私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

初夏の入り口

2016-04-26 14:51:06 | 日記

April 26, 2016

「春に3日の晴れなし」というが、確かになかなか晴天が続かない。しかも晴れの日となると、、気温が上がって夏日になる。着るものに苦労する季節である。明日から雨で気温も下がるというので、図書館に届いている本を取りに行った。本は、イーユン・リー『独りでいるより優しくて』(河出書房新社)。朝日新聞で紹介されていた本だと記憶する。長編小説は久しぶりなのでゆっくり読もう。

この時期、新緑の中でオオムラサキツツジの色が鮮やかだ。他にもいろいろな花が満開だ。家に帰り、このパソコンを打ちながら外を見ると、この住宅に移ってきた10数年前にはまだ細いヒョロヒョロの木で、道路からの目隠しにならなかった生垣の「カナメモチ(アカメモチ)」が立派に育ち、ちょうど赤芽のところが花が咲いたように美しい。ゴールの見えない『英和辞典』の点訳はほどほどにして、再び訪れることがない今日という日を味わおう。

2次元の世界だと、カナメモチの向こうに壁があるように見えるが、これは向かいにあるマンションの壁で、間に車が通る道がある。最初は車の音がうるさいかなと思ったが、車はあまり通らず、犬を連れた人や老人の散歩コースになっていて、私はこの環境が気に入っている。

表題の下の画像は、「オオムラサキツツジ」。駅前に行く途中にある公園で、携帯で撮った。


『世阿弥の世界』

2016-04-23 17:00:38 | 日記

April 23, 2016

増田正造『世阿弥の世界』(集英社新書)を読んだ。能の舞台を一度も見たことがなく、まったく知らない世界だ。無知を恥じると同時に、新鮮な気持ちで本書を読むことができた。新書ということもあり軽い気持ちで手に取ったが、大変な学術書であり、難解だった。しかし「能」の世界にはじめて足を踏み入れた者にとっては、多角的な立場から能=世阿弥の世界をひも解く本に触れることができたことを幸運だとも思う。私はこの書を読んで、昭和の時代に書かれた多くの能を題材とした文学作品をほとんど読んでいなかったことに、我ながら驚いてもいる。現代語訳付きの世阿弥『風姿花伝』をはじめ、杉本苑子『華の碑文―世阿弥元清』(中央公論社)、三島由紀夫『英霊の聲』(河出文庫)、立原正秋『きぬた』、遠藤周作『わが恋う人は』、瀬戸内寂聴『秘花』など、本書に登場するいくつかの本について、図書館に一冊ずつ予約して読んでみよう。

とにかく片手間に読み、理解できるような本ではないので、自分の本として購入することにした。ゆっくり読みたい。本書の著者・増田正造氏が、『風姿花伝』の中のよく知られている一節、「秘スレバ花ナリ。秘セズハ花ナルベカラズ。」について、立原正秋がそのエッセイ集『秘すれば花』(新潮社)の中で書いた言葉を引用している。印象深かったので、私もそれを引用させてもらうことにする。                                                     

「世阿弥は『美』以外のものは容赦なく切りすてた点である。つまり『花』以外のものはすべて捨て去った。世阿弥は決して思想を語ろうとしなかった。彼が語ろうとしたのは『花』であった。そして生涯をかけて『花』を語り終わったとき、花そのものがひとつの不抜な思想となりえたのである。」(『世阿弥の世界』)

引用文の引用で恐縮だが、能についてあまりにも知らなかったために、これから増田氏の本書を入門の書として少し勉強してみるつもりでいる。それゆえ、本書はまだ難解なので、私の理解できる範囲の中でこの言葉を使わせていただいた。 

