August 29, 2013
読書会、本は、トルーマン・カポーティ(村上春樹・訳)『誕生日の子どもたち』(文春文庫)、表題を含む6編の短篇集だ。村上訳が、本書の魅力を倍増しているように思う。丁寧で、分りやすく、著者の文学性を伝えているという点でも見事だ。カポーティというと、『冷血』『ティファニーで朝食を』が私たちにはなじみがあるが、少年期の無垢な気持ちを描いているこの短篇集は、現代の作家からはなかなか手にすることが出きない珠玉の小説集といっていいだろう。本書が、偶然ではあるが、私たちの読書会の最後の本になったことも、誇らしく思う。次に、村上春樹氏の「訳者あとがき」を少し引用させていただく。
ここに収められたトルーマン・カポーティの六編の短編小説は、それぞれに少年や少女の無垢さ=イノセンスをテーマにして書かれた物語である。お読みにになっていただければわかるように、そこに描かれたイノセンス=無垢さはある場合には純粋で強く美しく、同時にきわめて脆く傷つきやすく、またある場合には毒を含んで残酷である。誰もが多かれ少なかれ、人生の出だしの時期にそのような過程をくぐり抜けてくるわけだが、中には僅かではあるけれど、成人して歳を重ねてもその無垢なる世界をほとんど手つかずのまま抱え込んでいる人もいる。トルーマン・カポーティはまさにそういうタイプの人であり、作家であった。我々は彼のあらゆる作品の中に、まるでボートの船縁から水底に沈んだ都市を俯瞰するように、「無垢なる楽園」の手つかずの姿を目にすることが出来る。(トルーマン・カポーティ『誕生日の子どもたち』文春文庫)
さて、最後の読書会について、少し書かなければならないだろう。1974年5月に始まって以来、途中で退会した方もいるが、今のメンバーは初回からずっと続いている。記録をみると、だいたい年に4回の割合で読んでいるが、長い年月の間には、それぞれの事情があり、1回しか開かれない年もあった。いろいろなことがあったとはいえ、40年近く続けてこられたことは、やはりすごいことだとも思う。今回の読書会でも話が弾み、このまま続いて行けないことはないだろう。しかし、一番年長者の私が、口火を切らせてもらった。私自身来年の自分の姿は、今のままであるとは思えない。支障を抱えたまま続けるよりは、未だ皆が健康に近い状態の時に終わってもいいのではないかと。本の読み方にもさまざまある。今まで一つのテーマでそれぞれの意見を出し合い、腹蔵なく話し合ってきたが、これからそんな状態か続かない時が訪れるかもしれない。コンセンサスを求めるものではないが、立場によって分かり合えないことも出てくるかもしれない。そういったことでせっかく築いてきた人間関係をざらついたものにもしたくない。これからは、読書好きな私たちが、たがいに読んで印象に残った本や絵画や映画を、たまに集って語り合う、そんな風に変えていってもいいのではないか。というわけで、今回で、今までのような読書会には幕が落とされた。始まりがあればいつか終わりはある。みんなで支え合ってきた読書会、そこで読んだ数々の本、語りあった日々を、大切ものとして心に刻もう。
画像は、「月見草」、前の晩に書いたはがきを、朝早く住まいの前にあるポストに投函しに出かけた時、ひっそりと咲いていた。急いでデジカメをとってきて写した。
読書会、本は、トルーマン・カポーティ(村上春樹・訳)『誕生日の子どもたち』(文春文庫)、表題を含む6編の短篇集だ。村上訳が、本書の魅力を倍増しているように思う。丁寧で、分りやすく、著者の文学性を伝えているという点でも見事だ。カポーティというと、『冷血』『ティファニーで朝食を』が私たちにはなじみがあるが、少年期の無垢な気持ちを描いているこの短篇集は、現代の作家からはなかなか手にすることが出きない珠玉の小説集といっていいだろう。本書が、偶然ではあるが、私たちの読書会の最後の本になったことも、誇らしく思う。次に、村上春樹氏の「訳者あとがき」を少し引用させていただく。
ここに収められたトルーマン・カポーティの六編の短編小説は、それぞれに少年や少女の無垢さ=イノセンスをテーマにして書かれた物語である。お読みにになっていただければわかるように、そこに描かれたイノセンス=無垢さはある場合には純粋で強く美しく、同時にきわめて脆く傷つきやすく、またある場合には毒を含んで残酷である。誰もが多かれ少なかれ、人生の出だしの時期にそのような過程をくぐり抜けてくるわけだが、中には僅かではあるけれど、成人して歳を重ねてもその無垢なる世界をほとんど手つかずのまま抱え込んでいる人もいる。トルーマン・カポーティはまさにそういうタイプの人であり、作家であった。我々は彼のあらゆる作品の中に、まるでボートの船縁から水底に沈んだ都市を俯瞰するように、「無垢なる楽園」の手つかずの姿を目にすることが出来る。(トルーマン・カポーティ『誕生日の子どもたち』文春文庫)
さて、最後の読書会について、少し書かなければならないだろう。1974年5月に始まって以来、途中で退会した方もいるが、今のメンバーは初回からずっと続いている。記録をみると、だいたい年に4回の割合で読んでいるが、長い年月の間には、それぞれの事情があり、1回しか開かれない年もあった。いろいろなことがあったとはいえ、40年近く続けてこられたことは、やはりすごいことだとも思う。今回の読書会でも話が弾み、このまま続いて行けないことはないだろう。しかし、一番年長者の私が、口火を切らせてもらった。私自身来年の自分の姿は、今のままであるとは思えない。支障を抱えたまま続けるよりは、未だ皆が健康に近い状態の時に終わってもいいのではないかと。本の読み方にもさまざまある。今まで一つのテーマでそれぞれの意見を出し合い、腹蔵なく話し合ってきたが、これからそんな状態か続かない時が訪れるかもしれない。コンセンサスを求めるものではないが、立場によって分かり合えないことも出てくるかもしれない。そういったことでせっかく築いてきた人間関係をざらついたものにもしたくない。これからは、読書好きな私たちが、たがいに読んで印象に残った本や絵画や映画を、たまに集って語り合う、そんな風に変えていってもいいのではないか。というわけで、今回で、今までのような読書会には幕が落とされた。始まりがあればいつか終わりはある。みんなで支え合ってきた読書会、そこで読んだ数々の本、語りあった日々を、大切ものとして心に刻もう。
画像は、「月見草」、前の晩に書いたはがきを、朝早く住まいの前にあるポストに投函しに出かけた時、ひっそりと咲いていた。急いでデジカメをとってきて写した。