私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

最近読んだ本

2015-01-27 08:49:51 | 日記
January 27, 2015

先日友人と会った時にいただいた、聖護院御祈祷済みの「福豆」が待っている。春がすぐそばまできているのに寒い日が続くのは例年のことだ。昨年から引っかかっていた英語の参考書の点訳が出来上がり、点字印刷機で打ちだすために事務所に出かけたり、何となく落ち着かない中で読んだ本について触れたい。

佐々木健一『辞書になった男』(文芸春秋)。朝日新聞の書評に取り上げられていた本だ。一昨年、辞書の編纂に関する内容の、三浦しをん『舟を編む』を読み、映画を見て楽しんだ。私は、今回『英和辞典』の点訳に参加することになり、いわゆる分らないことを辞書をひいて調べるという立場から1歩踏み込んでいる。そんな時に手に取った本なので少し思い入れはあった。本書は、三省堂で出している『新明解国語辞典』と『三省堂国語辞典』の編纂に携わった見坊豪紀と山田忠雄・両氏の辞書誕生から改定版刊行の過程でのいきさつ、軋轢を扱ったドキュメンタリーで、NHKのテレビ番組でこの問題をプロデュ―スした佐々木健一さんの著になるものだ。『明解…』の初版は昭和18年、『三省堂国語辞典』の初版は昭和35年である。見坊氏も山田氏もすでに鬼籍に入られている。三浦しをんさんの本の登場もあって、この知る人ぞ知る話が公になったのだろう。私は、国語辞典は『岩波国語辞典』と『広辞苑』しか使わないので、問題になっている「用例」も、あまりしっくりとこない。私には、辞書界の盗用体質を暴いた「暮しの手帖」事件についての箇所が面白かった。当時「暮らしの手帖」は読んでいて、商品テストはいろいろと参考になった記憶があるが、それが辞書にまで及んでいたとは知らなかった。

私は、昨年暮れに、『医学大辞典』の点訳から、『英和辞典』の点訳に鞍替えして、これからこの辞典との付き合いが始まるが、『医学辞典』の点訳に参加されていた人の中に、某出版社で辞書の編纂にかかわったことがある方がいて、その方のあまりのこだわりように、いささかうんざりしていた。私たちは点訳をする立場なのだからと思いつつも、そのこだわりは、今この本を読むと、なるほどと納得もできる。でも携わっているものによって立場を変えることも必要だろうと思う。幸い今の『英和辞典』のキャップをされている方は、物事の取捨選択が早く、私はとても助かっている。

佐藤優『世界史の極意』(NHK出版新書)。これはもっぱら東京に出かけるときの電車の往復で読んだ。いま「イスラム国」が話題になっている。新聞を細かく読むことにしているが、この事態については、意見を述べる言葉がない。しかし、この時期に本書を読むことが出来てよかったと思っている。表紙裏にある言葉を引用させてもらおう。〈ウクライナ危機、イスラム国、スコットランド問題・・・世界はどこに向かうのか?「資本主義と帝国主義」「ナショナリズム」「キリスト教とイスラム」の3つのテーマを立て、現在の世界を読み解く上で必須の歴史的出来事を厳選、明解に解説! 激動の国際情勢を見通すための世界史のレッスン〉(『世界史の極意』表紙裏の解説より)とある。新書の中にこれだけの内容を簡潔に、また分りやすく読者に提供できのは、まさにこの方の極意である。

各章ごとに年表と参考文献が掲載されている。駆け足で読んでしまったが、座右に置いて読み解く本である。著者は、歴史をアナロジカルに見る必要を繰り返し書いている。ありていにいえば、歴史は繰り返されるということ、だからこそ歴史の教訓を学ばなければならないのだと思う。

画像は、友人宅の2階の居間から撮った。夕方になるとこの雲が茜色になって美しいと言っていた。のんびりとコーヒーをいただいて遠い空の雲を眺めていると、お暇する時間を忘れて長居してしまう。