さらにもうひとつ、「イズレノ花カ散ラデ残ルベキ。散ルユエニヨリテ、咲ク頃アレバ珍シキナリ」(『風姿花伝』)についての増田氏の言葉を引用させてもらおう。

 去年の桜と今年の桜と違うはずはない。しかし毎年新鮮なのはなぜか。花が変わるのではない。それを待つ人の心が新しくなっているのである。散るからこそ、花は毎年珍しく咲きうるのだ。
 桜を人々は賞翫する。しかしもう夏の花が見たいと思い始めているときに、桜を持ち出しても効果がない。あらゆる花の種を持っていて、観客の望むときに咲かせてみせねばならないと世阿弥は説く。
 「年々去年の花」。初心の時代から老後まで、演者自体の花も変化する。しかし現時点だけの花を確保するのではない。かつて演じた芸風も、将来やるであろうはずの芸風もすべて身につけよと世阿弥は指示する。(『世阿弥の世界』)

本書を通して世阿弥の世界を覗かせてもらったが、その芸術論は、何にも勝る新しさを持つものだということが分る。また、世阿弥の作品は人生の書でもあるようだ。NHKのテレビで放映される能の舞台を、次回は必ず見てみよう。

画像は、妹のメールから、「ユキヤナギ」。

                                                                          

 


2016-04-19 09:32:32 | 日記

April 19, 2016

店頭に「ふき」を目にすると、すぐに購入したくなる。レシピを考えずに求めてきたが、生協から厚揚げが届いていたので、薄味で煮た。ふきを熱湯 に入れたときにさっと変わるあのグリーンの色が素晴らしい。翡翠色とでも呼ぶのか、いずれにしても自然には勝てない。そんな自然もまた恐ろしい地震をもたらす。この歳まで自然から受ける被害には遇わなかったかったが、毎日報道される地震のニュースを見ていると、世の中が厭世的になることがこわいとも思う。

午後から美容院でカットをし、近くのスーパーで、白と赤のベコニアの鉢を買った。熊本の痛ましいニュースのある中で、こんな日常が暮らせる日々に感謝しよう。帰宅して郵便受けを覗くと、盲人用の無料の郵便物郵送に使う郵袋を使って、お願いしてあった校正が2人の方から戻ってきていた。また忙しくなる。今日は、友人がメールにお花の写真をたくさん添付してくださったので、これを載せさせていただこう。上から順に、エビネ蘭、乙女椿、はな桃、しゃが。旬の花々だ。


古い本

2016-04-15 08:34:26 | 日記

April 15, 2016

本を整理していたら、古い本が出てきた。西郷信綱、永積安明、広末保『日本文学の古典』(岩波新書)だ。奥付を見ると、1976年第15刷、280円とあるので、40年ぐらい前のものだ。今年こそは古典を読みたいと思っていた私の心を読まれたのか、早速目を通した。古典の案内書はたくさんある。わざわざこんな古い本をと思うだろうが、私の頭の片隅に、いつか古典を読みたいと思う気持があったのは、多分若い頃にこの書を読んだからではないか。また今再読してみて、特に古めかしいとも感じない。あとがきにある言葉は、むしろ今のことばだと思った。何から読みはじめるのはさておいて、このあとがき「古典をどう読むか」の一部を次に紹介させてもらおう。
 
 リンゴの味の何であるかを知るには、リンゴを食うのが先決で、食うということをせずに、リンゴの味について語るのは観念の遊びである。古典も同じで、まずそれをみずから読むという実行が基本にならねばならない。これはわかりきったことだが、このわかりきったことが存外一ばん大切なのではないかと思う。とりわけ近ごろは、参考文献と称するものがやたらとふえ、むしろその選択に戸惑いし、それを追っかけているうちに日が暮れ、初心はどこかに蒸発してしまうといった事態さえ珍しくないかに見うけられる。実行よりは観念が、経験より知識が重んじられすぎるからである。(『日本文学の古典』岩波新書)
 
