私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

せみ時雨を聞きながら

2021-08-02 08:12:42 | 日記

August 2, 2021 

          

毎年感じることながら、今年もせみ時雨が騒がしく感じられる時期になた。84歳、経験して初めて知る全身の劣化だ。物忘れが・・・などは可愛いものだ。100歳まで生きた母のことを考えると、生きていることがずいぶんつらかったのではないかと、今頃になって思いやる。晩年を妹の家族と過ごした母は幸せだった。今、私のように老齢で独りで生活している人は多い。私の住む場所の自治体は、福祉の点では進んでいるところだ。しかし私が今頭の中にあることは、いかにして他人に依存しないで生きていくかということだ。難しい問題だ。

昨日は久しぶりに駅前の本屋をのぞいた。最近は欲しい本はネットで頼むので、本屋さんに足を運ぶことが少なくなった。実際たくさんあった本屋も次々と閉店し、今は、1店舗だけだ。さまざまな店が並ぶビルの一角だが、オアシスという言葉を使ってもいいだろう。『アルカリ色のくも』(NHK出版)という本を買った。「宮沢賢治の青春短歌を読む」という副題がついている。オリンピックには反対だったが、実際にテレビで競技が放映されると、テレビにくぎ付けになっている自分がいる。そんな日常を断ち切って、読書三昧に戻ろう。

 


うっとうしい日々

2021-07-03 17:33:08 | 日記

July 3, 2021

            

いつの間にか7月に入っていた。わたしだけの感じなのかよくわからないが、昨年までは、7月といえば夏のイメージしかなかったが、今年は何かおかしい。家の中にいると、冷ッとしたものを感じることがある。さらに言えば、この感じは、日本中、いや世界中を覆っているような気さえする。小さな窓からのぞいている外の世界で、何が起こているのかは分からないが、得体のしれない不安を感じる毎日である。

さて今日は、今私が直面している現実、加齢について書いてみよう。昨今の私の物忘れは異常である。記憶しておかなければならないことは、そこら中に紙に書いて張ってあるが、それでも忘れるのはどういうことなのか。最近は、出かけるときに、買い物するものや、済まさなければならない用事を紙に書いてそれを携帯して出かけることにしている。それなのになぜか、一番重要なことを忘れて帰宅してしまうことが続いている。このあたりの忘却のメカニズムについては、お手上げというところである。知り合いが、駅の階段でつまずいて転んだという話を聞いた。大事にならずに済みほっとしている。これも年よりの身によく起こることで、気を付けたいと思う。今年もすでに半分は終わった。のろのろと暮らしているうちに時は過ぎていく。コロナ禍゚の中、読みたい本が机の上に山積みしてあるが、なかなか進んでいかない。集中力の欠如である。その中で、昔読んで内容はすっかり忘れてしまった、カミュ『ペスト』(新潮文庫)を読んでいる。読後感は、ブログで触れたい。

画像は、なかなか新しいものが使えず困っている。スマホで撮ったものがたくさんあるのに、スマホからパソコンに画像を映すやり方が分からない、というか忘れてしまっている。どなたかに教えてもらおうと思っている。


パーマをかける

2021-06-23 11:03:00 | 日記

June 23, 2021

                                  

髪のスタイルは、いつもショートで決めている。長く利用している近くの美容室、パーマが3,300円、カットだけだと650円という安さだ。リーゾナブルを通り越した値段だが、この美容室を利用してから長い。その代わり、いわゆる女性の心をそそるようなおしゃれな備えは何一つない。ひとそれぞれではあるが、美容師さんとのおしゃべりもないし、私にはまたとない場所だ。多分店主の考え方なのだろう。結構流行っていて、長時間待たされることが多い。同じ場所に長く暮らしていると、なじみのお店もできる。しかし私は、どのお店の方とも長話をしたことは1度もない。いわゆるフレンドリーな性格ではないのだろう。私が今まで一人暮らしをしてきた遠因のようなものが、このあたりにあるのかもしれない。

寄る年波で、そんなことを考えたりする日々だが、暇でもない。締め切りがないとはいえ、預かっている点訳をいつまでも手元に置いておくわけにはいかず、朝からパソコンに向かった。以前はすべて記憶の中にあったちょっと複雑な点訳が突然わからなくなり、前にやったファイルを調べたりする回数が増えて、いままでの倍の時間を要している。同年代の点訳仲間と話すと、同じような言葉が返ってきて、安心する。ここが我慢のしどころで、自分にできる範囲の中でという決まり文句を頭の中で唱えている。

