私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

「折々の・・・」

2016-01-29 08:58:39 | 日記

January 29, 2016

朝日新聞朝刊に連載されている「折々のことば」、何か心を打つ言葉に出会いたいという読み手(私)の勝手な気持から、少し物足りなかった。もうずいぶん前のことになるが、同じように朝刊に連載されていた、大岡信さんの『折々のうた』は、毎日新聞を開くのが楽しみだったし、その後何冊かに分けて新書版になったものも買い求め、今でも目を通したりしている。そんなことからも、『折々のことば』に対する期待感があったのだろう。もちろん、毎日必ず目を通している。面白いもので、日を重ねている間に、筆者・鷲田清一さんの言葉を選ぶ方向性のようなものに慣れてきて、最近は、新聞を開いてまず飛び込んでくる「ことば」を楽しみに待つようになった。

さて今日は、新聞の「文化・文芸」欄に、「論壇時評」を書いてられる高橋源一郎氏と鷲田清一氏が都内で対談されたものの一部が掲載されていた。その中で、鷲田さんは、「納得し、理解できる言葉ばかりでなく、理解できないところへ連れてってくれる言葉が大事だと思います。」と語っている。高橋氏は、この言葉に答えて、中2の冬に友人が朗読した吉本隆明の詩集をあげて、理解できなくても感じることはできたと話している。長く愛読している吉本隆明の詩集や、数年前に私がレポーターで読書会で取り上げた保坂和志『小説の自由』が頭に浮かんだ。自分ではなかなか理解できないのに読み続けたり選んでしまう本、これからも活字を読んでいく上で、鷲田氏の言葉はずいぶん励みになると思った。

画像は、妹のメールから、「シンビジューム・モンロウ」。毎年送ってもらい載せているが、年ごとに花数が増えていて見事だ。短いブログを豪華なランで補ってもらった。


ボッティチェリ展へ

2016-01-22 08:22:10 | 日記

January 26, 2016

1月21日(木)
1ヵ月に1度の点訳の例会のために、練馬まで出かける。数日前に降ってまだ堆積したまま残っている 雪から溶けた水が凍っていて、足元が危なっかしい。例会では、それぞれが抱えている問題点を出し合って検討する。日常生活の中にない雰囲気が楽しいが、考えてみると点訳は孤独な作業だ。疑問点にぶつかり手元にある資料を調べているとすぐに2,3時間が過ぎていく。それでも分らない時は適当に処理して先へ進み、今日のような勉強会の時に解決する。点訳にかかわる作業の何かが好きでなければ出来ないことかもしれない。

1月26日(火)
東京都美術館で開催されている「ボッティチェリ展」を、友人と観てきた。最近本物の絵を見る機会が少なくなった。入場料や交通費のことを考えると、若い頃のように気軽にというわけにはいかない。今回は都美術館だったのでシニア料金で見ることができた。

イタリアルネッサン期、大富豪メディチ家に手厚く庇護されて、芸術が花開いた。今回の展覧会には、ボッテイチェリと、その師であるフィリッポ・リッピの作品が中心をなしている。題材は聖書に基づいたものがほとんどだが、マリアが抱くキリストの目が、それぞれ違って描かれているのが印象に残った。私は、ボッティチェリの「聖母子(書物の聖母)」に強く惹かれた。あとで、この作品は当展覧会の図録の表紙になっいて、聖母子像の中でも最高傑作のひとつだということがわかった。生涯に生み出された多くの傑作は、20歳半ばで画家が構えた工房で多くの弟子たちに支えられて描かれたものだという。師であるボテイチエリの天分が、作品を傑作へと導いたのだろうか。絵の解説の中に、高校の世界史の教科書に出てきた文学者や哲学者の名前が次々と登場していて、すっかり忘れていた遠い昔のかすかな記憶をたどったりしながら、懐かしい気持にもなった。また、この頃のイタリアの繁栄ぶりを絵を通して実感することができた。 1492年、メディチ家の当主の死とともに華やかな時代は衰退に向かい、ボッティチェリも、最後は借金まみれで死んだとかいったことが解説されていた。それにしても板にテンペラで描いた作品が、何世紀も経た今美しいままに観賞できることに驚いている。 

