私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

あわただしかった月末

2014-01-31 15:22:37 | 日記
January 31, 2014

1月28日(火)
理数の研修の会の勉強会のメンバーが先生へのお礼ということで、東急本店のフランス料理店で会食があった。先生にお礼をするのはいいけれども、5千円以上もするコースとボランテイアが結びつかない。こういったことを仕切っている方たちとは考えがちがうので、また来年もやりましょうとはしゃいでいたが、私はまっぴらだ。お金のことを言いたくないが、8000円近いお金を、こんなことのために使いたくはない、とまたまたのぐちである。さてこの日は忙しかった。会食が終わって、とんぼがえりで、亡くなられた友人のご主人様とのお別れに、別の友人と訪れることになっていた。結局お花を買っていくのも私の役目になってしまう。 花屋さんで尋ねると、枕花といって、白を基調に、お年を召した方なら少し色を入れてもいいとかで、淡いピンクとブルーのスイトピーを入れてくださった。一緒にうかがった友人のお宅で夕食をごちそうになり、家に帰りついたのは9時を過ぎていた。生前お見舞いに伺った時に少し長くお話が出来たので、安らかなお顔をを拝見できたことは、良かったと思う。ものを知らない私は、ここで「枕花」という言葉を覚えた。

1月29日(水)
あわただしくしているときに、突然下の前歯が1本、それこそころりと抜け落ちた。歯医者さんの定期検診予約は4月なので、一応電話をすると、私の予定と合わなかったりして、2月26日になってしまった。日常の食事に困ることはないが、舌がぬけた歯の間に引っかかるようで気になる。舌癌になるといやだなあ。

最近、日にちや曜日を間違えることがあり、要注意。今日も2月1日と勘違いした。今回は1日いただいた感じで、いろいろと立て込んできている身辺をゆっくり振り返ることが出来た。昨日は、しばらくご無沙汰してしまった、読書会をご一緒していた友人に電話し、近況をうかがったりして、ちょうど私の家の近くの映画館「アルテリアシネマ」で上映されている「アンナ・ハ―レント」を見に行く約束をした。今日プログラムを取ってきた。ついでに本屋の寄って、いただいた図書券がまだ残っていたので、何冊か本を買った。乙川優三郎『武家用心集』(集英社文庫)、三上延『ビブリア古書店の事件手帖〈5〉』(メディアワークス文庫)、斎藤孝『古典力』(岩波新書)。乙川さんの本は、先日の会食の時にご一緒した方と、少し時間があったので下の階の本屋をぶらついている時にお会いして、乙川優三郎の『脊梁山脈』が良かったですよというと、この本を薦めてくださった。理数点訳の会で本の話が出来たのはこの方(男性)が初めてだ。少しほっとする。


印象派の画家たち

2014-01-26 23:35:57 | 日記
January 26, 2014

天気予報によると、昨日、今日、3月の陽気だということだが、とてもそんな風には感じられない。今日は珍しく1日家に引きこもっていて、郵便を取りにコンコースまで出ただけで、北風が強く寒かった。昨夜は12時時過ぎてから床に就いたのになかなか眠れなかった。NHKの深夜便を聞いていると、かえって目がさえてしまうこともある。モーツアルトの有名な楽曲を抜粋してかけていた。「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」も「ピアノ協奏曲」も、支援者を失い、晩年の貧困に苦しむ中で作られたものだという。心は荒んでいても美しい音楽を作り出せる、それは、心の奥は日常の苦しみから解放されているのか、あるいはそうだからこそ美しいものを作り出せたのか、何はともあれ、あれこれ思いめぐらしているうちに、眼はどんどんさえてきた。というわけで、今日はさすがに出かける気にはなれなかった。昨日から読んでいる原田マハ『ジヴェルニ―の食卓』を、昼ごろに読み終えた。