ここまで書いて、図書館に予約してあった本が届いたという連絡メールが入ったので、買い物を兼ねて出かけた。本は、増田正造『世阿弥の世界』(集英社新書)、古典のことを話題にしていて何か偶然だ。『日本文学の古典』では、12の項目の中で、7番目に「能と狂言」として、世阿弥が取り上げられている。そう、世阿弥の『風姿花伝』から古典を覗いてみるのも面白いかもしれない。まずは、借りてきた本を読んでみよう。たしか朝日新聞の「読書」欄で紹介されていた本だった。今日は気温は高いが北風が強い。昨日夜熊本で起こった地震のニュースを遅くまでラジオで聞いていたので少し眠い。帰宅してテレビをつけると、まだ地震のニュースが続いていた。地震はいつどこで起こるか分らない。しかし、素人判断だが、東海地方に直下型地震が起こるとしきりに言われているのに比して、九州という声は聞いていなかった。 地震の予知は無理なのか、それならば地震予知連絡会という組織も見直すべきではないか、などとまたまた不謹慎な思いが頭をよぎった。
 
画像は、妹のメールから、「黄色カタクリの花」。

失せもの

2016-04-13 21:56:12 | 日記

April 13, 2016

探し物をしていて時間をつぶしたといった話を同年代の友人から聞く。私もご多分にもれず、探し物で費やす時間が多い。しかし、今回の失せものにはまいった。点訳に必要なソフトがパソコンから消えた。何かをいじっていてのことだろうが、初めて経験した。午前中かかって探したが見当たらない。友人にソフトを送っていただきことは解決したが、探している間のストレスが大きかった。送っていただいたソフトからインストールしてアイコンがデスクトップに出てきたときは、ほっとしただけでなく感動さえした。さらにもうひとつ大事なものが見当たらない。個人的な金銭の授受に関する用紙なのだが、個人が特定できるものなので、どうしてもみつけ出したかったが。昨日から1日がかりで探しているが見当たらない。
 
ソフトを送ってくださった友人に話すと、そういうときは探すのをやめて少し冷却時間をおく方がいい、あらこんなところにあったのと、思いがけないところからみつかると、助言をいただいた。というわけで、失せものを忘れるために、昨年かなり話題になったミステリー、ピエール・ルメートル『その女アレックス』(文春文庫)を読みはじめた。途中まで読んであったのだが、話の展開が速くなり、夕食を忘れて読み終えた。面白かった。これは珍しくフランスのミステリだ。以前ミステリを夢中で読んでいたときはイギリスのものが多かったこと、また年代的にも新しくなっているのかもわからないが、物足りなさもある。話が単純すぎるというのだろうか。でも最後まで読み手を引きつけていくところは、ミステリとしては成功している。こういった心境のときにはミステリを読むに限ると思った。失せものはどうでもよくなった。
 
画像は、妹のメールから、松本城の夜景。

 


室内から外へ

2016-04-08 10:32:18 | 日記

April 8, 2016

今年は、花冷えという言葉をずいぶん耳にした。暖かい季節が来てほっとしたと思っていると翌日は冬の寒さに戻ったり、の繰り返しだった。やっと本格的な春の訪れのようだ。パソコンにばかり向きあっていないで外に出なさいということだろう。今日は生協の宅配日なので、それを待って、2時過ぎにウォーキングスタイルで出かけた。最近足が重く、まともなウォーキングができなかった。今日はなぜか体が軽い。ちょっとした身体の調子が気になるのは、若いときにはなかったことだ。花屋を覗いたり、映画館に立ち寄ったりといったぶらぶら歩きだが、それでもいつもの駅前に戻ると、4500歩あまり歩いている。少し足首が痛くなったのでバスで帰った。誰とお話しするわけではなくても、外に出ればいろいろなことを目にする。私が乗るバスの前に来たバスに車いすの女性が乗られるられるようで、運転手さんが入口に板を置いてお乗せした。ところが、その板をしまおうとしたらなかなかおさまらないらしく、入り口の扉が閉まらない。たまに子供が入り口近くに立ちすぎて扉の開け閉めができないことを目にすることがある。まあ運転手さんがまだ慣れていないせいかもしれない。そのうちに私の乗るバスが来て、そのバスの運転手さんが手助けしてことは解決した。ほんの5分ほどのことだったが、外国のバスなどは、車いすの乗降をどのようにしているのかと、ふと思ったりした。

