私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

新しい世代

2016-05-28 09:17:57 | 日記

May 27, 2016

5月26日(木)
以前いくつかの点訳の会に属していたときには、例会とか勉強会とかいった名目で東京に出かけることが多く、少しわずらわしかった。英和辞典の点訳1本に絞った現在、月1回の勉強会が待たれる。そして今日はその例会兼勉強会が、武蔵境の駅前の「武蔵野プレイス」という建物であった。これまで利用していた練馬の場所と違って駅に近いうえに、なかなかきれいなところだ。利用料は少しお高いとのことだが、今こういった会議室・スタジオ・ギャラリー・ワーキングデスクを備えた場所が中央線の駅近くに次々とできている。図書の貸し出しなどもされているようだ。特に雑誌類は外国語のものが多かった。「国際基督教大学」が近くにあるからかもしれない。家に閉じこもっていては分らない世の中の一端を覗かせてもらっている。

今日は、伊勢志摩サミット開催の日だ。7ヵ国の首脳が会議場に向かう様子を映し出しているテレビを見てからあわただしく家を出た。首脳たちは40代、50代と若返っている。今世界の政治を動かしているのは、この年齢の人々なのだ。すっかり自分の年齢を忘れていただけだ。さらにいえば、皆背が高くて美しい。安倍首相の顔はあまり見たくないが、この方も背が高いことでは劣っていない。まあ少しミーハーな気分になりながら、画面を見ていた。肝心の勉強会は、いつものように自分が携わっている部分の質問等で終わり、この建物の1階にあるカフェでコーヒータイムをして帰宅した。

5月27日(金)
この頃東京まで出かけると疲れる。帰りが帰宅ラッシュとぶつかったこともあり、重い荷物を持ちながら武蔵境から新宿まで立ちつづけたことが原因だ。こんな些細なことでと情けないが、これが年寄りの冷や水というのだろう。伊勢志摩サミットは無事に終わったようだ。テロの警戒など、莫大なお金を使って日本で開催する必要があったのかと、いつものように疑念が頭に浮かぶが、それはそれとして、日本で開催されたから私たちが興味持つということもあるだろう。また、日本がたとえ小さなニュースであろうと世界のメディアに登場していることは悪いことではないだろう。さて、今日はオバマ大統領が歴代のアメリカ大統領のなかで初めて広島を訪れるということで、4時ごろからテレビに釘付けになった。広島・長崎への原爆投下、東京大空襲、沖縄戦など、第2次世界大戦の終了の年に日本国内で起こった出来事は、多くの民間人の犠牲者を出している。あの戦争で苦しい生活を経験したひとりとして、心の奥にとどめておきたいことだ。同時に、日本の国内にあったあの戦争の原因を追及することも忘れてはならないだろう。アメリカ大統領の広島訪問だけでわきあがっている日本の姿に、中国や韓国の人びとが違和感を抱くであろうことにも目を向けたい。悲劇を繰り返さないためには、人々が浮かれることなく、今安倍内閣が表面下で進めようとしている戦前へのノスタルジーのようなものを、冷静な目で見ることも必要ではないか。世代が変わっていくことを実感しながら、そんなことを思っている。


読書会

2016-05-23 16:57:48 | 日記

May 24, 2016

梅雨が近ずく今頃の季節は、空気が重い。今日は都心の友人宅での読書会だった。1時間ほど早く目指す田園調布駅についてしまったので、構内のショップでコーヒーを飲み、あたりを少し散策した。いつ来ても素敵な場所だと思う。本は、スヴェトラ―ナ・アレクセーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)。著者は、2015年度ノーベル文学賞受賞者だ。受賞によって本書がより多くの世界の人びとに読まれたならば、大きな意味があったことになるだろう。本書は、第2次世界大戦の際に、ソ連で従軍女性として独ソ戦を戦った女性たちの体験を、戦後(1948年)生れの著者が訪ね歩いて書き記したものである。文庫本で480ページ、大変な量である。この書物の語り部として登場しているのは、15歳から30歳で、看護兵や軍医も含まれてはいるが、大半は普通の兵士として、銃を持ち人を殺しもした女性たちだ。戦場という特別な環境の中で人間の理性を超えた現実に直面した彼女たちの重い口を開かせ、克明に描き残したこの書の意義は大きい。あまりの残酷さ、悲惨さに目を覆いたくなるような描写がつづき、読みとおすのは大変だったが、こういった機会だからこそ読みきれたのだと思う。しかかし、そういう戦争の暗部を伝えることだけが本書の目的ではないだろう。この記録を担うのは心を持った人間であり、女性である。