原田マハさんの本は、『学園のカンヴァス』が大ブレイクし、私も図書館からやっとのことで届けられたものを読んだ。多分昨年のことだと思うのだが、どういうわけか全く内容を思いだせない。そしてこの本、読み終えてなるほどと思った。この本は印象派の有名な4人の画家、マティス、ドガ、セザンヌ、モネについて、史実に基づいて作者が作り上げた物語だ。すでに世間に流布されているこの画家たちの生涯にまつわる話を、お行儀よくまとめ、フィクションに仕上げている。最初の短編「美しき墓」は、マテイスの傑作「マグノリアの花と静物」を題材にして、若い頃マテイス邸でしばらく働いていて、修道女となった老女が、マテイスとの交流の日々を語るというもの。その中で、マテイスの人格や、画家にまつわる人々がさりげなく描かれる。フィクションではあるが、マテイスそのものは本物だ。軽いといえばそれまでだが、キューレータとしてニューヨーク近代美術館で働いた経験のある著者ならではの、それぞれの画家への思いを込めた作品集だ。久しぶりに画集をめくったりして楽しく読み終えた。でも、上で触れたように、『学園のカンヴァス』同様、たぶん記憶には残らないだろう。でもこういった軽い本も楽しい。

私の英語教室の最後の生徒さんで美大に進んだお嬢さんが、グラフィックデザインを専攻していて、関連企業への就職も決まり、卒業制作も出来上がったので、明日訪ねて来るという。私はランチを用意して待つことにした。メインは「鮭ちらしずし」にする予定だが、先日新聞に載っていた「たらのグラタン」も作ろう。そうそう彼女はネギが嫌いだった。玉ねぎを使うつもりだたので、気がついてよかった。そこそこの下ごしらえをして、明日は朝から部屋の片づけもしなければならないし、忙しいぞ。

ここまで書いたところで電話が入り、 近くで親しくしている友人のご主人様が亡くなられたという知らせが入った。ご病気だったので、あまり苦しまずに旅立たれたことは良かったと思いたい。家族葬ということで、明日別の友人とお別れだけしてくるつもりだ。だんだん淋しくなります。

画像は、アンリ・マテイス「Jazz」(ブリジストン美術館所蔵)より。

『脊梁山脈』

2014-01-22 14:01:02 | 日記
January 22, 2014

歳をとると、疲れがすぐに来ない。昨年暮れから今年1月にかけて続いていた点訳で夜更かしをしたりした疲れが、今日どっと出てきたようだ。 しかし今の解放感は何ともいえず心地よい。 朝から乙川優三郎『脊梁山脈』(新潮社)を読み、読了した。乙川の作品はたくさんは読んでいないが、 この作品は、乙川の世界を存分に表しているのではないか。 私がこの作家の作品を目にしたのは、 朝日新聞に連載された『麗しき花実』からだ。 時代小説はあり好きではない、この新聞小説を読むまでは、乙川優三郎の名前すら知らなかった。『麗しき花実』は、江戸末期に、ひっそりと、しかし強い意志を持って蒔絵師の道を求めた市井の1女性の姿を描いたものだった。随所に示されるこの作家の思想に深く共感し、その頃ブログに何度も取り上げさせてもらった。この作品には、木地師や画家が出てくる。たぶん作者は芸術の分野に造詣が深いのだろう。

『脊梁山脈』は、主人公・矢田部信幸が、第2次世界大戦の敗戦後、復員して故郷に帰る列車の中で知り合った木地師・小椋康造と、15年ぶりに工芸展の会場で再開するまでの間の日々を描いたものだ。復員後の生活が落ち着いたとき、列車の中で親切にしてくれた木地師を探すうちに、木工の世界に魅せられ、さらには古代史へと研究の足を伸ばしていく主人公・信幸、私が生きた時代とも重なり、引き込まれた。「小説新潮」に2012年1月から隔月に連載されたものだというが、読者はさぞ次の号を待ち遠しく思ったことだろう。初めて書いた現代小説とのことだが、現代の女流作家の小説にいまひとつなじめない私には、肌にピタッと張り付くような共感を覚えた。15年という年月は、今の私には一瞬のように思える日々だが、20代から30台にかけて主人公が歩んだ15年は、その後の生涯を予感させるような年月だ。生きていることだけでも苦悩をひきづる時代に、登場する男性も女性も、心の隅に何か重いものを抱えながら暮らしていく様子が、ゆくりとした筆遣いで克明に描かれている。次に、作品の最後の方の文章を少し引用させていただく。

