私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

読書会

2016-09-28 08:38:28 | 日記

September 27, 2016

ここ数日蒸し暑い日が続いている。今日も湿度が高い。友人宅で開かれる読書会のために東京まで出かける。本は林芙美子『放浪記』(新潮文庫)。この前読書会で取り上げた、芙美子の晩年の名作『浮雲』と違って、芙美子の作家になるまでの貧困時代を日記風に描いたものだ。三部からなっているが、一部が出版された時にベストセラーになり、この印税を持って芙美子はパリに出かける。その後二部三部と書き足され、一部にも手を加えられたようだ。随所に詩も書いている。私は『浮雲』を読んでから、この作家の才能に驚き、林芙美子関連の本も何冊か読んだ。菊田一夫の脚色で長く舞台でロングランを続けてきた『放浪記』はあえて避けてきたが、今回読書会で取り上げられて読んで、やはり引き付けられた。今日食べるものがなくても古本屋で本を買ってむさぼるように読む、しかも哲学書であれ文学書であれ詩であれすべてが芙美子の中に吸い込まれ、創作の糧となっていく。48歳で亡くなっているので、短い人生をその才能に導かれるままに存分に駆け抜けた作家だ。次に、『放浪記』の三部の中にある詩を引用させていただく。

  (6月×日)
    肥満った月が消えた
    悪魔にさらわれて行った
    帽子も脱がずにみんな空を見た
    指をなめる者。
    パイプを咥えるもの
    声を挙げる子供たち
    暗い空に風が唸る。
    

    咽喉笛に孤独の咳が鳴る
    鍛冶屋が火を燃やす
    月は何処かへ消えて行った。
    匙のような霰が降る
    いがみあいが始まる。

    賭け金で月を探しに行く
    何処かの暖炉に月が放り込まれた
    人々はそう云って騒ぐ。
    そうして、何時の間にか
    人間どもは月も忘れて生きている。   (林芙美子『放浪記』新潮文庫) 

1日前になるが、26日の朝日新聞の「文化・文芸」欄に、懐かしい人の名前があった。高橋和己、今は「過去の人」のようになった作家だ。しかし、私たちの世代には欠かせない人物だった。私はほぼ全作品を読んでいると思うが、読書会でも『わが解体』を読んでいる。特に『悲の器』『邪宗門』は今でも書棚のすぐ手を伸ばせば触れるところに収まっている。夫人の高橋たか子さんの作品もいくつか読んでいる。新聞の紹介記事では、「個人の実存から世界の成り立ちまで。「生涯にわたる阿修羅」としての思索の往還が、全体の見えない時代を生きる私たちを、静かに鼓舞する。」(朝日新聞、9月26日)とある。再読してみたいし、読書会でも取り上げてもらいたい。 

画像は「朝顔」。今年はたくさん花をつけた。朝この美しいブルーの色を目にすると、心が和む。

 


9月の風

2016-09-24 11:29:22 | 日記

September 26 2016

9月24日(土)
次々と台風が来て、何となくお天気がぱっとしない。松岡直也&ウィンシングの「9月の風」というCDをかけてみるが、アコースティックピアノの音から、海を駆ける帆掛け船は連想できない。何だか今年はさわやかな9月の風を経験していない気がする。さてこの「9月の風」というCDは、ラジオ深夜便で耳にして、いいなと思って何年か前に買ったものだ。その後あまりかけたことはなかったが、今回松岡直也についてパソコンで調べてみて驚いた。何と私と同じ1937年生まれで、2014年に76歳で病没されていた。

9月26日(月)
「9月の風」についてもう少し触れようと思っていたときに突然パソコンが動かなくなり、再起動するとインターネットへの接続ができなくなった。私のパソコンはDELL社のものだが、電話すると、サービス期間が過ぎているので有料でないと応えられないという。1万円近くする料金を払うつもりはないので、自力で治すことにした。パソコン購入時についてきたCDを使うというところまで聞き出せたので、1枚をセットすると、なんとかインターネットにつなぐことができた。10年以上使っているパソコンで、寿命が来ているのかもしれない。余裕があれば最新のアイテムをそろえたいが、なかなか先立つものがない。点訳はインターネットには関係ないので、今のパソコンを点訳用にして、小さい端末を購入することも考えたい。そんなわけでブログの更新が遅れてしまった。明日は読書会で友人の家を訪れる。少し気分を変えたい。