著者の視点は色を変えた文字で随所に挿入されていて、これが、本書を単なる聞き書きではないひとつの芸術作品に作り上げている。少し長くなるが、そんな色変わりの文字で記された文の一部を次に引用させていただいて、本書の全体像を少しでも感じてもらえたらと思う。

「・・・戦争に女性らしい日常などありえないと思い込んでいたからだ。そんなことは不可能で、ほとんど禁じられている、と。でも、私は間違っていた・・・まもなく、何人かの会見で気づいたことだが、女性たちが何の話をしていても必ず(そう!)「美しさ」のことを思い出す、それは女性としての存在の根絶できない部分。「その子は棺の中に横たわって、本当にきれいだったわ、花嫁のようだった…」(A・スタロツエワ)・歩兵)、「私はメダルを授与されることになったのだけれど、古い詰襟のシャツ一枚だったの。それで、ガーゼで襟を縫い付けたの。やっぱり白だから。そのとき自分がとてもきれいになったような気がしたわ。鏡はなかったから、見ることはできなかったけど。何もかも爆撃で壊されていましたから」(N・エルマコワ、通信兵)。彼女たちは喜んでこういう娘らしい工夫や、小さな内緒ごと、表立って見えないちょっとしたことについて生き生きと話してくれた。戦時の「男向きの」日常で、「男がやること」である戦争のただ中でも自分らしさを残しておきたかったことを。女性の本性にそむきたくない、という思い。彼女たちは(何と言っても四十年もたっているのに)驚くほどたくさんの細々した戦時の日常を記憶していた。実にさまざまなデイテ-ル、ニュアンス、色合い、そして音を。その日常と女性であるという存在が切れ目なくぴったり身を寄せ合っていて、女性であった時間の流れが意味を持っていた。戦争を思い出す時も、何かそこに出来事があったというよりは、人生の流れの中のひとつの時期のように思い出す。いくどとなく気づいたのだが、彼女たちと話していると、小さなことが大きなことに勝っていて、時にそれは歴史全体より勝ることもあった。(スヴェトラ―ナ・アレクセーヴィチ・三浦みどり・訳『戦争は女の顔をしていない』岩波現代文庫)

画像は、住まいの団地北側の入り口近くで撮った、「つゆ草」。このあたりの環境が好きだ。


生活のリズム

2016-05-19 21:41:17 | 日記

May 21, 2016

図書館に『千年の祈り』を返して、だいぶ前に予約してあった青山七恵『繭』(新潮社)を借りてきた。新聞で取り上げられた新作が手元に届くのにしばらくかかるが、2000円近くするハードカバーがただで読めるのはうれしい。

ユーイン・リーの『千年の祈り』は、先日ブログで触れた同じ作家の『独りでいるより優しくて』と同様、天安門事件ごろの中国を背景に描かれた、表題を含む何編かの短編集だ。著者については、『独りで・・・』を紹介したときに書いたので重複するが、中国で大学教育をうけたのちアメリカにわたって学び、英文で小説を書いている。理科系の大学院で学んでいるときに文学の素養に気が付き、小説や詩を発表したとかで、この短編集も才能がほとばしっている。へミングウェイの作品が頭に浮かんだ。私は若い頃、短編小説の良さが分らずとっつきづらかったが、今は長編よりは短編の方が自分にあっているように思う。本書は、文化大革命後の中国に生きる人々、いわば新しい中国の市井の人びとの生活を描いているのだが、随所に古い歴史を生きてきている中国人の文化の高さのようなものも感じた。世界最古の「紙」は、中国で出土したということをどかで読んだことがある。

さて、今回借りてきた『繭』は、青山七恵さんの新作(昨年8月発刊)で、新聞で紹介されていた本だ。日本の現代作家の本を読むことがあまりないので、こういった機会は利用したい。著者は、2007年に『ひとり日和』で芥川賞を受賞、またいくつかの文学賞も受けている。私は初めて読む作家だ。まだ途中だが、人の心の中に潜む何かを語る描写に惹かれながら読み進めている。

生活のリズムというほどのことではないが、午前中の時間を点訳と送られてくる校正に充て、午後は自分だけのための時間に決めてからは、何かに追われているような日常が解消されて、気分的に落ち着いて生活できている。夕方ウォーキングに出かけると、新緑がまぶしい。今年はもうめぐってこないこの季節を楽しもう。

画像は、横浜の「港の見える丘公園」で撮った「マーガレット」。


おいしいものが食べたい

2016-05-15 08:17:25 | 日記

 