 「小椋さんの終戦はまだですか」
 「ええ、残念ながら」
 彼は眼を伏せて黙った。おそらく一生をかけて考え、ささやかな答えを得て終わるのか、日本人のひとりとしてあの世へ持ち去るのだろう。自ら作り得なかった民主国家を謳い、 発展に酔い、戦争を忘れていくのは国で、その実体は権力欲と利己心に冒された野心家の群れであろう。時代を演出し、国策を操る彼らこそ俗物ではないかと思う。康造のような人は大勢いて、彼らは戦地の惨劇を自身の過ちとして悩み続ける。その重さを思うと、たまらない気がした。(乙川優三郎『脊梁山脈』新潮社)

画像は、よく写真を使わせてもらっている妹が、あまり毛糸で、あまり時間に1年近くかけて作ったというタピストリー。ひとつが15センチ四方ぐらいだというから、かなり大きなもののようだ。残念ながら私には縁がなかったが、器用だった母の血をひいたのだと思う。母もそうだったが、オリジナルを求めた精神がいいと思う。身内の褒めすぎ。



 

アクシデント

2014-01-20 17:16:06 | 日記
January 20, 2014

暮れから預かっていた点訳の図にてこずってしまい、校正の方に20日着の締め切りが間に合わず、半分だけ送り、あとの半分は1日遅れで送らせてもらった。 私が校正することになっているデータも、少し遅れますという連絡が入った。今回のように、中学2年の数学の問題集だから内容は簡単だが、問題と解答を合わせたり、表や図が多かったりして、なかなか骨が折れる。少し甘く見ていたのかもしれない。その上にちょっとしたアクシデントがあった。100枚以上になる場合は、2巻に分割するとかで、結局私の担当の所も100枚を優に超えてしまい、すでに打ってしまってあるデータを二つに分けようと操作しているときに、保存が出来ずに点訳したデータが消えてしまった。

パソコンからデータが何かのはずみで消えるということはよく聞く。私もいつも必ず保存することにしていたのだが、次々と点訳が続いているうちに、ふっと保存するのを忘れてしまっていた。これは、間違いなく年齢のせいだ。つまり気が回らなくなっているのだ。以前はブログもうっかり消してしまって、すっかり気落ちしてしまったことがよくあり、保存には気を付けていた。最近は自動バックアップ機能が備わってきたので、ブログに関しては安心している。そういったことから来る気の緩みもあったのかもしれない。ただでさえ締め切りぎりぎりの状態の所にせっかく打った点訳データが消えてしまったのだからいささかあわてた。しかし違うソフトを使っている図が多かったこともあって、夜を徹して点訳し直すことができた。幸い刷り出してあったので、校正も兼ねてまあそんなに大変ではなくやり終えた。保存、保存と頭にインプットした。

先週は出かけることが続いた。まず属している点訳の会の例会が15日と、17日にあり、16日にはたまプラーザでいつも簡単なランチをしながら近況を話し合う友人と会う予定があった。こういう火急の時でも涼しい顔でそれぞれの予定をこなすことを、まあ信条としている。友人との忌憚のないおしゃべりは、私の大切にしているひとときだ。というわけで、少し遅れてしまったが、点訳データも校正者のもとに届いたようなので、一安心、しばらく新しい点訳はお休みしたい。

久しぶりに料理をした。忙しくても何か一品は手作りをすることにしているが、簡単なものしかできない。 今日は、妹から教えてもらった「根菜のラタトゥユ」を作った。昨年暮れに作ってとてもおいしかったので、再度試みた。テレビでも放映されているようなので目新しいものではないかもしれないが、何しろおいしい。以前いただいたスペイン製のバージンオリーブオイルをふんだんに使って根菜を炒めた後塩コショウをする。妹はトマトを使うといっていたが、私はトマトソースを使ってみた。トマトで全体をあえて、ふたをして20分煮て出来上がり。カレーと違ってこの味がメインなので、安いトマトの水煮缶ではなく、少し上等なトマトソースを使ったほうがいいと思う。

