April 23, 2016
増田正造『世阿弥の世界』(集英社新書)を読んだ。能の舞台を一度も見たことがなく、まったく知らない世界だ。無知を恥じると同時に、新鮮な気持ちで本書を読むことができた。新書ということもあり軽い気持ちで手に取ったが、大変な学術書であり、難解だった。しかし「能」の世界にはじめて足を踏み入れた者にとっては、多角的な立場から能=世阿弥の世界をひも解く本に触れることができたことを幸運だとも思う。私はこの書を読んで、昭和の時代に書かれた多くの能を題材とした文学作品をほとんど読んでいなかったことに、我ながら驚いてもいる。現代語訳付きの世阿弥『風姿花伝』をはじめ、杉本苑子『華の碑文―世阿弥元清』(中央公論社)、三島由紀夫『英霊の聲』(河出文庫)、立原正秋『きぬた』、遠藤周作『わが恋う人は』、瀬戸内寂聴『秘花』など、本書に登場するいくつかの本について、図書館に一冊ずつ予約して読んでみよう。
とにかく片手間に読み、理解できるような本ではないので、自分の本として購入することにした。ゆっくり読みたい。本書の著者・増田正造氏が、『風姿花伝』の中のよく知られている一節、「秘スレバ花ナリ。秘セズハ花ナルベカラズ。」について、立原正秋がそのエッセイ集『秘すれば花』(新潮社)の中で書いた言葉を引用している。印象深かったので、私もそれを引用させてもらうことにする。
「世阿弥は『美』以外のものは容赦なく切りすてた点である。つまり『花』以外のものはすべて捨て去った。世阿弥は決して思想を語ろうとしなかった。彼が語ろうとしたのは『花』であった。そして生涯をかけて『花』を語り終わったとき、花そのものがひとつの不抜な思想となりえたのである。」(『世阿弥の世界』)
引用文の引用で恐縮だが、能についてあまりにも知らなかったために、これから増田氏の本書を入門の書として少し勉強してみるつもりでいる。それゆえ、本書はまだ難解なので、私の理解できる範囲の中でこの言葉を使わせていただいた。
さらにもうひとつ、「イズレノ花カ散ラデ残ルベキ。散ルユエニヨリテ、咲ク頃アレバ珍シキナリ」(『風姿花伝』)についての増田氏の言葉を引用させてもらおう。
去年の桜と今年の桜と違うはずはない。しかし毎年新鮮なのはなぜか。花が変わるのではない。それを待つ人の心が新しくなっているのである。散るからこそ、花は毎年珍しく咲きうるのだ。
桜を人々は賞翫する。しかしもう夏の花が見たいと思い始めているときに、桜を持ち出しても効果がない。あらゆる花の種を持っていて、観客の望むときに咲かせてみせねばならないと世阿弥は説く。
「年々去年の花」。初心の時代から老後まで、演者自体の花も変化する。しかし現時点だけの花を確保するのではない。かつて演じた芸風も、将来やるであろうはずの芸風もすべて身につけよと世阿弥は指示する。(『世阿弥の世界』)
本書を通して世阿弥の世界を覗かせてもらったが、その芸術論は、何にも勝る新しさを持つものだということが分る。また、世阿弥の作品は人生の書でもあるようだ。NHKのテレビで放映される能の舞台を、次回は必ず見てみよう。
画像は、妹のメールから、「ユキヤナギ」。