May 15, 2016

さわやかな五月晴れが続く。5月15日はヨーグルトの日だという。まだ始めて間もないが、妹に教えてもらった、粉末種菌から作ったヨーグルトを種にして自分で牛乳を加えて発酵できるカスピ海ヨーグルトが気に入っている。加齢とともに腸の具合があまりよくなかったが、このヨーグルトを使い始めてから調子がいい。花粉症が治ったとか、がんの予防になるとか、ヨーグルトの効用は大きい。私も遅ればせながらヨーグルトの世界に足を踏み入れ、満足している。

日曜日、新聞の読書欄の下にある広告はよく目を通す。紹介文を読んで図書館に予約したり、読んだ気になることもある。今日は、朝日選書の牧原出『「安倍一強」の謎』と荻原博子『隠れ貧困』に注目した。前書には、「アベノミクス、安保法制などには反対が多いのに、なぜ支持率は下がらないのか。一つには「大きな改革」をしないから、一つには「半分民主党政権」だから。政治学の旗手が歴史的視点から鮮やかに読み解く!」、後書には、「贅沢してないのにお金が貯まらない 「危ない会計」の診断と、教育費、住宅ローン、老後資金の3大出費を確保するマネー術。」(両書の紹介文は、朝日新聞、2016年5月15日広告から)とある。どちらも私には納得がいくものだ、そして、多くの人が思うことは同じだろう。

さて、昨日野菜売り場で青梗菜が2束100円で売っていた。青梗菜は長い間私には文鳥の野菜だったが、早速購入した。青梗菜のレシピをみると、エビやアサリと組み合わせた料理が多いなかに、「ミニ青梗菜と卵のラーメン」というのがあった。少量のネギと青梗菜を炒め、塩味のだし汁にごま油と卵を落とし、ゆでた麺の上にかけるというもの(『栄養と料理』2005年1月号別冊付録)。表題の「おいしいもの」はもっと別のものを指しているのだが、身近な手作りの中にもおいしいものがあった。これからしばらくランチはこれにしてもいいかな。

画像は妹のメールから、「シラネアオイ(白根葵)」。下の花々も、庭で撮ったものだという。きれいなので載せさせてもらった。一番上の花は、「オルレア」という花だそうだ。

     

     

     


横浜へ

2016-05-11 08:11:48 | 日記

May 10、2016

お天気が心配だったが、予報に反して薄日がさしてきて、まずまずの外出日よりだった。読書会の友人たちと、横浜にある神奈川近代文学館で開催されている「100年目に出会う 夏目漱石」展に出かけた。没後100年ということで、今年は漱石がずいぶん話題になっている。この展覧会もその一環である。作品の原稿や書簡などが中心で、しかも薄暗い照明の中でたくさんの文字を読んだので、さすがに疲れた。講読している朝日新聞に連載されている『吾輩は猫である』を読みながら、100年経っても少しも失われていない新しさに驚いているが、展示されている自筆の漢詩などをみると、やはり明治の文豪の筆だと改めて感心した。英文の文字も美しかった。

文学館のある「港の見える丘公園」の満開の薔薇を満喫し、バスで中華街に戻り遅い昼食をとった。中華料理を3人で分け合い、おしゃべりも出来、楽しいひとときだった。今日参加できなかった読書会のメンバーの友人と、別の機会にまたゆっくり横浜を散策してもいいなと思った。関内駅への途中にある「横浜市開講記念館」にも立ち寄った。この建物が素晴らしかった。横浜の開港50周年を記念して明治42年に建設されたという。国指定の重要文化財になっている。案内してくださった女性からは、大正12年の関東大震災のときに消失され再建されたという言葉が多く聞かれた。レンガ造りの外観だけでなく内装やステンドグラスなど、どれも見ごたえのあるものだった。やはり横浜という街は異国情緒が漂うところだ。

話題が変わるが、朝日新聞に連載されている小説・沢木耕太郎『春に散る』を毎日楽しみにして読んでいる。今朝読んでなるほどと思った個所を次に引用させてもらおう。

「・・・打たれても向かっていく。倒されても立ち上がる。死んだ会長もトレーナーの白石さんも、そういうボクサーを嫌っていた。打たれないで打つ。倒されないで倒す。でも、実際にぎりぎりの戦いをしていると、打たれるとわかっていても打ちにいかなくてはならないときがある。あのインサイド・アッパーも一歩間違えば倒されてしまう。ボクサーはその恐怖を乗り越えて打ちにいく。観客はその勇気にカネを払ってくれるんだ・・・」(朝日新聞、2016年5月10日)

前後関係がない引用なので分りづらいところがあるかもしれない。また今後のこの小説の展開がどうなっていくかは分からない。しかし、テレビ観戦ではあるが、私がボクシングに興味を抱く気持に通じるところがあると思ったので記してみた。