夕方、最近読んで面白かった本、デイーリア・オーエン『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)と『日本の名句・名歌を読み返す』(いそっぷ社)を妹に郵送した。これらの本については、いずれブログで触れたい。この2冊はネットで頼んだのだが、どういうわけか2冊来てしまった。私の打ちミスだが、返品するのも面倒なので、妹へのプレゼントにした。梅雨特有の空が低く垂れこめているうっとうしい毎日、こんな時は読書に限ると思うのだが、どうだろう。


新しい食生活

2021-06-18 14:17:26 | 日記

June 17, 2021

あまり過去を振り返るのが好きではなく、自分のブログも、読み返すということはしなかった。今回ブログを再開する際に、何年か前に1度遠ざかっていたブログの場所で続きを書くことにしたので、何とはなしに過去のブログが目に入ったりする。中止した最後の回の2007年3月のブログでは、「私の1票」というタイトルで、結構踏み込んだ政治的発言をしているのには驚いた。あの頃から時は過ぎて、私は今老境にいる。頭脳から始まり、身体的な衰えはいかんともしがたく、何かに対して戦うエネルギーがない。しかし、身辺を考えると、発言していかなければならないことは多い。まず、コロナ禍の中のワクチン接種、国家が進めている事業でありながら生じている不公平状況について、言いたいことはたくさんある。メディアに振り回されているようで、腹立たしくもある。買い物帰りのバスを待つベンチで聞こえてくる、「もうワクチンは打たれましたか」が、今の市井の人々のあいさつのようだ。そうは言いながら、私は、26日にワクチンの再予約の申し込みをするつもりでいる。何回も試みた後の結果だが、その日を待つことにしよう。ワクチンなんかもうどうでもいいという思いもあるのだが。

話変わって、タイトルの食生活について、触れてみたい。記憶はあいまいだが、昨日テレビに、ヴィーガン料理の資格を持つというご夫婦が、登場していた。初めて聞く言葉だが、世間には知れ渡っている料理法のようだ。私の今直面している問題の答えがあるように思えて、見入ってしまった。興味を覚えたので、ネットで少し調べてみた。ヴィーガン主義とは、「人間ができる限り動物を搾取することなく生きるべきだという主義」だという。あまり堅苦しく考えたくはないが、野菜中心の食生活を心がけてみようと思い立った。で、冷蔵庫を片付けるのに2時間ほどかかってしまった。いかにだらしのない生活を続けてきたのかと、我ながらいやになっている。それでも前に進むにはきっかけが必要だ。冷蔵庫の中がすっきりしたところで、ヴィーガンまがいの生活をスタートさせよう。テレビに出ていたご夫婦のような美しい体形になることを願って。


ラジオ・深夜便

2021-06-15 18:26:28 | 日記

June 15, 2021

眠れぬままに、ラジオ深夜便を聞き、いつのまにか寝るというというのが、私の1日の終わりだ。昨夜は、今朝になるかもしれないが、カズオ・イシグロの作品の訳者である、土屋正雄氏が登場していた。途中で眠ってしまったようで、記憶があいまいで申し訳ないが、お話は興味深かった。私たちは、土屋氏の訳でカズオ・イシグロの作品を読んでいるのだから、当然、そこには土屋氏が存在している。しかしあまりそういうことは考えたことがなかった。改めて土屋氏の語ることばを聞くと、翻訳者の姿が見えてきた。海外の作品を読むことが多いので、これからは、翻訳者を頭に入れておきたいと思った。

私が年をとれば、友人も年を取る。「人の振り見て我が振り直せ」ではないが、いろいろと考えさせられることの多い日常だ。私の当面の問題は、記憶力の劣化だ。それもそのスピードの速さには、我ながら恐怖さえ感じる。特に一人暮らしで、近くに親族がいないので、なかなか緊張を強いられる日々だ。最近は目に見えるところに、忘れてはいけないことを書いて張り付けている。小さな黒板もあるのだが、どうもそれでは足りないようになってきている。困ったものだ。

ブログを再開しての発見は、記憶が持続しないので、何か書きたいことが思い浮かんだら、すぐにパソコンに書き込むという早業だ。まあ見直したり、書き直したりできる範囲の中でのことだが、どこまで続けられるだろうかと、足を踏み入れたばかりで、心細いことばかりが頭をよぎる。月並みな言葉だが、まあ頑張ろう。