画像は、1枚だけ買った絵葉書「聖母子(書物の聖母)」をデジカメで撮ったもの。雰囲気だけでも・・・。


朝から活字

2016-01-19 14:40:24 | 日記

January 19, 2016

昨日は珍しく雪が降り積もった。こんな時は家にいるに限る。なんとなく目が重いので、点訳や校正はやめて読書をして過ごすことにした。集中力がないのでいつも2,3冊の本を同時進行で読んでいるため、小説以外はなかなか進まない。『村上春樹は、むずかしい』もそんな一冊だ。 本書では、当然村上氏の処女作『風の歌を聴け』が取り上げられている。このブログでも何回も書いていることだが、私はこの本を初めて読んだときとても心を動かされた。ところが本の内容については全く覚えていない。他の本についても言えることだが、残念ながらまたも年齢のせいだと言うしかない。

で、まず本書を再読することにした。これはすぐに読み終えた。この文庫本の最後に一九七九年五月とあるので、多分私が最初にこの本を手にしたのはその頃だろう。私が40歳になったばかりのころだ。病院の眼科の待合室で、いつ名前が呼ばれるのか分らないような時間に、夢中で読んだことを記憶している。何のために眼科に行っていたのかは思い出せないが、村上春樹の名前は印象に残り、その後刊行された本はいくつか読んでいる。そして今、『風の歌を聴け』を再読してみて、あのときの気持を取り戻しことは出来ない。ただ何となく過ぎていく日常の時間の中で若者がとらえる金持ちと貧者の意識の問題、学生運動や中流意識への冷めた目などは、 今の若者にも共通するものではないかと思う。『村上春樹は、むずかしい』は、またあとで読み進めよう。

今日は、さらに朝日新聞夕刊の連載小説『うめ婆行状記』をまとめて読む。夕刊の小説は何かしっくりこないので読まないことにしていたが、妹が面白いと言っていたので、過去の分も切り抜いて一から五までまとめて読んだ。作者の宇佐美真理さんは連載が始まる前に亡くなられて、遺作になった作品とか。挿絵も楽しく、次の回が待たれる。今日はどんな物語の進行があるのだろうか。

夕食後は、次回の読書会の本、浅田次郎『姫椿』、『月のしずく』(文春文庫)のうちの、『月のしずく』を読み始めよう。市井の人々を題材にした短編集なので、読みはじめれば集中できそうだ。『姫椿』の方はすでに読み終えている。今まで読んだことがない作家だが、愛読する人が多いと聞いている。
 
画像は、先日友人宅にお邪魔した折、駅からお宅までの道筋の花屋さんで見かけて持参したもの。肥料を与えたら次々と花が咲きましたと、メールで送ってくださった。サクラソウ科の「プリムラ・ポリアンサ」、いろいろな色があるが、どれも人をはっとさせるような鮮やかな色で、毎年一鉢は求める。ワンコイン以下で買える安い花だが、どことなく品がある。

 


映画『黒衣の刺客』

2016-01-16 16:31:05 | 日記

January 16, 2016

図書館に本を返しに行ったついでに、「アルテリア・シネマ」に立ち寄り、来週見ようかなと思っていた映画、 2015年 カンヌ国際映画祭監督賞受賞作品、『黒衣の刺客』を見た。こんなつれづれなるままにの生活を送っていていいのかしら、と思いつつの日々である。日本の俳優、妻夫木聡が出演しているということは知らなかった。いい映画だという前評判を聞いていたことと、パンフの主演女優の美しさに魅かれたことが、いつも敬遠している中国映画を見ることになった理由だ。

唐時代末期の辺境で、刺客として育てられた娘が、暴政を続ける武官の暗殺を命じられる。しかし、かつての許婚であり、親族のひとりであるこの男にどうしても止めを刺すことができず、暗殺者としての自分の中にある情愛や、人を殺めることの意味に悩む。あらすじはこういったところだが、そういった物語よりも、美しい画面に圧倒された。白黒の画面から突然カラーに変わり、唐代の鮮やかな衣装をまとう人々、木々のざわめき、水墨画を思わせる広大な風景、これぞ映画だと納得させられる映像を満喫できた。室内や庭園は、日本の寺院でも撮影されたと、パンフにあった。少しなじめない雰囲気の映画だったが、たまにはこんな映画も面白い。

予告編で、友人がブログで紹介されていた『消えた声がその名を呼ぶ』が上映された。100年前のオスマン帝国によるアルメニア人虐殺を題材にした映画だ。私としてはこちらの映画の方がしっくりいくようには思うが、今月は『パリ3区の遺産相続人』を見ているので、予告編で我慢しよう。たまたま住まいから歩いていけるところにある映画館なので気軽に立ち寄っているが、電車に乗ってとなると、おっくうになるかもしれない。