画像は、「横浜市開講記念館」のステンドグラスのほんの一部。どれも素敵だったが、光が邪魔をして全体の写真がうまく撮れなかった。一部ではあるが、カモメは横浜を象徴する鳥だ。


ピアノ演奏会へ

2016-05-04 18:24:12 | 日記

May 4, 2016

友人の音大の時代の1年先輩の方の演奏会に出かけた。私と同じ歳の友人の先輩ということは80歳である。個人的な練習発表会のような小さい演奏会なのだが、ベートーヴェンのピアノソナタ作品31-1,2,3全3曲、10楽章を休みなしに続けて弾かれた。プログラムには、「ベートーヴェンの偉大な思考の一端をうかがう挑戦をいたします。」とあった。音楽は好きだが無知に等しいのでよく分らないが、10楽章を続けて弾かれるその集中力と暗譜力にただただ感心した。夜来の大雨と風で、前日には友人とやめようかと話していたが、朝になると五月晴れで、出かけて本当によかった。連休でもどこに出かけるわけでもない1日、思いがけず有意義な時を過ごすことができた。

画像は、よく素敵な花の写真をメールに添付してくださる友人からの「薔薇」。薔薇はやはり花の女王だと思う。

        


誕生日を過ぎて

2016-05-01 12:05:51 | 日記

May 1, 2016

昨日は79回目の誕生日だった。自分では忘れがちになるような記念日だが、お花をいただいたり、ランチに招待いただいたり、メールをいただいたりと、勝手気ままに暮らして来た者にとっては、感謝の気持ちでいっぱいである。70代は、点訳の講習を受け、いろいろなグループにかかわりながら、実際の点訳ボランテイアに参加して過ごした日々だった。もちろん、それまでに続けてきた読書会や大切にしている日常は出来るだけ壊さないようにしてきたが、右目がほぼ用を足さなくなたことや、新しい人間関係に悩んだりした歳月でもあった。紆余曲折はあったが、点訳は、やっと納得のいく『英語辞典』の点訳グループにたどり着くことができ、今後も現在の状況が続いていくだろう。来年は80歳の坂を越えなければならない。特別なことがなにもない誕生日を迎えられたことに満足したい。

図書館から借りてきていた、イーユン・リー『独りでいるより優しくて』(河出書房新社)を読み終えた。作者のリーは、生物学を学ぶために北京大学に入学する。天安門事件があったせいで新入生は思想教育として一年間軍事訓練を受けさせられた経緯もあり、大学卒業後の1996年に渡米しアイオワ大学で免疫学を学ぶ。博士課程まで進んだが、詩や小説を英語で書くようになり、進路を変更して同大学の創作科に編入し、短編集『千年の祈り』で数々の賞を受賞、その後も小説の執筆を続けている。本書は、天安門事件、急速に経済大国になった中国の変貌なども背景になってはいるが、テーマは、人間の孤独と優しさが織りなす心理劇だ。

高校時代に一緒に過ごした男女のひとりが毒をもられる。高校生の3人のうちの誰かが犯人だと思われるのだが、事件は迷宮入りとなり、2人の女性はアメリカに去る。毒の後遺症で再起不能になった女性が21年後に亡くなり、北京に残った3人のうちの1人の男性が、その女性を荼毘に付すところから小説は始まるが、事件後の3人の心の重荷を背負った長い年月の生活が、物語の中心となっている。舞台が過去と現在の間を往ったり来たりするうえに、ルビはふってはあるが3人の中国名の漢字になかなかなじめなく、だいぶ手間取ってしまった。高校生という若い年齢で抱えてしまった事件は、3人の人物が、普通の日常の中で孤独から脱け出せずに、ある意味では別の毒の後遺症に苦しむような生活を送ることになる。しかし私はこの心理劇の中に、自分も含まれている錯覚に陥った。こういった衝撃的な事件でなくとも、若い頃の小さな心の傷が人を超えられない孤独へと導くこともあるのではないか。小説の中では、主人公のひとりが、元夫の死に直面して、他者とのかかわりの中に孤独を超える優しさを発見する。これが本書の題名になっているらしいが、私はこういった発見がない者は、寂しい心を抱えて生きていくのかと、やるせない気持ちになった。最終的に3人のうちの2人が再会し、犯罪の真実が明かされるミステリ性もあり、なかなか読みでのある本だった。『千年の祈り』を図書館に予約した。

画像は、ハナミズキの花を接写で撮った。住まいのある近くは街路樹がハナミズキで、今の時期、見上げると白とピンクの花が美しい。