一汁三菜

2015-01-22 17:23:58 | 日記
January 22, 2015

若いころに別の読書会でご一緒したことがあり、近くに住んでられる方が、出来上がったばかりのご著書、河上睦子『いま、なぜ食の思想か』(社会評論社)を届けてくださった。大学で教えてられてお忙しい日々を過ごされてられる方なので、賀状をやり取りするくらいのお付き合いだが、私のブログを覗いてくださっている。水上勉の『食を喰う』という本についての私のブログに関連してのことだった。専門書なので心して読まないといけない。ゆっくり読ませてもらうとして、第一章は日本の食について書かれてある。和食について、当然誰でも知っている一汁三菜という言葉が、私には新鮮に映った。育った家では、みそ汁を飲むという習慣がなかった。要するに「一汁三菜」といういしきたりがまったくないままに、どちらかといえば洋食に近い食事をしてきた。老年になって、みそ汁や漬物が欠かせなくなってきている自分に驚いてはいるが、これが「一汁三菜」という言葉とは結びつかなかった。突然、白内障の手術で病院に一泊入院したときの夕食と朝食の献立が頭に浮かんだ。主菜も副菜も質素なものではあったが、ご飯、みそ汁、三菜、漬物がそろっていた。和食の伝統と大げさにいうわけではないが、そんなものがこういったところに息づいていることは面白いと思った。河上さんのご本で、和食から始まった「食の思想」がどう展開していくのか、興味をそそられる。

最後の寒さということらしい。雪が降ってきそうな曇り空のもと、点訳の例会で、練馬に出かけた。二回目なので、だいぶ分かってきた。10:00から始まり、散会したのは13:00だった。同じ方向に帰る方たちと駅前でランチを食べた。席が隣りになった方に点訳歴を伺ったらたら40年とのことだったので、またまたびっくり、私は、点訳を始めてから今年で8年目、大学でいえば博士課程を終えるに近い年月だなどと思ったりしていたのが恥ずかしい。会の運営が合理的なのが気持ちがいい。大先輩の方々の足を引っ張らないようにしなければ、と思う。

画像は、妹のメールから、千葉県安房郡鋸南町(きょなんまち)の富山水仙ロードというところに出かけたときの写真だそうだ。

中村屋

2015-01-20 16:16:54 | 日記
January 20, 2015

だれもが知っていることでも、自分が体験して始めてなるほどと思えることがある。私はあまり湯船につかるということはないが、そのかわり毎朝のシャワーは欠かさない。ここ1週間ほどふくらはぎのあたりがむくんでいて気になっていた。昨日金魚鉢を掃除したついでにろ過装置をいじっていたら、電源が装置に伝導しなくなった。狭い金魚鉢なので酸素不足になると恐いと思い、急いで駅前のペットショップまで出かけ、いつもはバスに乗ってしまう帰りの坂道も徒歩で、しかも少し急ぎ足で帰宅した。そして翌朝、驚いたことに足のむくみが解消していた。寒さもあって、家の中でパソコンに向かっていたので、血流が悪くなっていたようだ。ウォーキングの奨めはこういうことにあるのだろう。これからは買い物はまとめて買って宅配に頼み、身を軽くして、帰りも歩いて帰ろうと肝に銘じた。

今日は大寒、1年で一番寒い時期だそうだが、晴天なのは助かった。友人と久しぶりに新宿でランチをしましょうと早くから約束してあった日だ。選んだ店は「中村屋」、新宿西口を利用しているので、ここ10数年立ち寄ったことがない。新装開店したとのことだが、1階には「COACH」が入り、あの懐かしいカレーの店はどこかへ行ってしまった。3台あるエレベータは狭く、遠慮をしていると乗り遅れてしまう。東京育ちの友人もがっかりしたようだ。結局コース料理を頼み、私としては少し贅沢な新年会となった。たまにはいいでしょう。こちらも久しぶりのことだが、道を挟んで向かい側にある「紀伊国屋書店」に寄った。売れ筋のランク付けや、年齢別のお勧め本など、書店に抱いていたイメージが変わっていて、これにも驚かされた。せっかく覗いたのだからと、水上勉『土を喰う日々』(新潮文庫)を買った。ーわが精進十二ヵ月ーという副題がついている、料理本だ。水上勉の幸せだった日々がうかがえるのではないか、いくつか試したい料理に出会うのではにかという思いでいる。

画像は、『土食を喰う日々』の表紙。水上勉の絵による素敵な装丁だ。


遠距離散歩

2015-01-17 16:43:37 | 日記
January 16, 2015

昨日は、春の陽気だった。早昼を済ませて、東京の郊外に散歩に出かけた。実は新しく参加した『英和辞典』の点訳の例会が、月に1回、西武池袋線の練馬駅で降りて徒歩15分ほどの所にある区の施設で開かれる。私にとって1回目の12月は、同じ小田急線に住むキャップの方と待ち合わせて案内してもらった。さて次回の今月末であるが、今回は一人で行くことにした。道を覚えるのが苦手な上に、おしゃべりしながらだったので、考えてみると、施設の名前も記憶から消えてしまった。当日駅を降りれば思い出すだろうと高をくくっていたが、心配になってきた。そこで散歩を兼ねて下見に行くことにした。長く東京近郊に暮らしてきたが、西武線を利用したことはない。「練馬大根」という言葉があるように、以前は畑が多い農村地帯だったのだろう。