画像は、妹のメールから、「黄実の千両」。普通のものは実が赤い。

花を買い来て…

2014-01-14 14:46:23 | 日記
January 14, 2014

以前絵画教室に通っていたとき、石川啄木のうた「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ」が頭をよぎることが多く、ブログにも取り上げさせてもらった記憶がある。しかし、趣味の世界から遠ざかってしまった今、こういった気持になることがない。今日は、予報が寒い、寒いといっていた割には温かかった。昼ごろ返却日が1日遅れてしまった本を抱えて図書館に出かけ、やっと手元に届いた、原田マハ『ジヴェルニ―の食卓」(集英社)を受け取ってきた。乙川優三郎の大佛次郎賞受賞作『脊梁山脈』も、アマゾンに去年注文したものが昨日やっと届いた。さらに友人から教えてもらた『点訳の手引き』の『Q&A」1と2も届いている。すぐにお金を払わなくていいのでアマゾン注文になることが多いが、あとがこわい。

図書館からペットショップにたちより、金魚の鉢の下に敷く小石とろ過紙を買った。石がいやに重い。何も今日買わなくてもと思いつつ、さらに少し食料品を買うために、「OX」により、ついでに咲いている花はもう枯れかかっていたが蕾がたくさんあったので、黄色のフリージャを買った。正月に玄関に飾った南天がまだ元気なので、それに添えるつもりだ。レジの女性が、「お花がいいにおい」といってくれて、心がなごむ。ここでふっと、先の啄木のうたが浮かんだ。安売りになっている小さな花束でも、買い物袋から花が顔を出している荷物を持って帰る、この安らぎの一瞬を大切にしたい。

明日は午後から理数点訳の会の例会がある。雪が降るという予報もあるが、どうだろうか。今メディアは、都知事選でもちきりだ。現政権の一党支配にうんざりというか、頭を痛めていたが、これが何かの突破口になってくれればいい。世に中はそんなに偏ったほうにばかりは進まないほど、我が国の民主主義も、少しは成長してきているのかもしてない。まずは脱原発に拍手を送りたい。

画像は、「南天とフリージャ」。

上手な文とは?

2014-01-10 14:05:59 | 日記
January 10, 2014

昨日は今年最初の東京行き、理数点訳の会の勉強会で、 代々木八幡経由で渋谷近くの事務所まで出かけた。日本列島に寒波が襲ってきたととかで、底冷えのする一日だった。帰りが遅くなってしまい、 ブログを書く元気がなく、1日遅れのブログになってしまった。 今回の点訳は図が50枚以上あるので、さすがに目が疲れる。しかし習うよりは慣れろ、よく言ったものである。色々な資料に挑戦したおかげで、点訳の世界が少しは身近なものに感じられるようになってきた。それでは愚痴も言わず黙々と点訳にいそしむかといえば、そんなことはないだろう。どんなことにも人間が介入すればことが面倒になりかねない。そのころ合いが分り始めただけ点訳に近づいたということのようだ。

新年になってから、図書館に予約してあったハードカバーの本が整ったという連絡が次々にあるが、いっぺんに来られても困るなと思いつつ、未だ取りに行っていない。新書や文庫ですぐにでも読みたいものがはたくさんある。できるだけ電車の中で読むことにしたいので、年末から正月と、東京に出かける用事がない分、なかなかはけていかない。やっと鶴見俊輔『文章心得帖』を読み終わった。著者が『文章教室』で話した時の記録をまとめたものである。薄い文庫本で、また、昭和60年が初版の、古い古い本だ。今回私が読んでいるのとは別の出版社から文庫本として新たに発刊された機会に新聞に紹介されていたのを読んで、図書館に予約したものだ。しかし文章読本にはあまり新しい古いはないような気もする。まして読んでいる私自身が古い時代の人間である。教室に出席された方たちの添削されている文章にはあまり興味がないが、間に挟まれる鶴見氏の文章が、なかなか含蓄のあるものだった。沢山の文章や本を書いてきた著者であっても、なかなかご自分で満足だと思われるものは少ないという。そのなかで、「自分でもこんな文章が書けたかと思って、とてもうれしかった。」と書かれてられるものを次に引用させていただく。横山隆一の『百馬鹿』の「帯」の文章だ。

   自分はいかなる馬鹿であるか、   
   自分はいかなる馬鹿になるか、
   いかなる馬鹿として自分を見るかが、
   多様な人生の分かれめとなる。    (鶴見俊輔『文章心得帖』潮文庫