友人がブログで紹介されていた本、フィオナ・マクファーレン『夜が来ると』(早川書房)がやっと図書館から届いた。大きな虎がたんすの上に横たわっている表紙の装丁が面白い。しかし、この虎は、75歳の主人公の心が壊れていく予感を象徴するものであり、実は怖い存在である。表紙裏の解説に、「愛や絆、記憶、他人の心の不確かさを新人離れした筆力で描きあげ、世界から絶賛された長編小説。」とある。主人公が75歳ということで、私の年齢とも重ね合わせて、何かしみじみと日常生活を振り返ってしまったが、ここで語られているのは老人の問題だけではないだろう。たまたまこの本と同時に図書館に届いた岸見一郎『生きづらさからの脱却』(筑摩書房)で取り上げられている人間心理の問題にいきつくのではないか。小説ではあるが、解説にあるとおり、なかなか深い問題を提起している本だった。
 
画像は、住まいの近くの幼稚園の庭にある桜。以前にもブログに使わせてもらった「私の桜」だ。

東京ステーションギャラリー

2016-04-02 08:57:49 | 日記

April 2, 2016

4月1日(金) 眼科へ
3ヵ月に1度の眼の定期検診、特に変わったところはないので次回からは4ヵ月に1度ということになった。助かった。検診で必ず行う瞳孔を開く検査の際の目薬が1日中作用していて、眼科に出かけた日は終日本も読めない。眼の調子もよくない。何か副作用がないといいのだが。病院の送迎バスの中から見える桜並木が美しい。テレビでは花見観光客でにぎわう上野の様子が映し出されている。妹からは、夫婦で隅田公園から上野を回って花見をして撮った写真が、メールに添付さてきた。若いなと思う。それにしても春の訪れはうれしい。また、4月は少し心が華やぐ。午後から、念願だった食器棚を移動しての模様替えを一気にやった。3個の背の高い棚を移動させるのは大変だが、知恵を絞って、まず中の食器を全部出し、3個の食器棚の位置を、碁盤上の駒を動かす要領で入れ替えた。たったこれだけのことでも、いらない食器を整理できたり、長年気になっていた家の中の風景を変えることができた。

4月2日(木)
今日は昨日の晴天とは変わり、厚い雲が空を覆っている。雨は降りそうもないので、ウォーキングを兼ねて花見をしてこようと思っていた。桜だけでなく、モクレンや花もも、さらに道すがら垣間見れる家々の庭の花など、今の季節ならではの花が満開だ。まず、友人のブログを覗くと、季節の花をたくさん見ることができた。どの写真も美しい。私よりは一回り近くお若いので、ご自分のお母様の老齢によるご病気や介護のことなどを抱えてられる。そんななかで、城山カタクリの里(上記の写真)を訪れたり、映画や本をブログで紹介されたりと時間を上手に使ってられる。いつも感心するのは、私はもともと独り暮らしなので、何をやるにも一人の行動だが、彼女は、ご家庭を築かれながら、海外旅行も、こういったお花見もひとりで行動される。女性は割合連れ立って行動する人が多い中で、精神的に独立されている姿に感心する。

そんな友人のブログに刺激されたこともあって、行きたいなと思いながらぐずぐずしていた、東京ステーションギャラリーで開かれているモランディ展 を見てきた。白と黒、、さらに抑えた色で描かれる瓶や四角い箱、水差しなど、ほとんどが still life (静物)という作品名がつけられていて、観る者の心に静かに語りかける。若い頃に日本での展覧会で見て印象に残っていた。17年ぶりの本格的な個展だという。解説にある言葉を次に引用させてもらう。「今回はボローニャのモランデイ美術館の全面的な学術協力のもと、イタリア各地および国内からほとんどの油彩画約50点、水彩、素描、版画約50点が彩る贅沢な空間が実現します。うっとりするほどの気品と絵画のセンスを間近に堪能できる。・・・」とある。午後からだったが、思い切って出かけてよかった。ここまで書いたところで、この土地に住みはじめてからずいぶん深くお付き合いしてきた友人のご主人が亡くなられたという電話が入り、あわただしくお別れをしてきた。長い長い1日だった。

画像は、一枚だけ買った絵葉書をデジカメで撮った。もちろん題名は「静物」。