やはり下見をしておいてよかった。まず、駅のどの入口を出たのか覚えていない。南口で降りてあたりを見回しても記憶にある風景ではい。駅前の交番に立ち寄って聞いてみるが、肝心の施設の名前が分らないことには、お巡りさんもお手上げである。どなたか会の方に電話出来ないのですか、と尋ねられて、やっと、「実は自分の記憶を試してみているのです」と打ち明ける。「豊島園」が近くにあるようだという私の言葉に、大きな地図を持ってきて区の施設の建物をあたってくれた。どうも線路の反対側に降りたようだ。地図を見ているうちに何となく記憶がよみがえってきたので、まあ陽気も良いので散歩がてら行ってみますと言い、「気をつけて」という言葉を背に、頭に焼き付けた地図を頼りに歩き出した。歩くうちにあたりの様子が分ってきて、目的の施設を確認して駅に戻った。西口で降りればよかったということが分った。今回は「豊島園」というのがキーワードだった。往復の電車で、佐藤優『世界史の極意』(NHK出版)をほぼ読み終えたし、楽しい遠出だった。

今月は、10日から16日まで、17:20から、近くの映画館「アルテリア・シネマ」で『シャトーブリアンからの手紙』が上映されていた。ぜひ見たいとは思っていたが、急に温度が下がる夕方から出かけるのはためらわれ、残念だったがあきらめた。24日からは、昼間の時間に、『ニューヨークの巴里夫』が上映されるので、それを見ることにしよう。なんだか気楽な毎日を過ごしているようなブログだが、点訳は時間を決めてパソコンに向かっている。楽譜や理数関係の点訳の講習も受け、だいぶその点訳に時間を費やしてきたが、長年携わってきた英語にたどり着けてよかったと思っている。少し難しい話になるが、ボランテイア(点訳)も、他人の手足になるだけでは長続きしないのではないか。やはり自分のイニシアチブが持てる世界でないとと、私は思うのだが。

画像は、蕾が開花した「ばら」。いい写真がないので。

パソコンにかじりついて

2015-01-11 14:07:40 | 日記
January 11, 2015

1月8日(木)
図書館に本を返却し、届いていた本、村上春樹編・訳『セロニアス・モンクのいた風景』(新潮社)を借りた。題名に惹かれて頼んだ。セロニアス・モンクは、勉強を全くしなかった学生時代のほろ苦い思い出の中に存在する。モンクについては、アメリアのジャズピアニストというぐらいの知識しかないが、どういうわけか、レコードを1枚持っている。新宿にあったジャズ喫茶「木馬」(あまりにも昔のことなので、記憶は定かではないが)を友人たちと覗いていたころに買ったのかもしれない。本書はムンクに関する文章を村上春樹が取り出して編集したもののようだ。村上春樹よりはすこし時代背景が違うが、あのころの10年はゆっくりと過ぎていった。ぺージをめくってちらっと覗いた内容は、私と同時代といってよいほど共通する感覚が感じられる。読むのが楽しみだ。

この日は、図書館の帰りに、今悪評の高い「マック」でカフェラテとポテトの小を頼んで、2時間ほど、点訳の校正をした。パソコンで点字を打ち込むのは苦にならないが、他人の打ったものでも自分のものでも校正はなかなか集中できない。年齢も顧みず、こんなところで否応なく取りかかれる態勢を取っている。口に入るものだから、ちょっと気味が悪いが、たまのことだからいいでしょう。左右で学生がノートを広げていた。騒がしい子どもが少なくなった分、私には助かる。

1月9日(金)
ガトーショコラを作る。1枚80円の板チョコ2枚とココアが少しあればよい。参照している本は丸型を使っているが、私はいつものように小さめのパウンド型2本に同量の材料を分けて、同時に2本焼く。1本は自分用に焼き、もう1本はプレゼントにする。いつものマーマレードを使ったパウンドケーキよりは手間がかかるが、粉の分量が30グラムなので、ふわっと出来て、お腹にもたれない。本に書いたあった通り、今日(11日)が食べごろのようだ。おいしかった。