画像は、この映画のパンフからトリミング。

 


図書館

2016-01-11 09:50:22 | 日記

January 11, 2016

少しブログの更新が遅れてまった。毎日が飛ぶように過ぎていく。友人のブログを覗くと、新しい本、イ―ユン・リー『独りでいるより優しくて』について書かれている。早速図書館に予約しようとしたが、ひとり10冊の限度を超えていたので、昨日予約した池澤夏樹『砂浜に坐り込んだ船』』(新潮社)を取りやめて、この本を入れた。まだ20人以上待ち人がいてすぐには手元に来ないが、それが図書館のシステムだ。池澤夏樹の本は、次の次に回ってくる読書会の私が担当する本にどうかと思った本だ。これは自分で買ってもいいだろう。

私にとって、図書館は不可欠だ。最近業者が入ったりして、以前のような図書館の雰囲気が無くなってはいる。私が利用している最寄りの図書館も、大手の書店が入るようになった。市役所と書店、両者の関係がどうなっているのかは分からないが、あちこちにあった椅子の数が極端に減っている。不特定多数の人の憩いの場になることを避けているのだろう。本を選んでいるわきでおじいさんがいびきをかいて寝ているという状況は私も嫌だった。しかし、あまりにも機能だけを優先すると、これからの高齢化社会における差別ともつながるのではないかと思ったりもする。排除されるのは、まずは私自身である。

日にちが戻るが、1月8日に、3ヵ月に一度の眼科の定期検診に出かけた。いつものようにいろいろと検査をして、最終的に担当医からは特に変わりはないが、少しでも変だと感じたらすぐに連絡するようにとのことで、また3ヵ月後の予約をとってもらって診察は終わった。最近の医療は、まずは最新の医療機器を使った検査から始まる。眼科の場合、医師はそのデータを大きな画面で見て判断し、手元にある機器を使って目を覗き、それで診察が終わる。私が右目が重いとか頭痛がするとかいったことには、特に変化はないという一言で片づけられる。この担当医が悪いのではない。むしろいつも誠実に対応してくださって感謝し、また信頼はしている。しかし誰もがかの有名な「井上眼科」に通えるわけではない。毎回少し不安を残しながら病院を後にする。本も読め、点訳もでき、日常生活に不便はないのだ。ぶつぶつ言わずに前に進もう。

画像は、友人のメールから「冬牡丹」。鎌倉・鶴岡八幡宮の牡丹苑で撮られたとのこと。


映画『パリ3区の遺産相続人』

2016-01-06 20:58:12 | 日記

January 6, 2016

1月6日(水)
毎日出歩いているようで恥ずかしいが、暖かいお天気もそろそろ終わりそうなので、体が動けるうちにとあちこち出かけている。今日は、アルテリア・シネマで、映画『パリ3区の遺産相続人』を見た。内容は、フランスの遺産相続についてのちょっと変わった法律、「ヴィアジェ」が絡むお話、特にどうということではない映画だが、アカデミー賞俳優たち、マギー・スミス、ケヴィン・クライン、クリスティン・スコット・トーマスのすばらしい演技とパリ市内の映像が目の保養になった。新年にこんなヒューマンな映画を見れてよかった。「ヴィアジェ」については、パンフの解説を引用させてもらう。「フランスに200年前から存在する不動産売買システム。その特徴は、不動産を売却しても売主は亡くなるまで住み続けることができることで、買主は売主が亡くなるまで、毎月一定の金額をローンの代わりに支払い続けける。売主がすぐに亡くなれば、買主の負担は少ないが、長生きした場合には容易に不動産が手に入らないケースもある。」お国変われば法律も様々だが、所有者意識の強い日本ではちょっと考えられないかもしれない。

夕方、若い頃に開いていた英語教室に来てくださっていたお嬢さんが、何年振りかで訪れて下さった。車を駐車できないので、お玄関先での立ち話だったが、うれしかった。お嬢さんといっても、今は立派な奥様であり、お母様である。この方は、私が何も分らないままに、生活のために始めた教室の最初の生徒さんだ。もうすぐ40歳になるころのことであり、私はまだまだ若かった。胸にこみ上げる思いを言葉で伝えることはできないが、これも新年の贈りものだろう。

