく小説家としての資質の高さだとわかる。次回の読書会が楽しみになってきた。

画像は、妹のメールから、立体刺繍。子供や孫たちに作ってやっているようだ。私も手仕事は好きなので、そのうち何かに挑戦したいと思っている。


8月15日

2016-08-15 09:50:03 | 日記

August 15, 2016

今日は終戦の日、私たちの年代の人は、事情はさまざまでも、この日のことはいつまでも忘れないのではないだろうかか。71年前のこの日もむし暑く蝉がしきりに鳴いていた。この日の数日前からわが家のラジオは、実際はコンセントが外れていただけだったのだが壊れていて、大切な放送を聞き洩らさないようにといったラジオからの通達を知らなかった。この日は、私たち小学生に割り当てられていた学校へ持っていく兵舎で飼っている馬のための飼料のわらを母が近くの農家にもらいに行って、戦争が終わったのだからもういらないのですよ、と知らされた。だから私の家族は生の玉音放送は聞いていない。小学校2年生だった私の生活がその後どのように変わっていったかはもう記憶の彼方に行ってしまっているが、なぜかこの日のことだけは鮮やかに思い出される。

今年は秋に広島を訪れる予定にしている。なかなか生活に追われてゆっくり旅行をしている余裕がなかったこともあるが、遅ればせながら、原爆投下の日の事実をこの目で見てきたい。そんなためか、今年は今日8月15日も、どこからか強く呼ぶ声が聞こえるような気がする。最近は自分の健康のことばかり気にかけて、反戦の思いも薄らぐ日常だが、この日だけでも戦争反対の思いを新たにしたい。発刊されたばかりの金子兜太『あの夏、兵士だった私』(清流出版)を読んでみようと思う。次にいくつか、朝日新聞「文化・文芸」欄に掲載された金子兜太の句を引用させてもらう。

     水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る    (55年) 
     彎曲し火傷し爆心地のマラソン        (61年)
     朝蝉よ若者逝きて何んの国ぞ         (2015年) (朝日新聞、2016年8月11日)

午後から買い物に出かけると、骨密度の測定をやっていて、声をかけられたので計ってもらった。何度もブログで触れていることだが、十数年前この住まいに引っ越した際、背中と腰の骨を圧迫骨折した。骨粗鬆症と診断されたが、医者にも薬にも頼らずに現在までに自然治癒してはいる。そのときの健康診断では骨密度が年齢標準を遥かに下回っていて、その後身長は10センチ以上縮み、背中も丸くなっている。私の医者嫌い、薬嫌いは徹底しているので、できるだけ食事でビタミンC,Dをとることとウォーキングだけは心がけてきた。さて今回の10年ぶりの測定であるが、測定値はほぼ年齢標準に近いものだった。

乳業会社が宣伝も兼ねて行っているもので、正確さはよく分らない。しかし、私はこういった測定の方が病院のものよりはあてになると思っている。又測定している女性も単なる会社の営業ウ―マンではあるが、多くの人の測定を行っている間に得た知識によって、的確なアドバイスをしてくれる。というわけで、2ヵ所骨折した割には今の骨密度の状態はたいしたものですと褒められて気をよくして帰宅した。やはり毎日の何年にもわたる食生活への気遣いか良かったのかもしれない。最近は筋肉が減り立ち居が以前のようにいかないことを嘆いていたが、少し元気が出た。いままでどおりの生活を続けていこうと思う。やはり自分の健康に話が及んでしまった。

画像は、友人のメールから、不忍池の蓮。この辺りは東京大空襲で多くの犠牲者が出て焼け野原になったところだ。美しい蓮の花に平和をかみしめたい。


カラスウリ

2016-08-12 10:49:38 | 日記

August 12, 2016

猛暑が続いているが、蝉時雨が近づく秋を知らせてくれる。本当に時が過ぎていくのは速い。年齢のせいか、この頃時の感覚が鈍くなり、今日は何日かしら、何曜日かしらと混乱することがある。私の頭の中が少しずつ壊れていっても気づかないし、また気づかせてくれる人もいないのがこわいが、自分の中に起こる小さな変化に耳を傾けて日常を暮らすように努めたい。実際、点訳もそろそろ終わりが近づいてきていると思っている。

いつも写メールを送ってくれる妹が、カラスウリの実と花の写真を送ってくれた。妹が暮らす場所は、都会ではあるが近くに林があり、自然環境に恵まれている。近くの川沿いの道はウォーキングに最適な場所だ。カラスウリは林や藪の草木に絡みついて成長する。葉はハート形で、花は夏の日の夕暮時から日没までの1時間ほどの間に開花、翌朝日が昇るころにはしぼんでしまうという。そんなわけで花を撮るのはだいぶ苦労したようだ。実物を見てみたい気がするが、写真でもその神秘的な様子が分る。画像はカラスウリの実と花、カップの上に置いて撮った花の写真が面白い。

         

         

