私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

映画「希望のかなた」

2017-12-26 18:56:29 | 日記

December 27, 2017

2017年も残すところ数日になった。師走の忙しい時期に映画を見るなんてと思われがちだが、これが独り身ののんきなところ、そのうえ最近はどんどん間口が狭くなってきた。年越しそばと雑煮以外、改まって正月料理は作らないし、ことさら大掃除をするような広い住まいに住んでいるわけでもない。世の中がクリスマスや歳末でにぎわっているとき、現実逃避は映画に限る、というわけである。今日見てきた映画について書こう。

映画は、フィンランド映画「希望のかなた」、監督はアキ・カウリスマキ、2017年ベルリン国際映画祭・銀熊賞(監督賞)をはじめ数々の賞を受けている。いつものように、パンフレッドから大筋を紹介しよう。「シリア難民の青年カーリドは、北欧フィンランドの首都ヘルシンキに流れつく。彼の思いは”いい人々のいい国”だと聞いたここフィンランドで、生き別れた妹を見つけて暮らすこと。しかし難民申請は却下され、街中では理不尽な差別と暴力にさらされてしまう。そんな彼にしがないレストランのオーナーは救いの手を差しのべ、自分のレストランにカーリドを雇い入れる。レストランの店員たちにも受け入れ始めたころ、妹が見たかったという知らせが入るのだった・・・」とある。こうして読んでみると、特にミステリアスなところもない話の運びだが、主人公がシリア難民だという点にひかれて見た映画だった。シリア問題が騒がれているころ、日本人の女性記者が銃弾に打たれて亡くなった都市アレッポもたびたび出てくる。政情が不安なヨーロッパの片隅で繰り返される人々の苦悩、しかしそこには優しい心を持つ人々もたくさんいる、これが、監督が描きたかった「希望」なのだろう。歌詞が字幕で出される音楽が、ノスタルジックで心に響き素晴らしかった。CDを購入したいと思って調べてみたが、少量しか作ってないとのことで、入手できなかった。音楽を聴くためにもう1度見てもいいと思うほどだ。

2017年は、ブログの更新が滞ってしまった。にもかかわらず、私の代り映えしない日常を覗いてくださった方々に感謝したい。新しい年が皆様にとっていい年でありますように。

画像は、妹のメールから「イイギリ(飯桐)」。

 


カードの紛失

2017-12-16 15:37:12 | 日記

December 15, 2017

12月23日(水)
駅前の店に立ち寄り、知り合いへの小さなプレゼントを買った。包装に手間取るようだったので、別の買い物をしてから品物を受け取ることにした。地下のOXで野菜などを買い、レジでポイントをいれてもらうためにいつも使っているカードを出そうとしたがみつからない。年寄りがカードを見つけるのに手間取って後ろに列ができるという典型的な状況になりかけたので、ポイントなどどうでもいいからとまず支払いを済ませてレジを後にした。その辺にある椅子にかけてゆっくり財布を見直したがみつからない。お金の代わりにもなるカードだったので、少し焦った。

この時点で 、包装をお願いしている店のことが全く記憶から抜けてしまい、いったん家に帰ってカードを止める手続きをした。ここでやっと冷静な頭の働きが戻ってきて、プレゼントの品物を受け取ることを思い出し、明日でも取りに行くことにしてと、当該店に電話を入れると、カードもお預かりしたままですという返事が返ってきた。カードの紛失に気づいてからの自分の行動を振り替えると、通常では考えられないようなことをしているわけで、すっかり落ち込んでしまった。今回はカードをポイント記載のために用いたが、カードによる支払いも結構やっている。年を取ると、今までできていたことがひとつずつできなくなるという話を耳にするが、私もその領域に入ってきているのだ。新しい年からはポイントをためるだけのカードに取り換えよう。

12月14日(木)
点訳の勉強会のために武蔵境まで出かけた。今年最後の東京行きである。快速急行を使えば30分以内に新宿まで行けるが、急ぐことはないのでローカルに乗った。1時間弱、この道中に文庫本を読むのが楽しみだったが、最近は目の保護のためにぼんやり車内の光景を見たりした過ごす。つまらない。会場の中の食事のできる場所で買ってきたサンドイッチを食べ、皆さんと合流する。2500ページほどの英和辞典の点訳を、私とほぼ同年代8人ほどのメンバーで携わり、まだ1000ページにも達していない。元気な間に完成できるのだろうか。これは私以外の方々の胸の内にあることでもあるが、今できることをやるというのが先決だ。途中になっても後を引き継ぐ人がきっと現れるだろう。

画像は、妹のメールから、「アマリリス」。


映画「婚約者の友人」

2017-12-12 14:06:02 | 日記

December 12, 2017

内容的には感動するものであっても、映画らしい映画に出会うことがなかなかない。今日見てきた映画は、久しぶりに映画を見たという気持ちを抱かせてもらった。私はいつもアルテリオ・シネマという問題作が上映される映画館に足を運ぶので、考えさせられることはあっても、必ずしも私が考えている映画らしさを満足出来るものではない。今日見てきた映画「婚約者の友人」は、その意味では、最高の映画だった。少し調べてみると、日本で最初に上映されたころかなり話題を呼んだ作品だったようだ。知らなかったのは私だけか。何はともあれ、作品を紹介させてもらおう。