画像は、映画のパンフから。


『わたしたちが孤児だったころ』

2016-01-04 16:08:19 | 日記

January 5, 2016

1月4日(月)
昨年末から読みはじめていたカズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』(早川書房)を読み終えた。文庫本で530ページ、かなり読みでがあった。箱根駅伝を見たりしていたのでなかなか集中して読めなかったが、本の内容が拍車をかけてくれた。今日は朝から読み続けた。面白かった。主人公・クリストファーの記憶をたどって、ロンドン、上海と舞台が移り変わる。読み進めている間に、心情を共有するところがあると思うと、たちまち裏切られて、自分とはまったく無関係な世界へと話が移っていく。時代背景についても同じことが言える。話が1930年から始まり1958年で終わっているということは、1937年生まれの私とはどこかで歴史が一致する時があるが、遠いフィクションの世界でもある。そんなわけで、久しぶりに小説を読んだという気分でいる。本書を読んだ人にしか分からないことだが、クリストファーが、失踪した母親に物語の最後の方で再会する場面の突き放したような描写は、カズオ・イシグロの作品に共通して見られるものだと感じた。

1月5日(火)
たまプラーザで、久しぶりに友人と会い、楽しいひとときを過ごした。先日お会いしたときにお話しされていた、日野原重明氏が書かれた「日本点字図書館と本間一夫」という記事が掲載されている岩波書店の広報誌『図書』をお借りした。以前、このブログでも触れた田中徹二『不可能を可能に』(岩波新書)の内容と重なるところがあリ、私がすでに知っていた内容だった。しかし、人々が活字に触れる機会はさまざまなので、こういった内容については、多くの人々が目にすることはいいことだと思う。私は、点訳を始めてからまだ10年未満、日本の視覚障害を取り巻く状況、長年点字や音声を通してボランティアとして尽力されてきた方々の御苦労などについて知るようになったのも、活字を通してである。点訳は私の生活のほんの一部ではあるが、それでも知らない世界に一歩踏み込んだように思っている。また、昨年来右目が不自由になっていて、そんな日が来ないことを祈るが、もしかしたら点字を読めて良かったと思うことがあるかもしれない。まとまりのないブログになってしまったが、今回はこの辺で。

画像は、市役所構内で。

 


新しい年に

2016-01-01 09:50:59 | 日記

January 1, 2016

明けましておめでとうございます。たとえ一人の生活でも 、年越しのそばと新年のお雑煮は欠かさない。育った家での、鶏肉となるとと小松菜を入れたあっさり醤油味の澄まし汁に餅を加えた雑煮を作って食べる。少し作ってあったお節もどきも皿に盛る。シューベルトの「未完成」と「死と乙女」が入った大好きなCDをかけながら新年を迎える。今年は眼の保護も考え、テレビはやめて出来るだけ耳から入る音で生活を楽しもうと思う。

新聞をゆっくり読む。国際欄、「世界はうたう」というコーナーの記事に心を打たれた。白人至上主義の男に射殺された牧師の追悼式に出席したアメリカ大統領・オバマ氏が、スピーチの途中で沈黙ののち、「アメージング・グレース」を伴奏なしで歌い始め、たちまち総立ちの大合唱になったというもの。新聞には、「独立宣言で『平等』をうたった米国は今年、建国240周年を迎える。7年前、初のアフリカ系大統領として華々しく就任したオバマ氏の任期は残り1年、彼が掲げた『一つのアメリカ』の理想は、いまだ遠い。」(朝日新聞、2016年1月1日)とある。しかし、差別の問題はどこにでもあり、ヒトラーの例をあげるまでもない。昨年暮れの日韓の合意後もくすぶり続けている慰安婦問題も、自国の民が他国の民よりも優れているという間違った意識から来ている。さらに言えば、これは個人の問題にも発展していく。私自身の心の中にもある差別意識を乗り越えるもの、私は他人への尊厳の心だと思うが、それを実行することが難しい。
 
新年から堅苦しいブログになってしまったが、何か今年は笑顔だけでは超えられない1年が待っているように思える。面倒がらずに、世の中と真摯に向き合っていきたい。次に、歌人・大西民子の歌集『印度の果実』から2首引用させていただく。
 
      何を待ちてゐるわれならむ地球儀はひと回りしてまた海の青
      
      隙間より何見て終ふるわれならむ時の流れの速くなりつつ
                               
                                   (大西民子『印度の果実』短歌新聞社)
 
画像は、友人のメールから、「すいせん」。香りが漂ってくるようだ。