January 13, 2015

ブログの更新が遅れてしまったので、ここで仕切り直しをする。ここ数日の寒い日と比べると、とても過ごしやすい。春の足音はまだまだ先だが、こんな風にして月日は経っていくのだ。同じ歳の友人と口にする言葉は、年々体が弱ってくるということばかりで情けないが、事実だ。さて今年は正月から、去年暮れに滑り込んだ『英和辞典』の点訳に追われている。点訳といっても、材料が違えばやり方も違う。まして辞書ともなると、決まりごとが多くて、全体像をつかむのが大変だ。しかし、100ページほど点訳して、何んとなくつかめたので、ほっと一息だ。あとは、自分の生活に支障がない程度に、パソコンに向かうことにしよう。それにしても、私が属している「辞書パソコン点訳会」では、これまでにも何冊も分厚い辞書の点訳を手がけている。今回の辞書点訳のキャップをつとめる方は、15年かかって『古語辞典』を完成させたと言ってられた。この『英和辞典』が、私の頭がはっきりしているうちに完成にこぎつけられることを願っている。

画像は、「冬の薔薇」。ベランダでいつまでも開花しないので部屋に入れて花瓶に挿したら、少し花びらが動いた。このあたりが花の一番美しいところだと思う。

選挙

2015-01-08 10:46:55 | 日記
January 8, 2015

そろそろ返却日が近づいたので、P.D.ジェイムズ『高慢と偏見、そして殺人』(早川書房)を、昨夜、夜更かしして読み終えた。本書は、オースティン(1775~1817)の有名な作品『高慢と偏見』のその後をミステリ仕立てで描いた作品だ。全体に古いという印象は仕方がないが、若い頃の、ミステリと簡単に片づけられない文学性の高い彼女の作品と比べると、何となく物足りない。個人的には、階級性が色濃かったイギリスの社会が、「労働党」という名の政党が政治の1翼を担っている現在のイギリスに、どのような影を残していのだろうかと思いながら読んだ。そろそろ夢中になれる現代のミステリに巡り合いたい。と言いながら、新しい作家とはいえない、ジョン・カレの最新作『繊細な真実』(早川書房)を図書館に予約した。ついでにウイリアム・ケント・クルーガ―『ありふれた祈り』(ハヤカワ・ミステリ)も予約した。この2冊は、たぶん忘れた頃に手元に届くだろう。

『ビブリア古書堂の事件手帖〈6〉』(メディアワークス文庫)といったお気楽な本を読んでいるので、新聞の活字は、思考回路を刺激してくれる。昨年末に実施された選挙には、自分の1票しか政治に参加できないという考えの中にいる私は、1党独裁のような相も変わらない結果に、不満ばかりつのった。今朝、新聞を開くと、「選挙だけでは決められない」というキャプションが目に付いた。北海道大大学院准教授・吉田徹さんへのインタビュー記事である。これを読んで、胸のつかえがおさまった。選挙に対する考え方を変えなくてはいけないのだと。次に吉田さんの言葉をいくつか引用させてもらう。

 「1票を投じることの意義が問い直されるべきです。選挙で決められることと、決められないことがある。グローバリゼーションが進み、財政問題やTPPなど、一国の政治空間で決められることは少なくなってきています。選挙に意味を求めすぎると、政治不信が高まります」
 「選挙だけで決められるものは限られているのに、選挙で約束したことが出来ないで国民の不信を高めたのが民主党政権でした。逆に、選挙で勝ったら何をしてもいいとばかり、NHKや日本銀行の人事や、民主主義のシステム上触れてはいけないOS〈基本ソフト)の部分まで手を突っ込んでいるのが安倍政権です。どちらも、選挙至上主義の弊害ではないでしょうか」

 ―民主主義の歴史が長い欧州では、選挙至上主義の弊害をどう克服しようとしていますか。
 「どの国も、選挙は民主主義にとって不可欠です。でも民意を反映するのは選挙だけではない、他の先進諸国でも投票率は下がっていますが、デモやロビー活動、党員になって中から声を上げるなど選挙以外の政治参加は膨らんでいます。日本はそれがあまりに低調です。選挙政治で決められることは少なくなってきていると早く気づき、ほかの政治参加で埋め合わせることで政治はまた活性化の道を歩むでしょう」(朝日新聞、2015年1月8日)

画像は、『高慢と偏見、そして殺人』の表紙をトリミングしたもの。馬車の絵が、内容の時代を表している。

共同体

2015-01-05 16:33:15 | 日記
January 5, 2015

世の中も、2015年が始まったようだ。昨日は今年初めて家から出て、金魚のろ過装置のろ過紙を買いに行ってきた。最近、近辺に大学が出来始めているので、若い息吹があるが、学校はまだ始らない。とたんに老人が多い街に様変わりする。時々お行儀の悪い若者にまゆをひそめたくなるが、そんなことを言っていてはいけない。新しい年が始まったというのに、私を含めて、疲れ果てた老人の姿ばかりが目に付くようでは、街に出てきた甲斐がない。というわけで、昨日は用事だけを済ませて目の前に来た帰りのバスに飛び乗った。