いつものように映画のパンフレットから大筋を引用させてもらう。「第1次世界大戦の敗戦国ドイツ。戦死した婚約者の両親とともに暮らすアンナは、ある日、婚約者の墓で祈るフランス人青年アドリアンと出会う。学生時代の友人だと名乗る青年を、アンナは婚約者の両親とともに歓待するのだが…。戦争の悲劇をミステリータッチで描く秀作。」とある。アドリアン役には、フランスの若手俳優の中でも突出した存在感を放つピエール・ニネ。アンナ役のパウラ・ベーアは、本作でヴェネチア国際映画祭マルチェロ・マストロヤンニ賞に輝いた。モノクロームにヒロインの心情を時折カラーで映し出している映像は、美しかった。次々と展開される物語を追っていくうちに2時間があっという間に過ぎた。第2次戦争後70年以上経っても、戦争の悲劇を題材にした映画は続く。本映画の監督はもちろん反戦を訴えてもいるのだが、主人公を演じる美男美女の美しい姿、また耳に心地よいフランス語の響き、今回は文句なしに映画として楽しませてもらった。

画像は、映画のパンフレットから。


石牟礼道子『花びら供養』

2017-12-11 11:19:48 | 日記

December 11, 2017

新聞に紹介されていて、すぐに図書館に予約してあった本がやっと届き、一気に読んだ。石牟礼道子『花びら供養』(平凡社)。著者が長く携わってきた水俣病関連の文章のほか、幼少期の記憶、文明論など、単行本未収録の文章を収録したものである。

著者は1927年生まれ、私よりは10歳年上だ。パーキンソン病を患われているとのこと。著者の全集などを手掛けている藤原書店と編集に携わってられる渡辺京一氏の努力によるところが大きいと思うが、この時期にこの本を読めたことがうれしい。水俣病を世に問うて、人々に経済成長の陰に横たわる恐ろしい現実を突きつけた『苦海浄土』は、昭和47年の出版である。あれから50年、著者は『花びら供養』で、「ただならぬ年月であった。知り合った方々の中には、亡くなられた人々も少なからず、わたしにも、あの世が近づいてきた。生死にかかわらず、お互いに寄る辺なき魂たちであったと思う」と書いている。

私が著者との関係を振り返ってみた時、40年以上続けてきた「読書会」の確か2回目で『苦海浄土』を読んだと記憶する。『花びら供養』を読んでいると、著者の一貫した世の中の事象に対する目線を強く感じる。また、著者の作品を読みながら、同時進行のように歩んできた自分の立ち位置も、紆余曲折はありながらも変わらず保ち続けてこれたことにほっとする。次に、本書の中で、水俣病の患者の一人が語った言葉について触れた一文を紹介させていただく。

「知らんちゅうことは、罪ぞ」
 光に貫かれた言葉だと思う。現代の知性には罪の自覚がないことをこの人は見抜いたにちがいない。不自由きわまる体で、あらためて、水俣病とそこに生じる諸現象の一切を、全部引き受け直します、と栄子さんは宣言したのだ。皆が放棄した「人間の罪」をも、この病身に背負い直すぞと言っているのではないか。自分にむかって、迫害する者たちにむかって、世界にむかって仲間たちに対して。(石牟礼道子『花びら供養』)

画像は、妹のメールから、「アンソリュウム」。北総花と緑の公園で撮ったそうだ。

 


読書会(カーソン・マッカラーズ、村上春樹・訳『結婚式のメンバー』)

2017-12-04 09:49:19 | 日記

December 5, 2017

友人宅で、忘年会を兼ねた今年最後の読書会があった。本は、カーソン・マッカラーズ『結婚式のメンバー』(新潮文庫)。昨日、メンバーの一人の方から電話があり、ご主人様が入院されたとかで欠席されるとの連絡が入った。いつもは別の日に変えるのだが、明日ということもあり、また今年も押し迫ってきているので、残るメンバーで始めることにした。

いつも思うことだが、私たちの読書会の良さは、どなたかが取り上げてくださった本を読めるという喜びである。本書もたぶん自分で本屋で買って読むことはなかったであろう。文庫ではあるが330ページほどの、読みでのある本だった。村上春樹訳の文章は読みやすいが、内容はなかなか難解である。活字に親しんでいないと、この作家の世界に入るのに時間がかかるかもしれないな、と私は思った。今回レポーターになった方の全体像の解説がわかりやすく、感覚で本を読む私にはとても刺激になった。

1部2部3部と別れていて、主人公の12歳の少女がパート毎に名前を変えて登場する。兄の結婚式のメンバーに自分も当然入っているはずだと思い込む少女、結婚式までのアメリカ南部の暑い夏の1週間に、この少女が大人へと変わっていく様を描いている。80歳を過ぎた今の私にとっては、12歳はあまりにも遠い。しかし毎日が変わりなく流れ去っていき、昨日と今日、1週間前の日と今日の区別もつかなくなったような変化のない日常とは全く違った日々を送っていたことは確かだ。あの日を取り戻すことはできないとしても、一冊の本によって幼かった頃を振り返ることはできる。活字を通して得られる楽しみである。「緑色をした気の触れた夏のできごとで、フランキーはそのとき十二歳だった。」という書き出しで始まる本書を、もう1度読み返してみたいという気持ちになった。

画像は、友人のメールから、「冬のバラ」。