『本に読まれて』

2014-01-06 15:10:04 | 日記
January 6, 2014

タイトルに、須賀敦子さんの本『本に読まれて』(中公文庫)をお借りした。 書評だけを集めたこの本については、今まで何度もこのブログに登場させていただいた。ひと頃あんなにブームになった須賀旋風も、「須賀さんて?」と問われるほど人々から忘れられた存在になっている。私は、須賀さんの本をたくさん読んでいるわけではないが、この文庫だけはいつも座右において、この中から本探しをしたりする。今年も多分この中から何冊か読むだろう。今日ブログのタイトルに使わせていただいたのは、外の世界と関わるようになって感じるつかみどころのない虚無感のようなものの一番の慰みは、やはり本だとしみじみ思うからだ。誰にも邪魔されずにはいりこめる部屋があることを、幸せに思う。

昨日やっと重い腰をあげて駅前の本屋まで足を運んだ。昨年暮れに図書券をいただいたので、図書館の本ではない、たまには店先に並ぶ発刊したばかりの本を手に取ってみたいと思ったからだ。村松真理子『謎と暗号で読み解くダンテ『神曲』』(角川書店)と、河合敦『後白河法皇』(幻冬舎新書)を買った。 前書は、今はやりの、ダン・ブラウン『インフェルノ』を読み解くための必読書と帯にあった。『インフェルノ』を読むつもりはないが、少しページをめくっただけで、面白いと確信した。『神曲』について分りやすく紹介してある。もう一冊は、私の乏しい日本史の知識の中で、唯一興味がある時代、貴族社会から武士の社会へと変わる転機となった時代の象徴的存在である後白河法皇についての本、私は絶対に見ないが、テレビで話題になっているのではない史実を少し学んでみたい。

今年になって読んだ本、大蔵暢『「老年症候群」の診察室』(朝日新聞出版〉について、少し触れてみよう。幸いなことに私はこれまでの人生で大病になったことが1度もなく、さらには医者にかかるということもほとんどなく過ごしてきた。そのため医療に対して少し生意気な見方をしてきた。しかしこれからはそんなことは言っていられない日が確実に訪れる。この本の副題である「超高齢社会を生きる」の主人公に近付きつつある今、少し謙虚な気持ちになって、最近の医療事情などを知りたくて読んでみた。本書の著者は、高齢者医療の必要性を感じて高齢者に寄り添う医療を心がけている立派なお医者さんだ。しかし現実の社会はこういった理想通りにはいかない。実際、この本でも、「未曾有の超高齢化社会をひた走る日本は、世界の模範となるような新しい社会システムを作り上げることができるでしょうか」と結んでいる。私には高齢者医療をもっと別の観点から論じている本の方が必要のようだ。

画像は、妹のメールから、ハーブの一種らしい。道を歩いていると垣根の外に垂れて咲いている花をよく見かける。私もその一枝を取ってきてベランダで栽培していたが、あまりにも大きくなりすぎて、処分してしまった。可憐なピンクの花が美しい。

2014年

2014-01-03 09:14:05 | 日記
January 3, 2014

2014年、正月3が日、暮れに作り置きしてある食べ物を温めるだけにしてあるので、まだ残っている点訳をしながら、のんびりテレビでスポーツ観戦をして過ごしている。1日には実業団駅伝、2日、3日は箱根駅伝、サッカーの天皇杯準決勝、ラクビーの準決勝と、どれも見ごたえがあった。スポーツ以外は、辻井伸行のピアノ演奏の番組を見た。このピアニストの映像は、再放送でも必ず見ている。「奇跡のピアニスト」というキャプションがついていたが、もちろんこの人には盲目のピアニストという呼び名はいらない。ただ共演した指揮者・アシュケナージ氏が、良い指導者を得ることが重要だと何度も強調していたのが印象に残った。

年が代わっても暦上のことと思いながら、やはり新しい年を迎えているというという気持はある。今日の朝日新聞の「ひと」のコーナーで紹介されている水泳の世界記録を11個持つという女性は99歳、こんな記事も私には力になる。今年も点訳中心の生活になりそうだが、それはそれとして、健康第1、精神的にゆとりのある日々を送るように努めたい。図書館から借りてある、大蔵暢『「老年症候群」の診察室』(朝日新聞出版)という本に目を通してみよう。

画像は、玄関に飾った、友人が届けてくださった花、お庭のサザンカが新鮮だ。