画像は、「たますだれ(ゼヒランサス)」。いただいた1個の球根から少しずつ増やして、今年はずいぶんたくさん花をつけた。


暦を見ながら

2016-09-19 12:54:30 | 日記

September 19, 2016

あまりにも1日が速く過ぎていくので、2,3日前のことでも暦を見て確かめている。困ったことだ。先週の木曜日(15日)は、点訳の例会があり、武蔵境まで出かけた。8月は夏休みだったので各自が出し合う疑問点が多く、1時から始まった会が5時まで続いた。自分も含めてのことだが、皆さん熱心で感心する。その後の数日は、点訳関係のコピーを取りに行ったり、友人宅でお茶を飲んだりいているうちに過ぎたようだ。台風の影響もあるが、毎日雨交じりのお天気で、秋の到来を実感している。

今朝ベランダを覗くと、カボチャの黄色い大きな花が目に飛び込んできた。これは、いたずらにカボチャの種を1個鉢に埋めておいたらたちまち芽を出して今ベランダを這い進んでいる。実はもう望めないが花でもと思っていたが、こんなに大きな美しい黄色の花が咲くとは思わなかった。変わりばえのしない日常に、文字通り花を添えてくれた。今日のブログはカボチャの花でお茶を濁しました。


金時鐘に惹かれて

2016-09-14 17:45:23 | 日記

September 14, 2016

図書館で借りていた金時鐘の詩集『失くした季節』を返却し、届いているという連絡を受けた金時鐘『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書)を借りてきた。本書の表題の「朝鮮」は、南北をひとつにした総称としての「朝鮮」のことだと、著者は「あとがき」で書いているが、韓国とか朝鮮とかについての私の知識はあまりにもお粗末だ。歴史の授業では全く触れられなかったうえに、その後の人生でも、総じてアジアにほとんど目を向けてこなかった。先日のブログで触れたことだが、朝日新聞で金時鐘についての記事を読み、この人物についてもう少し深く知りたいと思った。これは何か分らないが、私のその時の直感のようなものだった。まず詩集『失くした季節』を読んで、心に響くものがあった。性別も国籍も生きてきた人生も全く異なるのに、その詩の言葉のすべてが理解できるのだ。もし人間という大きなくくりの中で分けるならば、私はこの人物と同じ範疇に入るのではないかと思っている。

図書館に返却せざるを得なかった詩集は、もう少し手元に置きたかった。そして今『朝鮮と日本に生きる』のページをめくり始めている。やはり読書会の本として皆で読みたいという気持が強いので、自分で買うことになると思うが、まずこの本を読もう。このほかにもまだ何冊か金時鐘の本が予約してあり、今年はこの方の著作で終わりそうだ。現在、この詩人が育った日本統治下の済州島は、韓流ブームもあって観光地として有名だ。それもいいだろう。私も30年以上前に、読書会の友人たちと、「キムチを作る旅行」ということで韓国を訪れたことがある。その時とは全く違う心情にいる自分の姿がおかしいが、30年という年月が人間に、いいとかわるいとかではなく何かを与えるのだと思うと、来し方も無駄ではなかったのかもしれない。

画像は、「リーガースベゴニア」。


健康診断

2016-09-09 14:47:11 | 日記

September 9, 2016

  

自治体が毎年無料で行っている健康診断を、10年ぶりに受けた。若い頃は、こういったものは日常の中の1行事としておさまっていたが、今回は自分の興奮状態にもてあました。あらかじめ送られてきている尿などの採取用の容器や問診表など、忘れ物がないかと目配りするだけでも疲れた。本当に、10年ぐらい前だったら自分の今のこの姿は笑えるものだろう。歳をとるということを実感する。もちろん90歳過ぎても何の苦もなくこういったことに対処できる方もいるが、脳の仕組みが違う。検診を申し込んだのは、いつもの駅前からバスで10分ほどのところにある比較的新しい総合病院なので、どこへ行っても清潔で気持がよかった。私はこの病院で白内障の手術も受けている。この手術は、担当医がすぐに辞められたり、あまり芳しい結果ではなかったことを考えると、いろいろ思うところもある。しかし、病院選びをするほど医者と縁があるわけではない。健康診断だからということもあってこの病院を選んだ。人間ドックを受ける人たちと同じフロアだった。ドックは病院のドル箱なのだろう。みなさん丁重な扱いを受けていた。