さて、今日、私も仕事(?)はじめと、「レモン・カード」を4プリンカップ作り、昨年からほうっておいた、点訳の校正済みで戻ってきていたものを訂正する。昨年末からパソコン用のメガネを着用している。効果のほどはまだ分からない。裸眼よりは目が疲れないような気もするが、弊害もあるかもしれない。一服して、ブログを書く前に友人のブログを覗くと、すそ野まで広がる素晴らしい富士山の写真が目に入ってきた。箱根駅伝の選手たちの通り道まで、お宅から10分ほどとのこと。選手たちの走る写真も載っていた。同じ県に住んでいても、私の住まいからは富士の頭が見えるだけだ。終の棲家をいいところに選ばれたと、しみじみ思う。

私が箱根駅伝を楽しみにするようになったのは、たしか、早稲田大学の渡辺康幸監督の、現役時代のものすごい走りっぷりに魅せられてからだった。その渡辺監督も、今年で監督を退任されるそうだ。この番組では、「駅伝今昔物語」とか言って、明治以来続いているこの駅伝の過去の映像を出したりしているが、10年余の年月でも、一人の人間が選手として、その後監督としてつとめ、去っていく、本人や関係者たちにとっては感慨深い今昔物語があることだろう。実は、朝日新聞の4日の「オピニオン」欄で、人類学者の川田順三氏を取り上げていた。そのインタビュー記事の中でのひとこまが、頭に焼きついた。アフリカに住む人々ついての川田氏の言葉である。次に引用する。

 ―その生命力や自己肯定は、どこからわいてくるのでしょう。
 「共同体のつながりに対する信頼だと思います。いま生きている者は、死んだ人、これから生まれてくる人も含めた人間の大きなつながりの中の一部分にすぎない、という意識である」(朝日新聞、2015年1月4日)

私は、共同体という言葉に、少々の違和感がある。国民一丸となってといったまやかしの言葉で戦争に突入していった歴史を体験しているからだろう。また、特に群がることが嫌いで、淋しくても一人の人生を選択してきたが、加齢とともに必ず人とのかかわり合いの中で自分の生死を考えざるを得なくなってきたとき、さらに、3年前の東北大地震のような出来事が、私の意識を変えてきているのだろう。箱根駅伝と共同体のつながりは、関係がないようで、どこかでつながっているのかもしれない。川田順三氏の著作を、読書会のレポータになった時に、取り上げてみたい。

画像は、友人のメールから、「トルコキキョウ、カーネーションなど」。

カレンダー

2015-01-01 11:11:53 | 日記
January 1, 2015

2015年1月1日、まずカレンダーの表紙をめくる。カレンダーは毎年友人の会社勤めのお嬢さん経由でいただく。感謝している。大きなカレンダーと書き込み用の文字だけのカレンダーと小ぶりのカレンダー、決めてある位置にかけ、1月1日に表紙をめくる。大きなカレンダーの1月の写真は、富士山だった。やはり富士は美しい。この時は日本人であることを感じる。物忘れがひどくなっている私には、カレンダーは今や私の命のようなものだ。1日に何度も書き込みを見直して、無事に予定をクリアできたとほっとし、翌日の予定をチェックする。若い頃はすべてが頭の中に記憶できたのだと思うと、思いも複雑だが、カレンダーに導かれて衰えつつある脳を活性化するのだと思うと、元気がでる。

独りで迎える新年であるが、ささやかなおせち料理は作った。育った家庭で31日の昼に家族でご馳走を囲むという習慣は、さすがに遠のいてしまったが、友人が毎年届けてくださる「年越しそば」をいただき、新年に、雑煮と、作った料理を並べてゆっくり食する。雑煮は、今日の朝日新聞の「料理メモ」にあったものと同じものだ。すなわち、かつお節でとっただし汁に、鶏肉、小松菜、なると、餅をしょうゆ味で整え、ユズの千切りをのせる。以前広島出身の知人が、雑煮に「ぶり」や「かき」を入れると聞いて驚いたことがある。東京近郊に暮らしていても、正月は生まれ故郷の味をたしなむ、この頃こんなことに感慨を抱いたりする。

ブログを書きながら音だけを聞いている、テレビ中継の「実業団駅伝」に、箱根駅伝で活躍した選手たちが登場してきた。映像に注目しよう。

画像は、友人のメールから、「福井の水仙」。香りが漂ってくるようだ。