今メディアはリオのオリンピックで大騒ぎしている。メダルをとるのも大変だろうが、選手やもろもろの付き人を派遣したりする費用は莫大なものだろう。5年後に日本で開かれることになっているオリンピックまで私は生きているかどうかわからないが、為政者には、格差が広がっている日本の現実をもっと直視してほしい。手を差し伸べられずに苦しんでいる人が日本にもたくさんいるのですよ。今日のブログはここまで。                                 


うれしい来客

2016-08-10 18:53:10 | 日記

August 10, 2016

毎年のことなのだろうが、ここ数日、日本列島は猛暑に見舞われている。そんな中素敵な来客があり、簡単なランチを用意して迎えた。お客さまは、以前開いていた英語教室に来てくださっていた姉妹の方だ。お姉さまはフランスの方と結婚し夏休みで日本に帰省されているとかで、3歳のお嬢さんと一緒だった。妹さんは今年赤ちゃんが生まれていま育児休業中とのこと、赤ちゃんが一緒だった。私はあのころから、歳だけはとったが生活は全く変わらないのに、若い方たちはどんどん生活環境を変えていかれる。当然のこととはいえ、私には輝いて見える。こうしてゆっくりお話しするのはあのころ以来だ。でも驚いたことに全く久しぶりという感じがしない。それはこの方たちと最初にお会いした時の印象と同じなのだ。私と50歳近く年が離れていることを考えたりすると、人との相性の不思議を思ったりしている。

3歳のお嬢さんが少し亜麻色がかった髪を無造作に束ねている姿は、すでにフランスのレディそのものなのが可愛らしかった。妹さんは大学の理工学部を優秀な成績でご卒業されたと伺っていたが、キャリアとして働いてられる。お二人ともこれから忙しい日々が続くだろうが、同時にすばらしい未来も待っいる。健康に気をつけて進んでいってください。お忙しい中で時間を割いて会いに来てくださったことを心から感謝します。楽しい時は瞬く間に過ぎてしまったが、大きな勇気をいただいた気分でいる。暑い中で更新が遅れてしまったこのブログも、小さな日常の変化を見逃さずに書きつづけていこうと決心した。

お二人が帰られてからベランダを見ると、育てているゴーヤが暑さでぐったりしている。なかなか実が付かなかったゴーやもすでに2個収穫し、ゴーヤチャンプルにしたりして食した。味は店で買うのと少しも変わらない、そして新鮮さではぴかいちだ。肥料をやり続けているので、まだ何本かは収穫できそうだ。経済の足しにもなる。今年は1本だったが来年は2本育ててみようなどと、欲張ったことを考えている。

画像は、ベランダのゴーヤ。実もさることながら、たくさん咲く雄花が楽しませてくれる。


マイナンバー

2016-08-01 10:45:08 | 日記

August 1, 2016

毎年今頃、はちみつをいただく。今年もいただいた。1200グラム入りの大瓶で、「南アルプスからの贈りもの」という言葉が書いてある。長野県伊那市の養蜂園に直接注文してくださっているようだ。いつも重宝してきたが、今年は自家製のヨーグルトを飲むようになって、はちみつは欠かせない。こんな純粋なはちみつを味わえるのはありがたいことだと思う。私のような独り身の老齢者にとって生きづらい世の中だが、支えてくださる方もたくさんいると思うと、気分が楽になる。

さて、だらだら暮らしているうちに8月になってしまった。今日は、マイナンバーカードをとりに区役所まで出かけた。確か今年の初めに申請したと思うが、今日やっと手に入った。個人情報がすべて入っているにしては、いろいろな手続きがコンビニで可能というのは少し心配だ。とんでもないことが起きて、そんな抜け穴もあったのかといったことにならないことを願いたい。私はもっぱら身分証明書として使うつもりでいるが、まあ差し支えはないだろう。カードを受け取る時間まで指定されていたので多分待たされるだろうと思い、図書館から借りている太田治子『心映えの記』を持っていったが、10分ほどで済んでしまった。同じ敷地内にある図書室で本書を読み、さっと雨が降って少し涼しくなた頃に帰宅した。本はまだ途中だが、先日ブログに書いた『石の花』に続いて、同じ著者の本だ。この方はたぶん文章を書くことでご自分が解放されていったのだろう。

ブログを中断して「心映えの記」を読み続け、読了した。既婚の太宰治と恋愛し、本書の著者である治子を生み、誇り高く生きた母との生活、母への愛と母の死によって訪れる母との別れを描いた本だ。本書は昭和59年1月号から同年12月号まで『中央公論』に連載されたものだ。少し時代をさかのぼった頃の日本の姿を垣間見ることもできる。個人的な太田家の物語でありながら、いろいろなことを考えさせてくれる普遍性がある本だ。なにもなく過ぎても何かがあって過ぎても、人は生き死んでいく、そしてそこにはそれぞれの物語があることを伝えてくれる書だった。

画像は、妹のメールから、「カトレア」。