血液検査の結果は3週間後ということだが、内科の診察では、問題となるところは何もないと言われた。血圧も正常だった。がん検診は大腸だけを申し込んだ。この結果もすぐには出ない。何があってもおかしくない年齢なので、何を言われても驚かないつもりでいるが、どうだろう。たまにこういうところに来て観ていると、病院から送られてきた用紙に「検査に関する注意事項」として、当日は起床時より一切の飲食はご遠慮ください、と書いてあるのに、受付で念を押されると、食べてきてしまったという人が何人もいるのがおかしかった。検査が受けられないといった大げさなことではないようだが、私のように半ば興奮状態で言われたことを履行しなくてはと必死になっているのは、これも加齢のせいか。9時に家を出て、空腹のまま帰宅したのは12時近かった。今日のようなル―チン以外のことだって、こなしていかなければならない。今後が思いやられる。

画像は、ゼラニューム。いろいろな種類をそろえたい。花もいいが、葉の色が美しい。


残暑の中で

2016-09-06 13:40:44 | 日記

September 6, 2016

朝から残暑が始まっている。午後から急な雨が降るかもしれないという予報もあり、早目に家を出た。まず図書館に向かう。予約してあった本・金時鐘『失くした季節』(藤原書店)が届いたというメールが図書館からあった。先日のブログで触れたが、金時鐘(キム・シジョン)は、1929年朝鮮で生まれ、済州島で育つ。朝鮮半島の南北分断に反対する武装蜂起「済州島4・3事件」に参加、日本に渡り、1950年ごろから日本語で詩作を始める。本書のほか、多くの詩集、評論集、エッセイが刊行されている。私も数冊図書館に予約してあるが、新聞に取り上げられると、私もそうだが、予約する人が何人かいてすぐには読めない。本書は詩集だからか割合早く届いたのだろう。装丁も簡素ですてきだ。ページをめくりたい気持ちを抑えて、ショッピングセンターでいくつか買い物をした。ショップの片隅にあったリーガースベゴニアの小さな鉢も買った。普通のベゴニアより育てるのが難しい花だ。今年はぜひ年を越させたい。

さて、借りてきた本について書こう。藤原書店の本は高価で、図書館でなければ手にできない。夏、秋、冬、春という題にそれぞれ8篇の詩が載っている。自然を題材にした抒情詩のような形をとっているが、内容は自然賛美の抒情詩ではない。キム・シジョンの生きてきた過程が刻まれているからこそ読む者の胸を打つのだろう。私も、たとえフィクションであっても作家の生きてきた足音が聞こえる作品が好きだ。キム・シジョンも、本書のあとがき」の中で、「・・・この詩集も春夏秋冬の四時を題材にしているので、当然「自然」が主題を為しているようなものではあるが、少なくとも自然に心情の機微を託すような、純情な私はとうにそこからおさらばしている。つもりの私である。」と書いている。紹介記事を新聞で読んだだけで初めて触れた詩であるが、若い頃に吉本隆明の初期の詩に惹かれたときのような感慨を持った。次に、本書の「秋」の中から一遍の詩を引用させていただく。

         一枚の葉
    一枚の葉を拾い上げ
       初めてのように覗きこむ。
    半ば染まったまま
    葉はやりとげてもない形で落ちていて
    それでもこれで一生なのだと
    かすかに風を匂わせている。
    思えば途中は過程のさ中であり
    終わりはいつも終わらないうちに終わってしまう
    みちなかの執着でもあるものだ。
    そうしてその留まりは
    本来に立ち帰る始まりともなるのだ。

    土にはとうてい帰れないあまたの葉が
    並木の下でにじってよじれて
    飛びだしたいばかりにじれている。
    今に風を巻いて
    街の空いっぱい
    かき消えた群雀を蘇らせるやも知れぬ。
    ぼくは今更の思いで木の肌をさすり
    自ら落ちていった他の葉を掴んで声をあげた。
    どれほどの便法が木を装ってきたことだろう。
    物言わぬ葉は色を成して散り敷き
    ただ運ばれて炎に供する
    あまりにも無機質な敗北に慣れてしまったのだ。
    落ちてはすべてが終わるのか?!
    途中の過程は奪われて
    物みな生存帰属を殺していっている。
    秋にすら遅れてしまった斑な葉に
    頬を寄せ
    せめて1枚
    風光る空中に
    放つ。                
                       (金時鐘『失くした季節』藤原書店)

画像は、図書館の庭にある柿の木。夏が終わったばかりだというのに、柿はもうこんなに色づいている。